2話:人食いの森ー1
「それでさ、ねぇ! シエルのお姉さんはどこから来たの?」
彼らは枝や下草を踏みつけつつ、日の光すら疎らにしか入ってこない薄暗い森を歩く。虫の音さえも聞こえず、彼らの歩む音か、時々木々が軋む他には全く静かなそこでは、アルケーの声は煩いほどよく響いた。
アルケーはよく喋る人懐っこい少年であった。もしくはただしつこく、人の心が分からぬ少年であった。彼は先をずんずん行くシエルの背中に幾つもの質問をしたのだが、それらには沈黙で返された。
今した質問も、既に何回目かの物であった。しかし、遂にシエルが根負けした。いつかどこかで答えなければ、永遠に質問攻めが続くと考えたのだ。ため息と共に仕方がなくといった調子で応えた。
「北の方……ね」
「わぉ、遥々こんなとこまで。じゃ、その武器は? 僕、こんなもの見たことないや」
「北方国の勇士達はこのように、鎚と鶴嘴を組み合わせた物を好んで使った。氷と霜に閉ざされ、石と岩に阻まれた場所にあるから」
「へぇ、大変な場所なんだね!」
シエルは分厚いマチェットで、行く手を遮る蔦や枝を切り払う。飛び散った水滴がきらりと光った。
肩の荷物を背負い直す。その後ろ姿を機嫌良さげにアルケーは眺めた。
「ね、シエルって強いよね。あの熊さんも、やっちゃったんでしょ? それも当然かぁ。だって、あの"狼"なんだから!」
「……まぁ、あの程度なら」
「凄いな凄いな! 僕だったら一万回死んだって、あんなの倒せないや! あぁでも、今はこの剣があるからなぁ、僕でもいけるかなぁ?」
アルケーは古びたベルトに挟んであった、刃こぼれした剣を抜いて高々と掲げてみる。シエルはその様子に一瞥しただけで、興味無さそうに視線を戻した。アルケーはしつこく繰り返す。
「ねぇねぇ! いけると思う!?」
「うるさい、騒がないで」
シエルは言うが先か、山刀を振り抜くと、アルケーの剣に向かって振るう。硬質な音が響き渡って刀身の半ばから真っ二つに折られ、飛ばされた。剣先はくるくると宙を舞って、近くの幹に突き刺さった。
アルケーの腕はびりびりと痺れ、完全に折られ中途半端な長さになった剣を落としてしまった。そうして、恨めしげな目でシエルを見上げた。
「何するのさ! せっかく拾ったのに……」
「騒ぐな、と言ったはずよ。次は閉じないその口の舌を切り取ればいいのかしら」
「……わかったよぅ、静かにすればいいんでしょ? そんな怖い顔しなくてもいいじゃん……」
怖い顔、という言葉にシエルはぴくりと反応したが、何も言わなかった。覆面や目深に被られた帽子、または眼帯のせいでシエルの表情など、アルケーにはわかるはずもなかったのだから。
シエルは少し足を速くした。数秒間の静寂の後、彼らは少し開けた場所に出た。白い太陽は真上にあって、地面はこの森では珍しく乾燥していた。明るみの中に歩みでると、森の暗さが際立ってまるで見透すことができくなってしまった。
「ね、シエルのお姉さんはどうしてこんなところへ? こんなじめじめした陰気臭いこんなところにさ」
「……手掛かりがあると、近くの集落で尋ね聞いた」
「ふぅん? どんな人だった?」
「おそらく狩人だろう。どのみち、荒っぽい仕事をしている男に違いない。額に大きな傷があったから」
「あぁ、それ、騙されてるよ」
その言葉に、シエルは思わずと言った様子でアルケーの顔を見た。それが面白かったのか、少年はにこにことしていた。
「え……?」
「そのままの意味だよ。僕にはわかる! だって僕も騙されたからね!」
アルケーはえっへんと得意気に胸を張った。
「簡単に言えば罠ってこと。僕もシエルも、騙され仲間だね!」
「……そう、だったのか……」
「いやぁ、まさか食べられちゃうとは思わなかったなぁ。お姉さんも気をつけないと。骨の髄までしゃぶられちゃうよ。例えじゃなくてね」
「なるほど、人食いの森とは森が牙を剥くとかそういう例えでなく、全くそのままの意味だったのか。しかし、用心するにはもう遅いようね」
その言葉にピンとこないように、アルケーが首を傾げていると、有無を言わさずシエルの片腕がアルケーの首を掴み上げる。
そんな筋力なんて全くなさそうであるのに、彼の両足は完全に地面から離れてしまった。アルケーが抗議の声を上げようとしたその瞬間、ひゅんひゅん、と幾つかの風切り音がして、持ち上げられたアルケーの背中に次々と矢が突き立てられた。シエルは少年の体から伝わってくる衝撃がなくなると、アルケーを用済みになった雨避けの布のように投げ捨てて、矢の飛んできた方に向かってナイフを一つ投げつけた。
鋭く一直線に森の暗闇に吸い込まれいき、そして即座に何かにぶつかる鈍い音と押し殺すことのできない、がらがら声の悲鳴があがった。
お返しにと飛来する二本の矢を、流れる動きで抜き払った山刀で切り払う。尋常でない反射神経である。そして、追撃に備えて胸元のナイフに手をかけたまま、暗闇を睨み付けた。と、足元に転がったアルケーが背中の痛みに呻いた。
「いだだ……盾にされるとか、聞いてないんだけどっ……!」
抗議の言葉を無視する。彼女の視線の先、そこには茂みがあって、姿を隠して襲撃するには持ってこいだ。
そもそも、視界の悪い森の中ではどこに何が隠れているかわからなかった。相当の手練れであれば、物音一つ上げることなく木と木を飛び移り、光を避けて走ることができるだろう。シエルは舌打ちした。自分一人であったならこんなヘマはしなかったのに。
と、木の陰から三人の大男が茂みを掻き分け出てきた。獣の皮を雑に鞣したものを纏い、古い麻の服は乾いた泥や古くなった染みが付着していた。
無精髭の顔にはニヤニヤと下卑た笑いを浮かべて、手にはそれぞれぼろぼろのナイフや木を削っただけの粗雑な棍棒、または危険な錆びた鉈を持っている。一人の肩口には、シエルが投げた大振りのナイフが突き刺さり、鮮血とは呼べない、黒ずんだ血を流していた。しかしその顔にはにやにやといやらしい笑みがあった。
真ん中のリーダー格と思わしき、一際背の高い大男がシエルを見て、自分の持っている鉈をバチバチ叩きながら、聞くに不愉快な大笑いを上げた。
「おいおい、ネェちゃんよ! うちのモンに随分ひでぇことするじゃねぇかよ! 女には料理包丁がお似合いよ! こんな物騒なもん持ちやがってよぉ!」
そして、部下の男に突き刺さっているシエルのナイフを乱暴に引き抜き、血に濡れた刃を見せびらかすように掲げた。肩の痛々しい傷からドバドバと血を流し、部下の一人が抗議した。
「いたたっ! 頭ァひでぇじゃねぇか! もっと優しさとか見せたらどうだよ、よりモテると思うぜぇ」
「がはははっ!うるせぇ、余計なお世話だ!」
それは全く八つ当たりであった。シエルの足元で未だ痛みに呻き、自分で矢を抜き取っていたアルケーに投げつけたのである。力任せに飛ばされたそれは少年の頭蓋を容易く砕き、突き刺さった。彼の体はビクンと一回跳ねた後、動かなくなった。
「おぅおぅ、そいつはどうやら不死人じゃねぇか。なんでそんなのと居るのか知らねぇが、まぁ、関係ねぇな。どのみち、ネェちゃんよ、アンタぁ俺達の今日のメインディッシュだからなァ」
「頭ァ、傷野郎は片足欲しいらしいですぜ?」
「あァ? まだ狩りは終わってねぇぜ? そういうのをな、取らぬ女の肉算用ってんだ。へへっ、失敗するわけがないがなァ。ところで、あいつは何で自分から損な役回りを選んだんだ? こっちとしては別に構わねぇがよ」
「なんでも、あの箱野郎が関係あるらしいですぜ。おおかた、腹の減りに負けて齧りついたんでしょう」
「はっ! あいつらしいなぁ。くくくっ!」
大男三人は談笑混じりにじりじりとシエルを囲うように距離を詰める。と、シエルは男達の一人のナイフの刺し傷の血が止まっていることに気づいた。治る過程が早送りされているようであった。それは、肉体の持ち前の回復力が、何らかの理由により、暴走ともいうべきありかたとなっているからだろう。それこそが、歪みである。人は人として、正しい形でなければならない。
「……なるほど、お前達も、もう人ではないな」
「あァ? 何を言ってやがる。俺たちゃ必死に生きてるだけだぜ? 生きるにゃ肉を食わなきゃなんねぇからな。ウサギの罠作ったことねぇか? それと全く同じだぁ。大人しく食われてはくれないか?」
「残念だが、私はまだ死ぬわけにはいかない。お前達の方こそ、大人しく道を開けてはくれないか?」
「けけっ! それはできねぇ相談だ。じゃ、ま、今日の糧に感謝して、狩りをするかね」
その言葉の終わりが、狩りの始まりの合図であった。三人の大男達が一斉にシエルに襲いかかった。棍棒は頭蓋を砕く為に、鉈は腕を落とす為に、ナイフは内臓を掻き出す為に。
シエルは即座に鎚を取り、一つを弾き、突っ込んできた男の肩に足を掛けて跳んだ。そして男達の頭の上を宙返りするように身を躍らせて同時に一人の頭を山刀で切り飛ばす。濁った血が溢れてシエルの銀の髪を汚した。
仲間の血しぶきに面食らった一人の顎の下に、逆手に持った鎚の鋭利な牙状の部分をぶち当てる。簡単に顎の骨を砕き、破れた鼻の内側から鎚の先端が飛び出す。糸の無くなった人形のようにその体は崩れ落ちる。流れる動きで鎚を引き抜こうとしたが、ガチリと骨に引っ掛かった。
それが一瞬の隙を作り上げた。
「糞がァ!!」
大上段に振りかぶって、渾身の力で振り下ろされた鉈が襲いかかる。何を断ち切るわけでもなく、地面に深く突き刺さった。シエルは咄嗟にマチェットを地面に突き刺し、身をよじって避けたのである。
飛燕の動きで男の顔面を蹴り上げ、空いた脇腹に鎚を投げつける。遠心力で加速したそれは男の腹に強かにぶち当たって、それによって簡単によろめいた体を、自由になった右手で掴み引き寄せる。そして間髪入れず、腹に刃を突き刺した。シエルの耳元で掠れた声があがる。
「が……ァ……この、化物……! なんだお前……こっちは三人だぞ……!?」
勢い良く引き抜くと、大男はシエルから少しでも距離を取ろうとするように後ろに倒れた。その目には、怯えと憎悪がある。血が次々と溢れる腹を押さえ、また、ぬるりと赤く濡れる手と女の見下ろす冷たい目を交互に見た。鉈はもう手の届かない場所にあった。
「ちくしょう、くそ、なんで、くそっ! いてぇ……いてぇよぉ……」
シエルはマチェットの刀身を膝に滑らせて血を拭った。そして鞘に収めて、落ちた得物を拾い上げる。
急所を貫いたので、もはや彼の命は消えるのみだ。未だに動けるのは持ち前の生命力からだろう。だが、すぐに、死ぬ。
声は段々と小さくなっていった。だがしかし、彼女の予想とは反し、小さくなった反動のように、今度は突然に燃え上がる炎のように大きくなった。
『いてぇ、いてぇ……! いてぇよ! 糞が! 殺してやる! 食ってやる! 殺しテヤル! コロスコロスコロスゥゥゥ!!!』
シエルが見下ろす中、男は今まさに新たな何かへと変化していた。それは進化か。或いは出来損ないへの変貌か。
体の内から盛り上がった筋肉が、人間の皮も衣服も破り、剥き出しの肉をみせる。それを、あり得ない速度で成長する毛皮が体表を覆った。
未完成のような二本の歪な関節の足で、よろよろと人であった者は立ち上がる。男の顔はもう人の物でなく、飢えた肉食獣のように醜悪に歪み、口腔に収まらなくなった牙が唾液に塗れていた。
その異常な様子は、人からそれ以上の存在への進化をしているように見えた。もしくはそうなろうとして成り損ねたものであろうか。それともただの獣か。どれであるにせよ、そこに在るのは人ではない。凶悪で心の無いひたすらに恐ろしい怪物であった。
モンハンが好きです。弓が楽しいです。