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Undying Prayer  作者: Solne
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1話:不運な出会い-2

 鬼の慟哭のような風音が、深い灰色の森林に響き渡る。木々はざわつき、密かに生きる者達は頭を地に付くほど引っ込めて蠢いた。

 幾重にも重なった葉の屋根から、血のような朝焼けの光が漏れ出ていた。揺らされた葉から朝露が一滴零れ、木の根を枕に眠っていた少年の鼻に落ちる。


「……お? 朝だ、おはよう!」


 目覚めた茶髪の少年は伸びをして、大きくあくびをした。と、喉の奥に引っ掛かりを感じ、痰を吐き出すようにすると、それはべちゃべちゃの生臭い何かの塊であった。吐き出された老廃物や排泄物のようなそれを、ややうんざりした顔で眺める。眠気は吹き飛んだ。世の中にはどれだけ繰り返しても慣れないものはあるのだと、彼は声を大にしたい気持ちであった。

 とはいえ、いつまでも気にしているほど少年は繊細ではない。剥き出しになってしまっている、自らの細っこく白い裸体を隠す何かを探しに立ち上がった。

 幸いなことに、布や衣服の類いはそこらの死体の集積場周りに捨てられていた。肉片のついた骨に声をかけつつ、また借用の断りの言葉も言いながらましな物を拾い上げた。埃や落ち葉、またはこびりついた何かを払って、適当な肌着と茶色い古いズボン、それから黒いローブを纏った。ローブには深いフードが付いていて、少年の体には少し大きい程だ。背中には番の竜が背中合わせに炎を吐き出している紋章が大きく描かれていた。

 更にぼろぼろの編み上げ靴を履き、ズボンのベルトに、落ちていた抜き身の剣を挟んでみた。


「おぉ、中々格好いいかも……ごめんね、ちょっと借りるよ。返せないとは思うけど」


 自分の姿を見下ろして満足げに頷いた。

 さて、今日はどうしようか。最後に背筋をぐーんと伸ばして深呼吸をした。


「ふぅ、今日はどこへ行こうかなぁ! 今日こそは……」


 最後まで言葉を続けることはしなかった。ため息を吐いて、体の挙動を確認するようにあちこちを曲げたり伸ばしたり捻ったりした。その度にぱきぱきと小気味良い音が鳴る。

 少年はどこへともなく歩きだした。言うなれば、風のように。目的もない旅はまだ続く。永遠に終わりは訪れない。目を細めつつ見上げれば、重苦しい厚い雲を透かして太陽の輝きがあった。


「いやぁ、今日もいい天気だなぁ、良かった良かった。足元もよく見えるから、転ぶ心配もないね」


 柔らかな地面を踏みしめて歩く。凹凸はなく、ただ平坦な木々の隙間を縫うように歩く。鳥の声も虫の音すらもない。ただ少年の足音と、重く心地の悪い風の音がするだけだ。あるいは微かに水の音がするだろうか。少年は退屈に思った。しかし、木々の枝の幕が晴れると突然開けた場所に出た。ひゅうっと冷たい風が吹いて彼の髪を撫でた。


「お、湖か! ちょうど良かった、少しベトベトして気持ち悪かったんだ」


 見渡す限りの広大なそれの淵に駆け寄って、キンキンに冷たい水を掬って口に含む。また、顔を洗えば、垢やそれ以外の泥がまるごとこ削げ落ちたようで、少年は非常にすっきりした面持ちになった。次いで体を洗おうと服を脱ごうとして、はたと止めた。


 背中にのし掛かってそのまま押し潰されそうな重圧を感じたのだ。

 全く物怖じせずに振り返る。そこには、熊のような猛獣が。いや、怪獣というべきか。

 山のような巨体は黒く、それを支える腕は右の片方だけが異常な太さであり、先端には不揃いの巨大な爪が地面に抉るように突き立っている。黒い剛毛は針金のようで、例えば剣で斬りつけても、折られるのは剣の側であることは明白だ。

 口角の肉が裂けたように閉じきられていない口からは、大きさも形もばらばらの牙が剥き出しになっていた。顎は見るからに強靭で、例えば少年を五人重ねたとしても、噛みきられるのは当然だろう。赤く二股に分かれた舌はぬらぬらと唾液に濡れ、不気味に斜めに傾けられた頭には爛々と赤く輝く目玉が三つ、扇型に配置されていた。

 血生臭い吐息を吐き出し、右側につり上がったアンバランスな体でゆっくりと歩いてくるのだ。しかし、少年は気圧される訳でもなく、いつものように言った。


「やぁ、熊モドキ君? おはよう!」


 その声が合図だったように、怪獣は大木のような腕を振り上げ、風切る音と共に横凪ぎに少年の体を打った。怪獣にとっては、服に張り付いた虫を払う位のことだったか、或いは道のゴミを蹴飛ばしたくらいのことだったかもしれない。

 しかし、彼は余りにも簡単に、木っ端が風に飛ぶが如く弾き飛ばされ、地面に落ちて転がりそして岩にぶつかってようやく止まった。

 常人であれば即死だ。そして例に漏れず、少年は死んだ。体中の骨という骨、内蔵という内蔵を潰され、声を上げることなく死んだ。

 熊の怪物は狩りの喜びに震えるわけでもなく、また死体に一瞥すらせず、湖に口をつけ喉の乾きを潤した。


 と、不意に首を上げる。それは野生の勘か、それとも未知の脅威への無意識的な恐怖か。

 首を巡らせ、自分自身の盛り上がった筋肉越しに見たのは、強大な獣である彼にとっては取るに足らない、やはりちっぽけな存在であった。

 しかし、だというのに、彼の本能が警鐘を鳴らした。首を捻り牙を激しく鳴らし、地鳴りのような唸りをあげる。全身に力を巡らせ、筋肉は更に盛り上がり、山のような巨体は更に大きさを増す。低く身を屈め、いつでも飛び掛かれる体勢に入る。


 人を、それこそ撫でるだけで殺せる獣が、何を警戒するというのか。


 彼の前に居たのは一人の人間であった。

 体躯は決して大柄というわけではない。すらりとした手足や、細い肩幅から女性であるとわかる。確かに女性としては長身ではあった。高い襟の黒革のコートとズボンを着込んで、烏の羽飾りのついたトリコーンハットに良く似た帽子を目深に被っていた。そこから長い銀色の髪が溢れている。覆面で口元は隠され、黒手袋を填めていて肌の露出は全くない。そして、踵の高い厳めしいロングブーツを履いていた。

 左肩から掛けられたベルトには大振りのナイフが二丁、鞘に収められ留められていた。留め金が鈍く輝いている。

 腰のベルトの左側には婉曲した刃のマチェットを引っ掛けている。その鞘は硬い革で出来ているようで、縁は金属で留められている。しっかりと磨かれてはいるが欠けたり、切り傷が付いていた。

 もう一方は金槌のようなものが下げられていた。その円形のヘッドは人の握り拳程で、それと逆側は、鋭い獣の牙のようになっている。汚れた布の巻かれた柄は人の肘から先くらいの長さで、使い古され何度も修繕された痕がある。ネイルハンマーと似ていたが、しかし工具というよりも、凶器という言葉が似合うほど危険な見た目であった。


 じりじりと距離を詰める熊に似た怪獣に対し、女は変わらぬ歩調でまっすぐ向かって歩く。ただそれだけであるのに、獣の心は大いに乱されていた。

 言葉にするのならば、何故このか弱き者は恐れもせず向かってくるのか。何故強き自らが怯えているのか。飛び掛かって殴り飛ばせば良い。躍り出てくびり殺せば良い。そうであるのに、何故できないのか。彼はそれが、天敵への恐れであることを知らなかった。


 先に仕掛けたのは獣の方だった。飛び掛かるのではく、彼は自慢の強大な腕を振りかぶり、渾身の力で爪を突きだした。

 轟音を上げ豪速の、必殺のそれが女に迫る。

 もしこれを見たものが居るならば、女の命運は既に尽きたと考えるだろう。鋭く硬い爪は簡単に女を切り裂くであろう。獣の膂力に、あっという間に肉塊と化すであろう。

 それが当然、当たり前のことだ。


 しかしそうはならなかった。


 凄まじい威力の爪は、空を切り地面を深く抉るに終わる。

 女が軽やかにひらりと身を宙に踊らせたのだ。コートの裾が広がって烏の翼のようだった。そして獣の太い腕に着地し、一息に駆け上がる。獣は迎撃にと噛み付くが、広がった裾にさえもとどかずに終わる。

 女は走り様に左手で鎚を抜き、獣の背骨に叩きつけた。そして二度、三度。骨が砕ける音がして、彼女の服に血が飛ぶ。

 痛みに獣が暴れるが、女はマチェットを破れた皮に突き立てて支えとする。

 襲い来る腕を最小の動きで避け、お返しにと傷ついた鎚を振り下ろす。硬い音が段々と濡れた音に変わっていき、鎚の鈍色が赤く染まっていく。

 後ろ足が砕けて力無く倒れ伏した獣は、小動物の如き悲鳴を上げるが、女は容赦しない。鎚の反対側、つまり鉤爪のようになっている部分を力任せに振り下ろした。


 聞くに堪えない獣の絶叫が湖に響き渡る。しかし、構わず鎚に力を籠める。ベキボキと骨が肉から離れ砕ける音は、絶え間ない絶叫に掻き消された。灰色の歪な背骨が、彼の背中から無理やり引っ張り出され、ようやく雲の切れ間から出てきた日の光に照らされた。血の噴水を止めるが如く、その傷口にベルトのナイフの内一本を深々と突き刺し踏みつける。

 この怪物がただの獣であれば、これで一巻の終わりであった。彼はただの獣ではなかったのだ。歪みに身を落とし、自覚もなく生き物としてあるべき姿を失ったのだ。

 激痛に怒り、復讐の炎に燃える獣は、腕を背中に伸ばしたり、体を転がせてだだっ子のように暴れるが、身軽な女をかすり傷一つつけることはできない。

 爛々と殺意に輝く三つの目玉をギョロギョロ動かして女を捉えるが、しかし、そのうち額にある目が最後に見たのは、白く輝く光だっただろう。


 女が胸元のナイフを抜き放ち、まっすぐに投げたのだ。遮るものもなく、それはまっすぐに、光のように、目玉を掻き分け深く突き立った。

 悲鳴を上げ、のたうち回る獣の頭にマチェットを引っ掛けて支えにして張り付き、額の目に刺さったナイフの柄を釘のように鎚で力一杯に殴り付ける。刹那、火花が散る。

 今度は悲鳴すらなかった。血飛沫が彼女の服の表面に降り落ちる。だがすぐに吸収されるように消えて失くなってしまった。

 微かに息を吐き出したのが、獣の最期であった。余りにも呆気ない終わりであった。黒い粒子が立ち上ぼり、強大な肉体は、確かに滅んだ。

頑張れます。

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