青蛇の脱皮(仮) 2020/05時点
未完成作です。現時点で書けた分だけ。
いつか完成するかもしれないし、未完成のままかもしれません。
加筆修正はしたい。
死体の描写があります。
性描写があります。
茶髪にしても淡い色合いの髪が視界を埋め尽くし、顔面を洗うようにくすぐる。自分が微睡んでいて、起こされたことに気が付くまで数秒かかった。上体を起こすのに更に数秒。美しい長髪の持ち主は傍らで、脚を崩して座っている。あのふくらはぎのかたちは、この角度だと視界に入らない。
「おはよう」幼い笑い声が混ざった挨拶。多分今は朝ではないけれど、さっきまで眠っていた人間がそれを言うのは憚られる。
「畳の上でこんなに寝ちゃって、身体痛めちゃう」声からは心配等の気遣いは感じられず、愉快そうになっている。「今日はおでかけでしょ? お風呂沸かしたから、せっかくだし入っておいで。ま、シャワーだけがいいなら別にそれでもいいけど」彼女はいつの間にか立ち上がっていた。
「その間に私、軽く何か食べとくから」
「……はい」
甘やかな雰囲気を残して、彼女が離れていく。台所から水の流れる音。
緩慢な動きで、言われた通りに風呂に入る準備をする。卵を割る音と小さな鼻歌が聞こえた。知らない歌だ。彼女の毒めいた甘い香りがする居間を出る。彼女は僕の義姉だ。
六歳年上の兄が結婚したのは二年前で、高校生だった僕はその唐突さに驚いた覚えがある。尤も兄は大学進学を機に実家を出たので、察せなかったのも無理からぬことではある。久しぶりに帰ったかと思ったら婚約者釣れだった衝撃は、受験生の精神に深い混乱をもたらした。それは勿論、そこそこ仲の良かった兄が恋人を飛ばして美しい婚約者を紹介したからであるし、その美しさが、この世のものから乖離していたからでもある。
この世のものではない何かが溶け込んでいるんだろう、と今では思っている。この世のものではあるのだ。厄介なことに。
風呂から上がると、まだ義姉は食事中だった。この人はゆったりと箸を動かし、ゆっくりと咀嚼し、よく噛んで食べるので、食事に時間がかかる。おまけに意外と健啖家。
今日は葱が入った卵焼きに納豆、食べ終わっているので分からないが恐らく漬物と、豚肉を焼いて何らかの味付けをしたものに五穀米だ。僕は余り料理が出来ないので義姉の料理の腕は分からないが、彼女が作るものはいつも美味しそうに見える。
しかし残念ながら、本当に美味しいかは知らない。僕は当然として、兄も。
義姉は人と共に食事をするのを嫌った。それは僕に対しては勿論、夫である兄に対しても、実の両親にでさえもそうであったらしい。食事を共にしなくても、自分が食事をしている対面や隣に座られるのも「本当は嫌」、と。料理店の個室で、義姉が食べている間の同席を許された兄は、義姉の食事中、酒はおろか水を飲むことも許されなかった。そして義姉の食事が終わり、兄が食事をする時には、もう出て行ってしまう。ろくに何も言わず、料理も見ずに。
何度か、義姉とファーストフードの店内利用をしたことがある。注文は一緒にした(奢って貰えた)。まず義姉が自分の頼むものを選び、次に僕が選ぶのだが、義姉と同じものを選んではいけない。そして別々の席に座る。店内が混んでいる時は渋々、本当に嫌そうに同席を許してくれるが、混んでいる時はまず行かないのでレアだ。同席した場合、義姉が食べているのを言葉少なに眺め(向こうは不機嫌なので、余り会話はできない)、義姉が食べ終わってから、僕の食事が始まる。義姉はさっさと他の所に行ってしまう。
残念ながら同席しなかった場合は、でも同時に食事ができる。義姉をちらちらと言うには露骨に見つめながら。義肢は食事に時間をかけるがこっちは食事に集中していないので、食べ終わる時間は余り変わらない。そしてタイミングを合わせて立って、出入り口辺りで合流する。タイミングを合わせるのはこっちで、義姉は気にしない。思い出した時に連絡して合流すればいい、と思っている。
夫婦でもこうやって過ごしていたのだから、計り知れない。義姉は勿論、兄も。
また、自分が作った料理を他人が食べることも嫌がった。僕も兄も、手料理を振舞われたことはない。一度も。彼女は彼女が食べる為だけに料理を作る。例外は白米で、同じ釜の飯を食う、ことは許されていた訳だ。但しこれも白米以外は許されず、炊き込みご飯の類を義姉が作った時は、レトルトかお握りでも買ってくるか、外食するか、になる。
不思議なことに、食事中の義姉を眺めることは許されていた。というより、何の問題もなかった。そして、普通に会話をする。義姉との会話は余り普通ではないけれど。
義姉のこの、食事に関するルールは、大人になってから定めたのか、大人になるまで我慢していたのか、子供のうちから適用していた(そして周りに強要していた)のかは分からない。義務教育で貫くには厳しい行動だが、あの義姉がクラスメイトと給食を摂っている光景はどうやっても想像できない。ただ、義姉の行動を妨げることも、抗うこともできないことは知っているので、幼い頃からそうだったかもしれない、と推測することはできる。その光景は、想像できる。
義姉は田舎の名家のお嬢様だ。今、僕が泊っている家も、元は義姉の実家が所有している別荘のひとつだったという。やっぱり軽井沢にも別荘あるんですか、と昔尋ねたことがある。彼女は子供みたいに笑って、答えなかったけれど。
そんな人が、何故自由恋愛で兄と結婚したのか。経緯は未だに分かっていないが、少なくとも結婚までの父母、義父母のあれこれは順調に進んだ、らしい。
自由恋愛。尤も、兄と義姉に、恋愛感情があったように思えたことは一度もなかった。今もそれは覆されていない。兄が自殺した後も。
初めての話。
義姉との性交を兄に命じられた時、性質の悪い冗談だと思った。少し笑った覚えがある。笑いが抜けないうちに、義姉がのしかかってきた。肩に指が食い込み、太腿に脚が触れて、それだけで身体は動かせなくなる。胸元に優しく触れる唇から、何かが吸い取られる錯覚。何とか口を開いて、声を出す。けれどそれが言葉になる前に、口の中に義姉の親指が侵入した。それを堪能しなければならないので、喋ることはもうできない。喋れたとして、何を懇願していたかは自信がないけれど。
熱情を装う義姉と穏やかに見守る兄に困惑できたのはごく僅かな時間だけで、身体の単純な快感を速やかに精神も受け容れた。義姉が楽しそうに笑い、すぐに反応する。従順に。膨大な快感とあり得ない興奮の他には、悪戯を教えてくれるように笑う美しいひとだけが認識できた。あとは酷くぼんやりしていた。場所も時間も、兄のことも、自分のことも。
早々に達しかけたのを一度巧みに焦らされたが、大して長引くことなく終わった。あっさりと離れていく義姉に脳が動いた気がしたけれど、まだ動けなかったし喋れなかった。ゆっくりと正常な困惑が戻ってくる。義姉は「若いねぇ」と嘘みたいに俗なことを言った。
こうして僕は奇妙な生活の当事者になった。そして、兄が死んでからも抜け出せていない。
居間でボリュームを絞ったテレビをBGMに、企業取引法の教科書を流し読む。断片的に認識できる単語に途方に暮れていると、姉が遊びに来た。おそらく、遊びに。
人の膝下に両手を入れて、持ち上げ、伸ばす。そして足先までするすると移動して、足の甲を指先でなぞったり足の裏を指圧したり、指先をつまんだり、いつの間にか手にしていたウェットティッシュで丁寧に拭いたり、くすぐったり、爪を立てたりした。
右足は終わったのか、左脚の膝に近付くのに気付いて、曲げていた脚を伸ばす。左足も同じように、似たように遊ばれる。何が楽しいんだろう。本は随分前から開いているだけになっているので、諦めて閉じた。テレビは何の番組なのか分からない。掃除なのかマッサージなのか虐めなのか愛撫なのか前戯なのか、上手く認識できなくて身体が困惑しているのを感じる。
やがて左足も終わった。
「……何だったんですか」
脚を畳みながら尋ねる。思っていたより低い声が出た。
「爪の切り方が下手」
けろりと義姉はそう的確な評価をして立ち上がり、何の名残もなさそうに部屋へと去っていく。
両足の裏を合わせて爪先を両手で包み、ゆらゆら身体を揺らす。落ち着いた気がしたので胡坐に座り直し、また本を開く。変わらず、内容が頭に入ってこない。
神様の悪戯で作られた美しいひと。普段冗談を言わない人が変なはりきり方をしたように、浮ついた滑稽さ。不気味で、まとまっていない。不安定で、安らがない。何処かズレていて、超自然。そんな美貌を、表情を、身体を、声を、仕草を、在り方をしている。だから誰も、義姉に惚れるなんてことはない。手元に置きたい、も厳しい。愛するなんてあり得ない。ずっと傍に居るのは余りにも不快で、耐えられない。
ただ、自分の視界が届く範囲に確保したくてたまらない。その為の犠牲はきっと膨大だが、彼女を観賞できるなら何も問題がない。観賞し続け、それだけで済ませられるなら。兄にはできなかったこと。
後期日程で大学に合格した(前期で落ちた)ので部屋探しが遅れたから。入学したばかりは慌ただしいから。急いで部屋を決めるとろくなことにならないから。そんなことを言ったのは兄と時々義姉で、僕ではなかった筈だ。いくらなんでも、大学に兄夫婦の家から通いたいなんて。
両親──僕と兄の──は「新婚さん」に対する常識的な遠慮をしたが、当事者がそういうなら、とあっさり決まった。ちょっとしたら部屋探しの余裕もできるだろうし、と。
一緒に暮らす前から兄と義姉は僕を巻き込むつもりだったし、僕は手遅れだった。だからもう、何もかもが今更だ。体表を滑るように絡みつく義姉に、抗う意味はない。そうして受け入れると、唯一無二の興奮に達し支離滅裂な快楽が訪れる。
腕につけられた歯形が視界に入り、それだけで身体が昂り始めている。
変な時間に寝て変な時間に起きた。具体的には、十六時過ぎと二十三時前。軽い自己嫌悪を済ませ、布団から出る。顔だけ洗って、自転車で一番近くのコンビニに行く。ホットスナックが欲しかったのだけれど多分この時間にはないな、と駐輪場に停めてから思い出し、案の定なかったのでちょっと豪勢なサラダを買った。帰って冷凍食品の唐揚げを電子レンジに。ビールもあるけれど麦茶にして、食卓で飲み食いする。スマホで一線級じゃないお笑い芸人のライブ映像を観ながらなので、そこそこは楽しい。
足音がする。素足のそれは控えめな音しか出さないので、気付いた時には義姉はすぐ近くに居た。
「夜食だ」
「夕飯食べてません」
「寝過ぎ」
仰る通り。横目で義姉を見ると(義姉が同じ空間に居るのに義姉を見ないというのはとても難しい)、やたらまじまじと食卓を眺めている。
「どうしたんですか」
「ご飯食べないの?」
「炊く程でもないかなぁと」
「ええー……酒も飲まないのに」
苦々しい声音だ。義姉はまあまあの和食派なので、主食がないのが気に入らないのだろう。多分。
「その割に肉多いし」
「腹は減ったんで」
唐揚げを齧る。熱すぎない肉汁。冷凍食品、侮れない。
視界から義姉が消える。義姉がしゃがんだから。太腿に顎を載せられて、脚へ背中へと、侵される感覚が手慣れた早さで脳に伝わる。満腹中枢が仕事をするとは思えないが、食べ進める。求められていないから。味覚は多分、正常だ。
僕を見上げている義姉と目が合う。通常通り、義姉が居ない時と同じように食事をしている。恐らく。視線を下げた以外は。視線が絡み合う前に、皿の上を見ることにする。義姉は相変わらずこちらを見上げている。彼女の視線は質量を持つので、見なくても分かる。それは霧のように纏わりついて、染みて濡らす。僕の皮膚へ。そしてあの綺麗な眼球には僕が映っている。囚われている。抜け出すことはできないが、彼女はあっさりと逃がしてしまう。いつも、気まぐれだったとばかりに。
肉ばかり食べてしまっていたので、意識してサラダを食べ進める。義姉はそれなりに高身長だが華奢で、僕は鍛えているとは言い難いが一応は成人男性だ。だから腕力に訴えられなくはない。あの、目。眼球が欲しい、と思っている。勿論、そんなのは恐ろしいとも感じているし、理解もしている。ただ良心や倫理道徳でなく、保身が理由だ。それも、犯罪者になりたくないから、ではなく、欲望からの保身だ。あの人が欲しいなんてのは、間違いなく破滅が待っている。与えられてはいけない。求めてしまった兄は自殺した。破滅の結果の死なのか、破滅しない為の死なのかまでは、分からない。
でも我慢は簡単にできているので、そこまで問題ではない。強いて挙げるなら、抑制の理由で一番効果があるのが義姉であることだ。今までの人生で培われた倫理とかでなく。
支配されている、と思う。思考も、感情も、行動の基準も、義姉に支配されている。義姉にその気がないので、占領されている、と言う方が近いのかもしれないけれど。いずれにせよ、大した問題は起きていない。それくらいは、当然のことだ。
義姉に腹と背中を撫で回されながらの食事は、ちゃんと美味しかった。
義姉が食卓で早めの夕食を摂っている。仄かな夕餉の香りが空腹を刺激する。後で何食いに行こうかな、と思いながら僅かに聞こえる咀嚼や嚥下の音を聴く。もっと音量がある筈の食器の音は意識できない。テレビが付いていないのに気付いて、のそのそ動く。立ち上がっているのに這い蹲る気分で、リモコンに手を伸ばす。掴む。
「××くん」
声に反応して、握力が弱まる。義姉を視界に収めると、薄く微笑んでいる。卵焼きを箸でつまんで。
「食べる?」
食べます、と答えた。でも声は聞こえなかった。義姉が大きくなる。近付いている。食卓に手をついて、親鳥から与えられるように口に入れる。噛んで、歯で潰す。時折混ざる葱の食感。どのタイミングで次を食べたらいいのか分からない。何を食べたらいいのか分からない。義姉を見る。義姉の顔を見る。でも表情が分からない。差し出される。食べ物が与えられる。まだ冷めていなくて、温かい。
皮膚から酷く遠くにある心臓が、動いている。きっと、姉のも。
僕達の食事が終わった。よく覚えていない。
義姉が死んでいる。死体になっている。首吊り死体だ、兄と同じく。足がつかないような高い所ではなく、膝がつくかつかないかの位置で首を吊った。これも兄と同じだ。思っていたより、仲の良い夫婦だったのかもしれない。あるいはこれから、仲の良い夫婦になるのかも。死後の世界。あるかどうかは知らないけれど。
死体になった美しい義姉。それは死んでいる。死んだ、とは少し違う言葉。死んで存在している、死であり続ける。勿論、辞書を引いたら違う、ちゃんとした説明が書いてあるんだろうけれど、別にどうでもいい。義姉の死体は一般の定義からかけ離れているに決まっているし、僕だってまともじゃない世界に居る。
美しい義姉は美しい死体になった。とても、綺麗な。僕は目を奪われ続けている。
理屈では、思考ではこの美しさを否定している。少なくとも生前よりは美しくない、と考えている。スカトロジーは遠慮したいので、身体の弛緩による排泄物の表出はそれなりに嫌悪感を覚えるし、それを含めた死体の匂いは辛くて鼻を摘まんで離れたい、と感じている。それでも未だ、離れられない。あの、抗い難く侵食する声は喪われているし、身体は何処も動かないし、熱を帯びることもない。僕を求める演技もしない。死後そう経っていない状態だから、目玉が飛び出している等は大人しいとはいえ元々の造形の方が綺麗だった、筈なのに──義姉が死んでいる混乱で視線を動かせない訳ではない。どうして、美しいからという理由でこうも彼女の死体に縛られているのだろう。絡みつかれて咬まれたみたいに。
いや、正確に言おう。
青くて美しい、と感じている。
義姉の死体を。全身が視界に入る位置から観賞する。脳に記録する。僕の世界にずっと居続けることは決まってしまっているから。
それから。
どうすればいいんだろう、と普通のことを思った。
2020/09時点
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ちょっと加筆修正しました。