7話 二章 新婚プランナーの訪問 下
アグネシアからもらった香料入りの加工花弁を使用するため、メイドたちがいつもより早い時間に湯の準備をしたので、ティナは夕食後すぐに汗を流した。
おかげで、寝るにはまだ早い時間だった。その足で蔵書室に立ち寄ってゆっくりと本を眺めた後、少し読もうと思って一冊をみつくろって寝室に戻ると、入れ違いで風呂に行ったはずのアランがベッドに腰かけていた。
既に風呂は済んだようで、アランは襟元のボタンを開けたシャツとズボン姿だった。明るいハニーブラウンの髪が少しはねていて、少し癖がある前髪もすっかり降りている。
「アラン。そんなところに座って、どうしたの?」
「さっきまでロバートが来ていて、少し話しをしたものだから」
そうなのね、と答えたところで、ティナは新婚プランナーが来たことを遅れて思い出した。そういえば帰宅した彼を迎えた後、夕食時間に話すのをすっかり忘れていたのだ。
それを伝えたら、ちょうど執事から報告されたところだったのだ、とアランが言った。彼は床へ視線を向けたかと思うと、「エディーのやつ……」と低い声で呟く。
ベッドに腰かけたまま、珍しく眉間に皺を刻んで、アランが何事かぶつぶつと口にしていた。言葉の全部を聞き取ることは出来なかったけれど、明日エディーに会ったら叱るつもりであるらしい。殺す、と聞こえたような気もしたけれど、きっと聞き違いだろう。
ティナは火照った身体に風が欲しくて、そう思案を終わらせると本をサイドテーブルに置き、開いている窓に歩み寄った。窓の向こうには、夜の色に染まる花壇が見えた。その奥には、寝静まり始めている住宅街の灯かりが、ぽつぽつと浮かんでいる。
その時、ギシリ、とベッドが軋む音がした。振り返ると、アランが隣にやって来て、窓に身体の側面を寄りかからせて、こちらを見下ろしてきた。
「何、アラン?」
「いつもと、髪型が違うなと思って」
そう口にしたアランは、ティナのゆとりある丈の長い夜着の、大きな襟首の後ろから覗く白い首筋から背中を、つい目で辿った。
長い髪を右肩の前で軽くひとまとめにしていたティナは、その視線に気付かず自分の黒い髪をつまんだ。そういえば、彼の前ではあまりしない髪型だったと思い出して目を戻すと、どうしてかアランが顔をそらして、ちょっと言いにくそうに囁いた。
「……それに、いい匂いがする」
「ああ、それは多分、アグネシアさんにもらった香料のせいね。湯に浮かべたのは五枚だけだったのだけれど、意外にも香りが強くて、メアリーさんたちもびっくりしていたわ。髪は、暑くなったからちょっとまとめていただけよ」
屋敷のメイドたちは、ティナが一人で風呂を好むからと、髪の世話だけにとどめていた。髪を乾かしてくれた際、肌もしっとりしている気がする、と彼女たちはこの試供品について期待感も込めて高く評価していた覚えがある。
アグネシアの説明では、お肌にもいい成分が入っている物であるらしい。ティナは思い返しながら、日中に受けた説明と、先程のメアリーたちとのやりとりを教えた。アランは話しを聞きながら床を見つめていて、思案するように顎に手をやっている。
「どこで買えるのだろうか……」
真面目に検討したアランが、口の中に呟きを落とした。ちょうど風が吹き抜けて、ティナは誘われるように窓の外へ目を向けて「夜の風は、すっかり秋ね」と言ったタイミングだったので、それを聞き逃してしまっていた。
風で膨らんだカーテンが大きく揺れて、互いの衣服が音を立てた。窓を見ている彼女へ視線を戻したアランは、髪が右肩の前でまとめられているせいで、露わになっている白い首筋に目を留めた。
手を伸ばし掛けて、途中でそれに気付いて止める。その代わりのように、アランは少しこぼれ落ちた彼女の髪をすくい取った。
「髪にも香りがついていそうだね。……確かめてみてもいいかな」
ティナは髪に触れられている感触に気付いて、そちらへと目を向けた。そこには、エメラルドの瞳で思案気にこちらの髪を見つめているアランの姿があった。
香水関係に興味があるのだろうかと、不思議に思う。思い返せば、彼は軍人勤めではあるけれど、いつもほんのりと良い香りをさせていた。だから、恐らくはそうなのだろうと考えて、ティナは「いいわよ」と答えた。
すると、こちらの返事を聞き届けてすぐ、彼がすくい取った髪を鼻先に持っていった。
口許にあてる様子は落ち着いていて、まるでキスでもするかのようだった。普段は浮かべない冷静な表情をしているせいか、美麗さが際立ち、風呂に入って髪型も作っていないというのに、どこか大人の男性の雰囲気をまとっているようにも見える。
手触りを確かめるように、アランが黒髪を長い指先に絡めて梳いた。そこからゆっくりと手を離しながら、さらさらと音を立ててこぼれ落ちる髪をじっと見つめる。
「――良い匂いがする。食べたら甘そうだ」
彼が何かを考えているかのような様子で、囁くような声でそう言った。
どうしてか、一瞬ドキリとしてしまって、ティナはそんな彼から目が離せなくなってしまった。含んだ意味でもあるのではないかと、ついこの間読んだロマンス小説が思い出されて、勝手にドキドキしてしまう。
幼い頃から知っている幼馴染同士だ。そんなことあるはずがない。そう感じてしまった自分が変なのだろうと心の中で言い聞かせるものの、いつもはない空気が漂っているような気がして、小さな緊張まで込み上げてきた。
相手は、幼い頃いつも泣いていて、大人になった今も寂しいと突撃してくるアランである。深い意味もない呟きなのだろうと考え直してみると、味まで甘いのかもしれないと好奇心で試しそうな気もしてきた。彼はいまだ子供っぽさがあるから、そう考えてもおかしくはないだろう。
なんだ、そういうことかと思って、肩から力が抜けた。一人で勝手な憶測をしてしまっただけらしい。それはそれで、アランらしい発想と言えなくもない。
「匂いが甘いというだけで、髪自体は甘くないと思うわよ。だって、そうだとしたら、抱き締めた時にいつもいい匂いがするあなたの服だって、ほんのり甘いことになってしまうもの」
そう想像してみると、少し面白くも感じた。緊張もほぐれて、思わずくすりと笑みをこぼしたら「ティナ」と名前を呼ばれた。
不意に、頭の横に大きな手が添えられる温もりを感じた。なんだろうと思った時には、そっと引き寄せられていて、アランが軽く押し付けるように頭に唇をあてていた。
ちゅっと音が聞こえてあと、その手と柔かな温もりがそっと離れていった。何が起こったのか分からなくて、目を丸くして見つめ返すと、そこにはどこか大人びた表情をしたアランがいた。
目が合った途端、彼の顔に困ったような笑顔が浮かんだ。
「やっぱり、少し甘い気がする」
ごめん、確かめてみたかっただけなんだ、と彼がぼそぼそと口にする。
ティナは呆気に取られて、本当に味を確かめるなんて、変わった人だと思った。昔から好奇心が強いところもあったけれど、それは今も相変わらず健在であるらしい。けれど、そういうところが彼らしいとも感じて「相変わらず子供みたいね」と笑った。
アランが、どこかほっとしたように微笑んだ。それから、チラリとベッドのサイドテーブルの上に置かれた本を見て言う。
「少し読んでから寝るの?」
「うん、時間もまだ早いし、眠くなるまで少し読んでいようと思って。先に眠っていていいわよ」
「一緒に読んでもいいかな。君が眠くなるまで、一緒に起きていたい」
「別に構わないけれど。でも、アランは読む本を持って来てないんじゃ――」
続けようとした言葉は、唐突に抱き上げられたせいで途切れた。あっさりとこちらを抱えたアランが、続いてサイドテーブルの本も手に取ったかと思うと、寝室に一つだけ置かれているソファに向かった。
彼がソファに座って、ティナは開いた膝の間に腰を下ろされた。後ろから肩をぎゅっと抱いてきたアランが、用意が整ったと言わんばかりの笑顔で「はい」と本を手渡してきて、呆気に取られた。
「一緒に読むって、……同じ本を見るってことだったの?」
もしやと思って、本を受け取りつつも、上目に彼を見つめ返して尋ねてしまう。
「本を読むティナを見ていたいんだ」
「……あの、それだとアランは読めないと思うのだけれど……それ楽しいの?」
「楽しい」
そう言った彼が、こちらを両手でぎゅっと抱きしめて、匂いでも擦り付けるように頭をぐりぐりと押しつけてきた。なんだかとても嬉しそうで、髪先があたるくすぐったさや暑苦しさを叱れなくなった。
まだアランの背丈が自分より低かった幼い頃は、彼が前にいて、こうやって本を読んだことも多々あった。いつも寂しいと言ってくるし、もしかしたら大きすぎるベッドで、一人で先に横になるのが寂しいのかもしれない。
そもそも、どうしてこんなに大きなベッドなんて買ったのかしら、とティナは不思議に思いながら本を開いた。