5話 一章 休みの日にはピクニックを
「休みだから少し外出をしようか、ティナ。二人で丘の上から町を眺めて、サンドイッチを食べよう」
エディーという訪問者があった週の休日、朝食が終わったあと、アランが唐突にそう切り出してきた。
休みなので近衛騎士の軍服姿ではない。早朝一番から外出着をしっかり着込んでいたので、何か予定があるのかしらと思っていたティナは、その理由を察しつつも瞬きをした。食後の紅茶を少し飲んでから、提案してきたアランに問いかける。
「それはつまり、ピクニック?」
すると、彼が「うん」とにこやかに答えてきた。どこかわくわくと楽しげな様子があったので、ティナは不思議に思って小首を傾げてしまう。
早朝の支度時に、少し肌寒さのある秋風がありますから、と外出しても問題がない服を手渡されて着替えていた。だから、これからすぐに出掛けるとしても問題はないのだけれど、アランが子供みたいに楽しそうにしているのが、よく分からなかった。
「村にいた頃、いつもやっていたわよね?」
つい、そう確認してしまった。何故なら自分たちにとって、ピクニック自体は珍しいことでもなかったからだ。
バルド村は自然豊かな場所だったから、大抵の人たちが食べ物を持って外で食べたりしていた。ティナも、アランと一緒に綺麗な川が見える場所で腰を降ろして、二人でなんでもないことを話して過ごした。幼い頃の彼は水が苦手で、怖いものじゃないことを教えるために、そのついでに川遊びも教えてあげたものだ。
そう思い返しながら、ティーカップを置いてじっと見つめ返した。すると、アランが楽しみで仕方がないという笑顔を浮かべてきた。
「今、したいんだ」
そう言って、彼が腰を上げた。こちらに歩み寄ってきたかと思ったら、ティナは彼らに抱き上げられていた。子供みたいに正面からあっさり抱き上げられて、床から足が離れてしまう。
「いきなり何するのよ、びっくりするでしょう?」
あまりにも唐突だったので、ティナは目を丸くした。それを見たアランが、また嬉しそうに笑って「さぁ行こうか、馬車を用意してある」と言うと、重さなど感じていないような足取りで歩き出した。
部屋から出てすぐ、そこに待機していたらしいロバートが、玄関に向かうアランのそばに付いた。彼はティナに目を向けると、その戸惑いを拭うかのように「奥様」と冷静に呼んだ。
「必要なお荷物は、既に馬車に乗せております。実は先日から、料理長とコックが奥様のためにと考えていたサンドイッチも、完成度バッチリでご用意が整っております。ちなみに本日は、私が御者役も務めさせて頂きますので、どうぞよろしくお願い致します」
そう淡々と説明したロバートは、歩きながら軽く頭を下げると、こう続けた。
「これから行く場所は、『夫婦丘』とも呼ばれている国立公園の一つなのです。そう遠くはありませんから、遅くとも正午前には到着する予定です」
あ……そういえば私、彼と結婚していたのだったわ。
ティナは、またしても遅れてそれを思い出した。寂しいと突撃されたかと思ったら妻になっていて、こうして同じ屋根の下で暮らす生活が始まっていた。あまりにも急で呆気に取られて、夫婦らしい何かがあるわけでもなかったから、時々うっかり忘れてもしまうのだ。
村にいた頃と違って同居し、同じ部屋でも寝ている。けれど、本当にただ一緒に眠っているというだけで、それはよく互いの家で泊まり合っていた幼い頃と変わらない様子だった。寝起きの顔だって見慣れた仲だったので、緊張も感じてない。
一緒に暮らしている以外は、これといって、あの頃とたいして変わったこともない気がする。ベッドで目が覚めると『おはよう』と笑いかけてきて、一緒にいる間にお喋りをして、本を読んで――そして就寝時間に『おやすみなさい』と言って、互いに目を閉じる毎日だ。
大きく生活が変わってしまったという不安や緊張はない。まるで、昔よくあったお泊まり会みたいだ。それなのに互いがすっかり大人になっているのを、一緒に横になったベッドで、彼の綺麗な顔を見て思い出して不思議になったりする。結婚とはなんだろうかと思うくらい、夫婦生活を過ごしているという実感はあまりない。
「ねぇ、アラン――」
そう声をかようとした時、アランが馬車に乗り込んで、続く言葉で途切れてしまった。
何故か、彼がそのまま座席に腰を下ろして、その膝の上に座らされたティナは呆気に取られた。その間に扉が閉められて、その数秒後には馬車が走り出していた。
もしかして、このまま行く気?
尻の下と背中に自分よりも高い体温を覚えながら、ティナはそう思って肩越しに目を向けた。そこには見慣れたアランの美麗な顔があって、長い睫毛まで見えるくらいに距離が近かった。
彼はやや下を見つめたまま静かな微笑を浮かべていて、ふとスカートの上にあった手に自分の大きな重ねて、確かめるように指先を絡めてきた。
「少し前まで同じくらいだと思っていたのに、こうして比べてみると、今はティナの手がすっかり小さいなぁ」
「あなたが大きくなったせいよ」
当たり前のことを言われて、ティナは不思議に思いながらそう言い返した。
温かくてゴツゴツとした長い指に、今更のように男女の違いを感じさせられて目を向ける。ちょっと指先を上げてみたら、彼が上からするりと握りこんできて、互いの結婚指輪がコツンと音を立てた。
すると、彼が手を離して「ティナ」と耳元で呼ばれたかと思ったら、肩からぎゅっと抱き締められた。隙間なく触れあった背中から、彼の高い体温と共に、心音がトクトクトクトクと伝わっくる。
「肩に、もたれてもいい?」
アランが、そう問い掛けてきた。ぎゅっとされた熱が服越しに伝わってきて、あっという間に彼の温もりに包まれてしまっていた。相変わらず体温が高い人だと思う。
こちらを抱く腕に触れながら、ティナは彼に目を向けた。自分の黒い髪と、彼のハニーブラウンの髪先が交じっているのが横目に見えた。
「別にいいけれど。なんだかアランって、昔と変わらないわね」
「昔は、君がすっぽり収まったりはしなかったよ」
そう言いながら、まるで寂しがるみたいに頭をすり寄せて、アランが肩口に頭を埋めてきた。首筋にかかる吐息が、少しだけくすぐったく感じた。
そういえば、自分の前に座らせていた時期もあったっけ、とティナは彼が騎士学校に通い始める前の頃を思い出した。一緒に絵本を読みたいと言われて、よく二人で木陰に腰を降ろしていたものである。今は、すっかり立場が逆転してしまっていた。
身体は大きくなったのに、寂しがって甘えるところは変わっていない。けれど、あの頃と違って、後ろにいられるせいで姉風に『よしよし』と抱き締め返して元気付けるのも難しい姿勢だ。
またどこのタイミングで寂しさを感じたのかは分からないけれど、ティナは彼の腕をぽんぽんと軽く叩いた。そうしたら、彼がますますぎゅっとしてきて、すぅっと吸い込む深い呼吸音が耳元で聞こえた後、ようやく元気が戻ったみたいに話し始めた。
「それにしても、朝食を軽めにと伝えておいて正解だったな。まさかサンドイッチが大きいバスケットに入っているとは思わなくて、さっき確認して驚いた。はりきって作り過ぎたみたいだ」
「そこでもごもご喋られると、くすぐったいんだけど?」
「うん、知ってる。昔ティナにされていた時、俺もくすぐったくて仕方がなかったから」
「そうなの? それなら、言ってくれれば良かったのに」
言ってくれたら、抱き締めたまま喋らないよう気を付けたと思う。それをずっと我慢していたなんて、変な人だ。
そう思って笑ったら、アランが楽しそうに抱き締めている腕に力を込めてきた。じゃれるみたいにぎゅっとされたティナは、その腕を軽く掴んで「暑苦しい」と少し叩いてやった。それがなんだかおかしくて、二人で笑った。
昔より身体が大きくなってしまったから、やはり暑苦しいうえスペースも取る。けれど二人で過ごす時間は、それでも変わらず居心地が良かった。
※※※
連れてこられたのは、管理が行き届いた国立公園の一つだった。警備員がいる管理室がある門扉を越えると、馬車が何台も停められる広場があり、その向こうにきちんと高さを揃えられた芝生が美しい大きな丘があった。
到着すると、ロバートは馬車をみるために残ると言った。ティナは待たせるのも申し訳なくて、一緒にどうですかと誘ったのだが、そうしたら「気にせず行ってらっしゃいませ」と頭を下げられてしまい、アランと二人で丘にのぼることになった。
丘には大きな木がいくつか植えられていて、涼しげな木陰が出来ていた。頂上からは王都の街が見下ろせるようになっており、馬車で一時間と少しの距離にあるとは思えないくらいに見晴らしが良い。目立つ荘厳な国立劇場の他、王宮の各棟が空に向かっている様子まで見えて、秋の晴れ空がとても近く感じた。
木の下に小振りなシートを敷いて、サンドイッチが入ったバスケットを置いて並んで腰かけた。柔らかい風が吹き抜けてきて、ティナは頬にかかった黒髪を耳へかけながら、ほぅっと息を吐いた。
「こんなに空気がキレイなところが都会にあるなんて、知らなかったわ」
「高い建物も多いから、普段歩いているだけだと気付かないよ。俺もはじめの頃は知らなくて、教えてもらってからは時間がある時、よくここで横になって過ごした」
ちょっとした休憩場所にしていたらしい。騎士寮暮らしが始まって、あまり村に帰れなくなってしまったばかりだった頃、自然が恋しくなって上司と先輩に案内されたのだ、とアランは語った。一人の散歩にも最適で、近くの人々もよく利用しているという。
その時、ティナは下の方から来る一組の男女に気付いた。レースの日傘を差した身奇麗な女性と、紳士服を決めた男性に微笑ましげに会釈をされて、座り込んだ姿勢のままつられて応え返した。すると、遅れて走って来た小さな子供が二人、彼らを追い越して駆けて行く姿を目で追った。
「家族連れもいるのね。賑やかで素敵だわ」
「春と夏は、もっと賑やかだよ。単身よりも家族連れが圧倒的に多くて、たまに団体でピクニック会をやっていることもある」
そう答えたアランが、「ねぇ、ティナ」と楽しげに言った。
「オススメなんだ、横になってみて。気持ちがいいから」
昼寝には、最適の場所なのだという。だからティナは、促されるまま彼と一緒に仰向けに寝転がってみた。
芝生を撫でていくそよ風の音が、とてもよく聞こえる気がした。木の葉の間から零れる、キラキラとした太陽の光がキレイだった。秋が深まって葉が落ちてしまったら、もう見られないだろうその光景を、しばらく堪能するように眺めた。
遠くからは子供の笑い声が聞こえていて、優しい風の音が耳に心地良い。秋になったばかりの今の時期、太陽の日差しはまだ暖かくてポカポカしており、気持ちも落ち着いてすっかり身体から力が抜けていた。
ふと、隣にいたアランが、欠伸をこぼして大きく身体を伸ばした。
「心地良くて、このまま眠ってしまいそうだ」
「眠ってもいいわよ、起こしてあげるから」
ティナは顔を向けて、昔のようにそう言った。すると、彼の横顔が苦笑を浮かべたのが見えた。
「そんなこと出来ないよ」
「どうして?」
昼寝をしていけない場所というわけでもない。そう不思議に思って尋ねると、アランがこちらに顔を向けてきた。とても穏やかな表情が随分と大人びて見えて、そのエメラルド色の瞳に吸いこまれそうな気がした。
彼が手を伸ばしてきて、こちらの頬にかかった髪を指先でそっと直した。それから、形のいい唇を小さく開いて、こう言った。
「隣に、君がいるから」
よく分からなくて、ティナは不思議そうに見つめ返した。
すると、アランが柔らかく微笑んで「手を握ってもいい?」と訊いてきた。まるで、それ以上はしないから、と言われているような錯覚を受けたけれど、いつも寂しがって手を握ってきたことが脳裏に過ぎり、きっと気のせいだろうと思った。
「子供の頃からちっとも変わらないわね。いいわよ、どうぞ」
ティナは思わず笑みをこぼして、彼の方に手を寄せた。少し困ったような表情でアランが笑って、重ねるように大きな手を置く。
こちらを見つめたまま、アランが指先で位置を探ってきゅっと握り込んできた。その手はやはり熱くて、細くて長い指は小さかった男の子の頃と随分違って、しっかりしていた。
「ティナ、もう少しだけ休んだらサンドイッチを食べよう」
「二人で食べきれるかしら?」
頭の上の方に置いてある大きなバスケットの存在を思い浮かべて、ティナはそう言った。気のいい料理長とコックが、きっと張り切って作ったのだろう。そう想像すると、アランか随分愛されている主人なのだと分かって、小さく笑った。
「アランは沢山食べるから、きっと大丈夫ね」
「俺の胃袋は一般的なんだけど……」
身体の大きさが違うのだから男女の食事事情も違うわけで、と続けようとしたアランは、彼女がそういった意識について、少し疎いところがあったと思い出した。だから、悩ましげに考えた後、こう答えた。
「…………期待されているみたいだから、頑張るよ」




