3話 一章 執事の苦労、夫と私の日常
騎士伯であるアラン・クライヴ家の屋敷には、とても優秀な執事がいる。けれどちょっと主人と似た部分が少なからずあるのではないか、とティナは思うことがあった。
中年執事の名前は、ロバート・マギア。目尻と口角に薄らと入った皺は堅苦しい印象を与えていて、テキパキと動いて仕事が出来る人だ。いつも冷静な表情を張りつかせており、無表情か真面目な表情でいることがほとんどだった。
ロバートは、使用人が十人もいないこの屋敷を任されている男である。アランが近衛騎士隊の隊長となった頃から知っているようで、同時期に雇われた料理長とも、同じくらい長い付き合いがあるのだとか。
「奥様、どうか出て行ったりしないでください」
「出て行かないです、誤解です。だから泣きやんでください、ロバートさん」
ティナは、今、ハンカチを目元にあてて俯く執事ロバートを慰めていた。
始めの頃は屋敷にも慣れなかったから、これまでは二階にある魅力的な蔵書室の本を、毎日飽きずに読んでいた。けれど一週間以上を過ぎて、ふと散歩がしてみたい気分になったのだ。
ちょっと外に出ようかなと相談しただけで、このありさまである。きちんと順を追って話したつもりなのだけれど、まさか『家出』するという風に受け取られて、それ以外は考えられないと言わんばかりに誤解されるとは、思ってもみなかった。
二階へと続く幅の広い階段の影には、この屋敷の少ない数人のメイドが隠れている姿が見えてもいた。彼女たちは「ロバートさん……」「心底お察し致します」「共感ですわ」と涙ぐんでおり、ティナとしては、その感性を共有出来ていない自分の方がおかしいのだろうかとも困惑している。
ようやく誤解が解けてくれたらしい。悲壮感に打ちひしがれて震えていたロバートが、ハンカチを降ろしてから、ふうっと息を吐いた。
「旦那様を慰めるの、ほんと大変なんです」
「…………」
彼らの中で『旦那様』がどういう位置づけの存在なのか、物凄く気になる台詞だ。
もしかして、アランは使用人にも泣きついたりしているのかしら、とティナは悩ましげに考えた。その向かいでロバートが「奥様のところに突撃するのを止めるのも、大変なんだよなぁ」と、ここ一周間と少し続いている書斎室での攻防を思い返して、そう呟いていた。
その時、近くを通りかかった二十代の男性コックが、向かいながらやりとりは聞いていたと言わんばかりに足を止めた。料理長に拾われた唯一の厨房勤務組の一人である彼は、両手で抱えた荷物を「よいしょ」と持ち直しながら、ティナとロバートの方へ顔を向けて軽い調子でこう提案した。
「それでは、お買い物に付き合って頂くのはどうでしょうか?」
特に買いたいものはないのだけれど、と思って、ティナは彼を見つめ返した。厨房以外では外しているコック帽のせい、とは思えない感じで髪の一部だけがボサボサになっていて、何があったのか少し気になった。
すると、メイド頭であるメアリーが「それは良いですわね」と、階段の影から出てきて嬉しそうに手を打った。ティナの背中に流れている見事な漆黒の髪を見やると、視線を執事ロバートへと戻してから口を開いた。
「奥様は髪も降ろされたままですし、気に入るような髪飾りや髪留めがないか、探して頂くのはいかがでしょうか、ロバードさん?」
「なるほど。それは悪くない案ですね」
ロバートが片腕を抱き寄せ、顎に手を当てて思案顔で相槌を打った。しかし、その数秒後、うっかり忘れていたと言わんばかりに悩ましげな様子で「うーん」と天井を見た。
「旦那様に知られたら、物凄く羨ましがられるうえ、泣かれる未来がひしひしと想像させられます。……そして、それをフォローするのは俺か」
思わずといった様子で、ロバートがポツリと自身の口調で呟いた。それを聞いたメイドのメアリーたちが、「確かに……」と互いの顔を見合った。荷物を抱えたまま足を止めていたコックの彼も、「それはそれでまた鬱陶し――おっほん。面倒ですよねぇ」と途中で言葉を言い変えつつも、しみじみとした様子で同意する。
なんだか子供扱いねぇ……今や立派なお屋敷の主人であるはずなのに、アランは一体何をしているのかしら、とティナは思った。
※※※
妻となった暮らしの中で、村に住んでいた頃と大きく変わったことは、一緒に暮らしていることだ。けれど、アランが帰ってきたら出迎えて「おかえりなさい」と声をかけるのも、彼が村に戻ってきた時もやっていたことなので、今までと大きく何かが変わってしまったという感じを受けないでいる。
とはいえ、アランの方は少々違うらしい。村にいた頃だったら間を置かず「ただいまッ」と感極まった様子で抱き締めてきて、それから手を握り直して、こんなことがあった、あんなことがあったと話してくるのがいつもの流れだったのに。
今、玄関から入って来たアランは、執事ロバートに「荷物をお預かり致します」とされているにもかかわらず、感極まった潤んだ眼差しをこちらに向けていた。二回ほど「おかえり」と声を掛けたのに、動かずじっとしているのが少し心配になるほどである。
嬉しいと言わんばかりに瞳をうるうるとさせているのは、結婚前となんら変わらないのだけれど、じわじわと込み上げるものがあってすぐには言葉が出てこない、といった様子が以前と違っている。……なんというか、子供時代から面倒を見てきた幼馴染としては、彼の精神部分の成長度合いが心配になる光景だった。
「ただいまティナ!」
そう思って観察していたら、急に喜びが爆発したみたいにアランが駆け寄ってきた。突撃するような勢いで抱き上げられたティナは、身長が高い彼がぎゅっとしたせいで足が床から離れてしまったが、出迎えのたびのことだったので慌てなかった。
離れて暮らしていた頃と違って、どうしてかすぐに降ろしてもらえないのだ。夫婦生活が始まってそれを学習していたティナは、ひとまず仕事を頑張ってきた彼を思って、「おかえりなさい」ともう一度言って労った。
すると、アランがぎゅうぎゅうに抱き締めてきた。相変わらず力強いせいで息苦しくて、その体温の高さで暑苦しさも覚えた。そもそも身体が大きいので、いきなり突撃してきたりぎゅっとしてくるのも、出来るだけやめて欲しいとは思う。
こちらの心音を聞くように顔の横を押しつけたところで、彼がほっと息を吐いて、ようやく大人しくなった。
どうして一緒に暮らす以前よりも、こうして寂しがりを発揮してくるのか分からない。ティナは不思議に思いながらも、自分を抱き上げたままじっとしている幼馴染へと目を向けた。
「お仕事で疲れているでしょう? 私はそんなに軽くないんだから、もう降ろして」
「重くないし疲れていないよ。ティナ、仕事を頑張ったから褒めて欲しい」
彼が子供みたいな無邪気な笑みを浮かべてそう言い、こちらを抱き上げたままくるりと回った。共に暮らし始めてから、いつもこんな調子だった。まるで毎日が嬉しくて楽しいという様子である。
変な幼馴染だ。ティナはそう思いながらも小さく笑って、村で出迎える時と同じように、少し癖のある柔かい彼の髪をくしゃくしゃと撫でていた。
自分の方がまだ大きくて、お姉ちゃんのように世話を焼いていた頃からやっていたことだった。男女の身体つきの差が出始めても、彼は騎士学校の成績表を見せてきて「褒めて」と、引き続き頭を撫でられたがった。それについては、ティナ含めた周りの友人知人たちが『アランって犬みたいだね』と思っているところでもあった。
「アラン、お疲れ様」
ちょっと崩れた髪型を整えるように後ろに撫でつけてやったら、彼が頭を擦り付けるようにぐりぐりとしてきて、満足げな吐息をこぼした。
「少しだけ土の匂いがする」
「メアリーさんたちと一緒に、少し花壇を整えていたのよ」
屋敷の裏のスペースに、小さい花壇があるのだ。秋の花が可愛らしく咲いていて、それがしっかり冬まで花を咲かせるように、お喋りを楽しみながら雑草を取るのも日課の一つになりつつあった。
アランが、ぼそりと「なんて羨ましい……」と呟いてきた。最近、使用人たちの買い物に付き合ってちょいちょい外に出るたび、寂しそうな表情をしたりする。ティナはそれを思い出しながら、「アランはお仕事があるじゃないの」と言い返した。
「私は農家の娘だから、みんなと一緒に土イジリが出来て嬉しいのよねぇ」
「それは楽しそうで何よりだけれど……」
そう言ったアランが、窺うようにチラリと目を向けてきた。ティナは、彼の澄んだエメラルド色の瞳に、自分の顔が映っている様子を目に留めた。
しばしの沈黙の後、彼がどこか真剣な表情を浮かべて「ティナ」と呼んできた。
「このままでいてはダメだろうか」
「何言ってるのよ、ずっと持ち上げたままでいる気?」
ティナは彼の広い肩に手を置くと、正面から見つめ返したところで「押しつけられている腹が苦しいのだけれど」ときちんと伝えた。その際に黒い髪がこぼれ落ちて、軍服の上でパサリと音を立てる。その拍子に彼がそっと目を細めた。
気のせいか、ティナは彼の体温が上がったように感じて、きょとんとして小首を傾げた。いつも暑苦しいので、恐らくは気のせいなのだろう。
すると、荷物の整理がついた執事ロバートが、こちらへツカツカと歩み寄ってきて「旦那様」と、少し強い口調で言った。
「旦那様、奥様をあまり困らせないであげてくださいませ。ご夕食の準備が整っておりますので、どうぞご移動を」
それを耳にしたアランが、ぴくりと反応して、ゆっくりとロバートの方へ顔を向けた。
一体どうしたのか、彼の瞳の潤い度がまたしても増した気がする。すっかり大人になってしまっているから、その凛々しい横顔に忘れてしまいそうになるけれど、こうして見てみると、幼かった頃の『泣き虫アラン』が思い出されたりするのだ。
ティナがそんなことを考えていると、主人の表情から何事か察した優秀な執事ロバートが、勘弁してくれよマジかよ、と口角を引き攣らせた。
「旦那様、奥様とあちらへどうぞ」
ロバートが、どうしてかもう一度似たようなことを言ってきた。それをしっかりと聞き届けたと言わんばかりに、アランが真剣な表情で頷くと「ロバート」と呼んだ。
「ティナを『妻です』と紹介したくてたまらないんだが、どうしよう」
「旦那様、しばらくは誰もご招待されないご予定なのでは?」
「それから、『夫のアランです』という台詞も聞きたい」
「夜会への出席も、もう少し先とも伺っておりますが」
そんな二人のやりとりを見つめながら、ティナは小首を傾げた。変なアラン、と思った。そもそも、どうしてそんな台詞が聞きたいのだろうか?