27話 五章 クライヴ夫妻の夜会(3)
少し喉を潤したあと、出ている料理でも見てみようかと歩き出したところで、以前の部隊で一緒だったと言う男が話しかけてきた。
ティナは先日、こういう時は夫の邪魔をしないよう近くで待つのもありなのだと、アグネシアからされていたアドバイスを思い出した。男の方は「久しぶりだ」と声を掛けていたので、恐らくは積もる話もあるだろう。
「私はそこで待っているから、少し話してきて」
「いや、でも君も一緒に――」
「ううん、気兼ねなく話して欲しいから、私は一旦離れているわ」
心配そうなアランに笑顔で告げた。初めての社交の場ということを考えてくれているのか、彼が悩ましげに思案した後、心配と不安を滲ませつつも「うん……、なら少しだけ」としょんぼり肩を落として答えた。
離れ始めてすぐ、こんな場所に出てくるなんて久々じゃないか、と男たちが楽しげに言って歩み寄る姿が見えた。どうやら、アランは近衛騎士の隊長として、そして軍人としても同僚たちからは信頼されて仕事付き合いも良好であるらしい。あっという間に彼を中心に人の輪が出来て、ティナは驚いてしまった。
騎士となってからは、普段からきちんと社交も取っているようだ。誰々の娘やら、以前に話した、と自己申告する令嬢たちが多く集まるまで時間はかからなかった。
離れて数分も経っていないのに、一気に女性の割合が高くなった。女性たちの勢いは周りの男性たちを圧すほどで、アラン本人が答えるよりも早く話を進めて、いかにも楽しく話していると言わんばかりに「うふふ」と上品な笑みをこぼしている。
その様子には呆気に取られた。大人になったアランがモテている現場を実際目にしたのは、これが初めてだったからかもしれない。
「王都の女性って、たくましくて強いのねぇ……」
つい、エディーから聞いた話を思い返してしまった。肉食系女子なんです、と帰り際にも口にしていて、アランが頭を叩いていたのは覚えている。
あの話は本当だったようだ。そう思って、村では絶対にお目にかかることがないような、貴族の女性たちの強気で自信たっぷりの様子をしばし眺めてしまった。向こうの壁際に見える料理コーナーまで足を運んで、暇を潰してこようという計画も忘れて足を止めていた。
どれも美しい女性たちばかりであったので、自信が行動力に繋がっていると考えれば頷ける気もした。けれど、見目麗しいアランと並んでも違和感がない尾に会いな姿を見て、なんだか不安のような、もやもやとした物がじわじわと込み上げた。
その時、一人の美しい令嬢が、アランに腕を絡めるのが見えた。どうしてかとても気になって、ティナは少し早足歩み寄って、会場に溢れる人混みに隠れて耳を澄ませてしまう。
「奥様とは、もうお踊りになられたのでしょう? なら、今度はわたくしと踊ってくださいませ」
ねぇクライヴ様、とお願いする女性の声が聞こえた。
それを耳にしたティナは、自分以外の人と踊る彼の姿を想像した。不意に、そうして欲しくないと強く思った時、ハタと気付かされて辺りに目を向けた。
近くにいる若い令嬢たちは、誰もが恋する少女のような期待の目でアランを見ていた。村の内気な女の子たちが、同じ目を向けていたことはあったけれど、その時とは違って胸がツキリと痛んだ。
「アランには、私がいるのに……」
頭を過ぎった何気ない独白が、唇からこぼれ落ちた。
ティナは思わず、胸元に手を重ねて握り締めていた。そんな自分の声を聞いた途端に、嫌だなと強く感じて、胸の辺りがきゅっと苦しくなった。
そんな我が儘みたいなことを、自分勝手に思うなんて、いけないことだろう。そう分かっているのに、『アランには私がいるのに』『どうか、他の誰かと踊ってしまわないで』と、胃の辺りがぐるぐるする。
喉を潤すために、少しだけ飲んだお酒のせいなのだろうか。よく分からないくらいに悶々としてしまって、慣れない会場の雰囲気にそわそわと落ち着かなくなるのを感じた。彼を連れ出して、一緒に少し外の空気にあたりたい気がしてきた。
でもそれは、自分以外の女性から向けられる視線を、そうやって少しの間だけでも断つ行為の言い訳にも思えて、ティナは迷った。そもそも連れ出すにしても、どうすればいいのか分からないでいる。
アランはまだ話している様子だった。話の最中に連れ出してしまうのは、妻として失礼な行動だったりするのだろうか。今の状況で、声を掛けてもいいの……?
「どうしたんだい?」
その時、またしても横から声を掛けられた。けれど、今度は聞き覚えのある人のものだったから、もしかしてと思って警戒もなく振り返っていた。
ティナは、そこにいた人物を目に留めて「あ」と声が出た。
それは以前、アランと一緒に参加したアビリラ祭で会った、目尻に柔らかな皺が薄らとある紳士然とした男性だった。祭りの際、『アビリラの願い札』を売っている店の前で声を掛けてきた彼の腕には、同じ年齢くらいの貴婦人が手を添えている。
「特徴的な黒髪だったから、もしかしてと思って声を掛けたんだよ。まさか夜会で再会するとは思わなかったな」
そう口にした彼が、遅れて気付いた様子で「ああ、自己紹介がまだだったね」と言って、被っていたハットを軽く上げてから、こう続けた。
「僕はディック男爵、レナード・ディックだ。こちらは、妻のセレシア。――セレシア、この前話していた若い新婚夫婦だよ」
「可愛らしい人ね。お前は、なんとおっしゃるの?」
紹介された貴婦人、セレシアがそう尋ねてきた。微笑んだ顔には慈愛が満ちていて、とても幸福である事か伝わってくる。目尻には、彼と同じように優しい小さな笑い皺があった。
ティナは少し遅れて、ドレスをそっとつまんで小さく挨拶の礼を取った。少し頭を下げた際、黒い髪がさらりとこぼれ落ちた。
「初めまして。私はアラン・クライヴの妻、ティナと申します」
「ティナさん、とお呼びしてもいいかしら? それで、どうして泣きそうな顔をしていたの?」
そう、改めてセレシアに問われたティナは、戸惑ってしまった。チラリと彼女の夫の方に目を向けると、困ったような微笑み返された。
「…………あの……私、泣きそうな顔をしたつもりは、なかったのですが」
「そうかな。僕としても、妻とは同意見でね。君にぞっこんな泣き虫の――おっと、これは失礼。若い夫の姿がないようだけれど、あの時の彼を思い出すに、必要もなく君を置いて、どこかに行ってしまう性格とも思えなくてねぇ」
レナードがそう言いながら、近くを捜すように辺りを見回した。その隣で、セレシアが「話してごらんなさい」と気遣うような微笑みと共に促してきた。
つい先程まで、彼に迷惑をかけてしまうだろうか、どんな台詞で声を掛ければ正解なのだろうと悩んでいたティナは、躊躇った末にアランがいる方向を指した。
「あそこに、『夫』がいるんです。少しお仕事の方々と話していたのですけれど、今は楽しく話をしていて……。だから、ここで連れ出してしまうのも悪いかなとか、色々と考えていたんです」
女性が多く集まった場所を見たディック夫妻が、察した様子で顔を見合った。夫であるレナードの方が「若い夫婦にはよくあることだけれど、彼の場合はなぁ」と呟いて、ちょっと肩を竦めて見せる。
「彼は、とんでもなく見目麗しい青年だからね。僕はそういった、キラキラとして騒がれているようなタイプの人間や、日頃から騒がしい軍人とは距離を置いているのは、ああいった人だかりが苦手だからさ。結婚しても、あれだけの人気があるというのが、彼の美青年っぷりのいい証拠なんだろうね」
「レナードったら、アドバイスをするのが先でしょう?」
妻のセレシアは、自分よりも少し若い外見をした夫を困ったように見た。それから、ティナに向き直ると「遠慮なんて、しなくていいんですよ」と声色を優しくして告げた。
「妻が夫を迎えに行くなんて、どこもおかしくないことですからね」
「……本当に? でも、だって特に用もないのに連れ出したりしたら、せっかく彼とお話をしている人にも申し訳な――」
「難しく考える必要なんてないの。理由なんていらないんですよ。いつでもそばにいて、好きな時に連れ出してしまいなさいな。妻の特権ですよ」
堂々と胸を張ったセレシアは、笑顔でぴしゃりと言ってのけた。ティナは思案の眼差しを落として、「妻の特権……」と口の中で呟く。
やりとりを見守っていたレナードが、ふっと笑って妻の方を見やった。
「僕も、よく君に連れ出されたっけな」
「あなたが誰にでも紳士ぶって、意外とモテるのがいけませんのよ」
「ふふっ、君のそういうところに僕は今でも夢中だ」
そっと寄り添った夫に、セレシアは言葉では答えないまま、穏やかに微笑んで少しだけ頭をもたれかけさせた。
ティナは、その様子に気付かないくらいじっくり考えていた。
妻の特権がなんであるのかも、よくは分からない。でも、好きに連れ出せるのだとしたら、すぐにでも彼を迎えに行きたいと思った。それが、今の自分の本心だ。
「ありがとうございました。私っ、彼を迎えにいってきます!」
ティナはディック男爵夫妻に礼を告げると、背筋を伸ばして足早に歩き出した。気持ちに突き動かされるがまま、アランのいる方を目指して進むと、後ろからその腕を掴んだ。
振り返ってこちらを見下ろした彼の、綺麗なエメラルドの瞳が小さく見開かれた。目が合ってようやく、「あ」と思って我に返った。ただ迎えに行きたいという気持ちで来たから、どう切り出して、どんな台詞を言えばいいのか考えていなかったのだ。
居合わせた女性たちが、問うようにティナを見る。男性陣が、聞き知っていると言わんばかりに「おや」という目を向けた。
「え……? ティナ、どうしたの?」
アランは、すぐに何も言わないのを、ますます心配して尋ねた。一瞬だけ強張らせてしまった腕の力を解くと、後ろから掴まれた弱々しい力に逆らわず、不安が混じって泣き出しそうな彼女の方へと寄る。
集まっていた全員から目を向けられたティナは、いっぱいいっぱいになってしまった。上手く考えられない。でも何か言わなくちゃと焦りが込み上げて、彼の元に集まっている男女を、覚悟を決めたように潤んだ目で強く見つめ返してこう言った。
「ッ――アランの妻の、ティナと申します。少し夫を借りていきます!」
その細い叫びが発せられるのを聞いた直後、彼らが呆気に取られた表情をして「は」「へ」「え」と言った。
言い方を間違えたのか、台詞が良くなかったのか分からない。なんだか猛烈な恥ずかしさが込み上げて顔を真っ赤にしたティナは、掴んだアランの腕を引っ張ると、逃げるようにそこから連れて出していた。
引っ張られるまま呆けた顔で歩みを進めていたアランは、会場脇の開かれた扉から、静まり返った薄暗い廊下に出たところで「ティナ?」と呼んだ。ようやく出た声は、呆気にとられてどこか少しだけ幼い印象口調だった。
ティナは、会場横の扉からもう少しだけ離れたところで、頬の火照りを冷ます夜風に気付いて立ち止まった。少し灯りの差す会場口からは、賑やかな声や演奏音が鈍く聞こえていて、それを聞いて冷静さが戻ってきて呆然となった。
アランの腕を掴んでいる手から、自分よりも高い体温が伝わってくる。自分がどれほど強引な行動に出たのか、実感がひしひしと込み上げてきて、顔がかぁっと熱くなった。
どうしてこんな強引なことをしたのか、尋ねられたらなんと答えていいのか分からなくなって、視線も合わせられないまま手を離した。思わず顔を伏せてしまったら、薄暗いせいか、彼が背を屈めて横から覗きこんでくる気配がした。
「ティナ、どうしたの?」
もう一度、そう呼ぶ声が聞こえた。先程も問われたばかりだったけれど、その時以上にとても心配そうだった。
ティナは、スカートの前のレース部分をちょっとつまんで、意味もなく握り締めた。これまだって彼に隠し事をしたことはなかったし、これからも秘密事なんてしたくない。じわりと涙まで込み上げそうになって、正直にこう答えていた。
「だって、女の人は皆、あなたを見ていたんだもの。私の夫だって、そう言いたくなったの……」
白状したら、唐突に自分の本心に気付かされて、ますます恥ずかしさが増した。
つまり自分は、魅力的な彼の周りに集まっていた女の子たちに、嫉妬してしまっていたらしい。これまで、こんなことなんてなかったのに、それでいて初めての嫉妬を本人であるアランに伝えてしまったのだ。
思わず耳までぶわりと赤くなった。なんて自分勝手に彼を連れ出してしまったんだろう。だってアランが素敵な男性であることは、一目瞭然だ。たったこれだけで嫉妬して、不安になってしまうなんて、きっと彼に呆れられてしまったに違いない。
「…………アラン、ごめんなさい。私……『私のアランなのに』って思って、他の女の人たちのところから連れ出してしまいたくなったの……」
こんなに好きなのねと実感した後だったからか、もうただひたすら、猛烈に恥ずかしい。ティナは、指先が震えてしまうくらいの羞恥で視線も上げられないまま、ただ申し訳なくて「ごめんなさい」と、ふにゃりとした涙声で小さく謝った。
その時、ブチリ、と何かが切れる音がした。
横で揺らりと彼が立つ気配がした直後、ティナは両手を取られて、少し荒々しい動きと力で廊下の壁に押し付けられていた。突然のことにびっくりして見つめ返したら、そこには熱のこもった瞳でこちらを見据えているアランがいた。
「つまりティナは、俺のそばにいた女性たちに嫉妬したんだ?」
こちらの両手を壁に縫い付けたまま、彼が真剣な声で尋ねてきた。
その強いエメラルドの目に射抜かれて、ティナは身じろぎすら出来なかった。彼の表情は落ち着いているのに、瞳の奥にはギラギラとした輝きが宿っていて、どこか冷静でない気がした。掴まれている手も、ひどく熱い。
「俺を自分の夫だと宣言して、連れ出してしまいたくなるくらい?」
「うっ、あの、…………嫉妬して、こんなことして、本当にごめんなさ――」
「ああ、ティナ、どうか謝らないで」
身体ごとに壁に強く押し付けられた。アランの吐息が熱く頬に触れて、ティナは潤んだ瞳をきょとんとさせて見つめ返してしまう。
「呆れてないの……? いきなり連れ出してしまったのに、怒ってもいないの?」
「そういう風に見える? 俺はとても嬉しいんだよ。ここで今すぐ、どれほど愛しているのか分からせたいくらい。ああ、その表情もたまらないくらいに可愛い。もっと俺のことで、いっぱいになってしまえばいいのに」
恍惚とした表情で想いのままそう口にした彼が、熱くこちらを見下ろしたまま、ふっと顔を寄せてきた。
「今すぐキスがしたい」
彼がキスを欲しがるタイミングは、いつも唐突すぎてよく分からない。ここは廊下で、すぐそばには会場があるのだ。いつ誰が出てきたり、歩いたりしてきてもおかしくない。
ティナは、熱くなった呼気が肌に触れるのを覚えながら、「でも」とすぐそこに見える会場からもれる灯かりを見た。それから、今にも鼻先が触れそうな距離にあるアランに目を戻すと、落ち着かせようと思ってこう続けた。
「あの、このまま帰るのなら、馬車で――」
「待てない」
次の瞬間、続く台詞を吐息ごと奪われていた。
誰もいない廊下で、会場からもれる賑やかな声を聞きながら唇を重ねていた。いつもより触れる面積も大きくて、ティナは数秒も口を塞がれて息が苦しくなる。
アランは、そこで唇を少し離した。近い距離から彼女を熱く見据えると、手の拘束を解いて片腕で抱き締め直し、少しだけ乱れた黒い髪を後ろへと撫でつけ、指を滑らせて火照った頬を包み込む。
「ティナ、もう一度してもいい……? 今度は続けて二回くらい」
「また少し長めにするの? 私、息が出来なくて」
そう答えたティナの言葉を遮るように、アランはその腰を片手で引き寄せて「大丈夫だよ」と囁いた。
再び互いの唇が重なった。その口付けは優しくて、ティナはぴったりと触れあう身体の心地良い温もりに身を預けると、知らず彼の背中に手を回していた。