26話 五章 クライヴ夫妻の夜会(2)
初めて訪れた夜の王宮は、荘厳絢爛で、その大きさを前にしただけで圧倒された。煌びやかな貴族たちが、多く集まっているせいもあるかもしれない。
アランにエスコートされて、ティナは一階の開かれた夜会の会場へと進んだ。大きな正面入場口に立っていた警備兵が、知った仲である様子でアランに目を向けて、それからこちらを見て「おぉ」と息を呑むようにして小さく目を見開いた。
気のせいか、馬車を降りてからずっと、衛兵や騎士といった軍服姿の男たちから、ちょいちょい追い掛けるような目を向けられている気がする。
チラリと目を向けたら、さっと顔をそらされてしまうのが続いている中、たびたび聞こえてくる「あのアラン・クライヴの妻か」という言葉も気になった。失礼をするんじゃないぞ絶対にッ、と部下に言い聞かせている上司らしき軍人の姿もある。
「…………ねぇ、アラン? ここ、あなたの職場なのよね?」
「そうだけれど、突然どうしたの?」
「えぇと、その、なんだか見られているような気がして……?」
「気のせいだと思うけれど。まだ一度も職場に案内したことがないから、みんな君の顔を見るのが初めてだし、それで一部見ている人もいるのかもしれないな」
黒髪の幼馴染だとは伝えていたらしい。それを知っているから、こっちを見てくる人もいるのだろう。
なんだ、そうだったの、とティナは胸を撫で下ろした。自分は質素だからドレス姿が浮いているかも、といった心配も、ひとまずはしないようにしようと思った。せっかく準備してくれた彼や、頑張って着付けてくれたメアリー達に申し訳ない。妻として、しっかり夜会デビューを果たせるようにも頑張らなくては。
そう考えているティナの隣で、アランに冷やかな目を向けられた衛兵班が「ひぇっ」と飛び上がって、警備の仕事に集中するよう慌てて姿勢をただした。
新婚プランナーのアグネシアは、会場に入ってすぐの場所で二人を待っていた。ティナに目を留めるなり、ハンカチを素早く鼻に押し当てた。
「奥様、大変素晴らしいですわ」
ぎゅっと抱き締めて、是非その胸の柔らかさも堪能したいのですけれど、とアグネシアはハンカチの下に本音をこぼした。仕事で来ている彼女は、肌が隠れるタイプの、あまり装飾品が多くないドレスに身を包んでいる。
「踵が高いブーツを履いてきて正解でしたわ。これはッ、なんとも堪らない光景に仕上がるドレスですわね!」
「アグネシアさん、鼻息を荒くされてどうしたんですか?」
そう言って小首を傾げるティナの後ろで、アランが片手で顔を押さえて「分かる」と共感の言葉をもらした。見下ろした時の谷間が……と静かに悶える彼の様子も、アグネシアはバッチリ目に収めてニヤニヤする。
会場には、綺麗に着飾った紳士淑女の貴族が多く溢れていた。ふっと会話が途切れたタイミングで、そちらを改めて見やったティナは、少し緊張を覚えた。
ダンスは多分、大丈夫なはず。後は、夫であるアランに迷惑をかけてしまうような、失礼に取られてしまう発言や行動に気を付ければ、どうにか……。
今夜の夜会で紹介されるのは、数人だと聞いている。一人ずつ回るのには慣れていないだろうからと、仕事でも交友のある数組に前もって声を掛けたらしい。彼らが会場内で待ってくれているので、今日はひとまずそちらだけ顔を出そうと思っている、と先程アランが馬車の中で話していた。
会場の様子に目を向けていたティナは、そう思い返しながら、胸の前できゅっと手を握り締めた。その様子に気付いたアグネシアが、アランから彼女へと視線を移して、ふっと柔かな苦笑を浮かべて優しく声を掛ける。
「紹介されたら、『いつも夫がお世話になっております』と言えば大丈夫ですわ。簡単なことではありますけれど、これも妻の大事な役目ですから、これから少しずつ慣れていきましょうね」
「はいッ。私、頑張ります!」
会場内の様子に目を留めていたティナは、真剣に考えながらそう答えた。
意気込む彼女を凝視して、アランが「めちゃくちゃ可愛い」と言って、感激した様子でぶるぶる震えながら口許を手で押さえていた。アグネシアはハンカチを押し当てて、流れ続ける鼻血を隠しながら「なんて素直な子なの」とうっとりとした。
係りの二人の男性使用人が、血が滲み出したそのハンカチに気付いた。ティナ達の方へ目を向けたところで、その三人の組み合わせを見て、ごくりと唾を呑む。
「なんだか分からんが、やべぇな……」
「あそこに近寄れる自信がないというか、非常に声を掛けづらい……」
「何言ってんだ、さっと行ってこい」
通りすがりの給仕が、後輩組を睨みつけてそう叱った。
二人の係の男性が来て、アグネシアが質問を遮りながら「それでは、私は用があるのでここまでですわ」と言った。ハンカチを鼻に押し当てたまま、彼らを引き連れて人混みにまぎれていくのを見送った後、ティナはアランに引き続きエスコートされて、演奏音が流れる会場内を進んだ。
右を見ても左を見ても、綺麗なドレスといった貴族たちしかいない。場違いな場所に来たような緊張を覚えて、思わず彼の腕に回していた手に力が入ると、アランがこちらを見て優しげに目元を和らげた。
「大丈夫だよ、ティナ」
そう言って、そっと寄り添うように引き寄せられた。その温もりに、少しだけ身体の強張りがほぐれた。
案内されて向かったのは、料理が並ぶテーブルの近くだった。そこには、三十代から五十代までの男女が数組いて雑談していた。どの男性も、近衛騎士としても懇意な付き合いがある軍人らしく、隣にいたのはそれぞれの妻たちだった。
彼らはこちらに気付くと、とても落ち着いた雰囲気でにっこりと微笑んだ。緊張を予想してのことか、それとも見て察したのか、口々に声を掛けることはしなかった。
ますはアランが、集まっている彼らを一人ずつティナに紹介した。婦人組は品のある挨拶をそっと返し、男性陣は騎士らしく胸元に手をあてたり、黒いハットを少し持ち上げて親愛を込めてよろしくと言ったりした。
「我々に一番先に紹介してくれると言われて、こうして夜会に集まったわけなのだよ。とても光栄だ」
そう言ったのは、最後に紹介された五十代のフライネル・ゴードン騎士伯だった。アランが、隊長ではなかった時代にも世話になった元上官に「ありがとうございます」と答える。
しっかり挨拶するわよ。大丈夫、一言添えるだけだもの。
ティナは、俺の妻ですと紹介を促すアランの声を聞きながら、ガチガチになった自分に言い聞かせた。胸の中で何度も一人で練習していた言葉を言うべく、ドレスのスカートの前に手を添えると「はじめまして」と切り出した。
「アランの妻、ティナと申します。…………その、いつもの夫が、お世話になっております」
改まってそう口にしてみたら、彼と結婚して夫婦になったのだという実感が込み上げてきて、物凄く恥ずかしくなった。後半をごにょごにょと言ってしまったティナは、自分の顔が真っ赤になっている自覚があって、穴があったら隠れたい気持ちで縮こまった。
その初心な様子を見たゴードン騎士伯たちは、微笑ましげに表情を緩めた。
「ははは、初々しいですな。私たちが結婚したばかりの頃もそうだった」
「あら、わたくしの方ではなく、恥ずかしがっていたのは貴方でしょう?」
「もう二十年も前くらいだなぁ。うむ、懐かしい」
なぁアラン――と彼らは笑顔でそう言葉を向けたところで、談笑をピタリと途切れさせた。そこには妻以上に悶絶して、感極まった様子で口許を片手で隠して静かに震えている、結婚して夫となってから一ヶ月未満のアラン・クライヴがいた。
その様子に気付いた三十代のニケ・コーネリエルが、「……本当に、ぞっこんなんだな……」と呟いた。同僚である彼は、片腕を取っている妻の手に掌を重ね置いたまま、思わず続けてこう口にしてしまう。
「嬉しくてたまらないのは分かるが、頼むから、ここでサロンの時みたく暴れてくれるなよ。馬鹿力のお前を止めるのは、一苦労だからな……」
すると、場の空気を変えるように、ゴードン騎士伯が軽く手を叩いた。集まっていた面々を見渡しながら、ひとまずの解散を提案する。
「私も妻と久々に、少し夜会を楽しんでくるとしよう。若い君たちは、さっそく踊ってくるといい」
ここでは誰もが主人公だよ、めいいっぱい楽しむといい。
そう言われたティナは、妻とよく似た優しげな笑い皺を目元に持ったゴードン騎士伯を見た。細かい事は何も気にしなくてもいい、夫婦としてダンスを楽しんでおいでと言われているのだと気付いて、残っていた緊張が解けるのを感じた。
気付くと、誰もが温かな目をこちらに向けていた。
とても優しい人たちだ。多分、アランもそれを分かって、彼らを呼んだのかもしれない。
ティナは自然な微笑みを返すと、「ありがとうございます」と深々と頭を下げた。隣にいるアランが、エスコートのため再び腕を出してくるのを見て、どうしてか胸が暖かいモノでいっぱいになって、彼以外は見えなくなった。
二人は場所を移動すると、踊る男女の輪の中に進んだ。流れる音楽の中で、左手を取られて向かい合うと、腰に腕が回されてすぐ控えめにそっと距離を近づけられた。
「ねぇティナ。もっと引き寄せても、大丈夫?」
こちらを見下ろしたアランが、エメラルド色の瞳で覗き込みながら言う。
普段から抱きついてくる彼だったから、伺われてなんだか不思議な感じがした。一緒に踊るのは初めてだから、気を遣ってくれているのだろう。ティナは「うん、平気よ」と答えると、彼の方に回した手に少しだけ力を入れた。
少し触れあう程度まで引き寄せ合ったところで、音楽のリズムに合わせてアランがステップを踏み始めた。ゆったりとしたその調子に合わせて、ティナもダンスを彼に任せるようにして半ば身を預け、自然と足を動かしていった。
二曲、三曲と続けて踊っているうちに、演奏音も明るい調子に変わって楽しくなってきた。アランが途中、ふざけるみたいに腰を強く引き寄せて踵が床から離れて、そうやって一緒に笑ってからは、もうぴったりと触れあう姿勢で踊っていた。
基本だとかステップの組み合わせだとか、そんなことは頭からなくなってしまっていた。互いしか見えないほど、ひたすら楽しくて時間を忘れた。
しばらく足を休めないといけないくらい踊り疲れてしまうまで、ティナはアランに身を任せてダンスを続けた。笑いすぎてお腹が痛くて、動き続けて息が上がっていると遅れて気付いて、ようやく休憩することになった。
「ごめん、ティナ。初めてだったのに、くたくたにさせてしまうまで踊らせてしまって」
「いいのよ。私も楽しくて、つい時間を忘れていたの」
「いっぱい君の笑顔が見られて、俺も嬉しくて止まれなかったんだ。ああ、そうだ。弱いアルコール飲料があるから、気付けでもらってくるよ。少し待っていて」
足がふらふらになったティナを、半ば抱えるようにアランがエスコートして、踊りの輪の近くの壁際に連れていった。一旦そばを離れるけどすぐに戻ってくるから、と彼は言うと、軽い足取りで人混みの中を駆けて行った。
ティナは呼吸を整えながら、しばらく踊っている男女を眺めた。広い会場内には、若い男女が集まって円形になり、パートナー同士を交換しながら踊っている姿もあった。
それは踊りが好きな男女が、時計回り、半時計周りでパートナーを次々に変えながらダンスをするという、王宮の夜会で人気のイベントの一つだった。アランがそう教えてくれたことを思い返しながら、ふっと足元に目を落とした。
ダンスは、とても楽しいと思う。
けれど、アラン以外と踊りたいかと問われれば、そういう気は全くない。彼とだから楽しいのだと、既にそう気付いてもいた。
「私、こんなにもアランが好きなのね」
呟いた言葉が、胸の中のあるべき場所に、すとんと収まるのを感じた。
ふと、両手に細いグラスを持ったアランが、給仕に礼を告げて向こうから戻ってくる様子が目に留まった。どうしたことか、先程よりも周りの人が霞んでしまうくらいキラキラとハンサムに見えて、思わず彼と同じ位置にある結婚指輪に触れてしまっていた。
ああ、早く戻って来てくれればいいのに、と、不意にそんな想いが込み上げた。つい先程別れたばかりなのに、とても彼の声を聞きたい気がした。
その時、横から声掛けられた。
ふっ、と我に返って目を向けてみると、二十代後半ほどの温厚そうな顔立ちをした、力仕事とは無縁そうな見知らぬ一人の男性がいた。焦げ茶色の大きくウェーブを描く髪をしていて、その片手には白ワインが入ったグラスがある。
「見掛けない顔ですね、一人でどうされました?」
「え? あの、私」
「良ければ、少し話しませんか?」
こちらが答える前に、彼の方が慣れたように続けてそう言ってきた。
ティナは理由を説明しようと思って、少し手を上げた。男が左手の薬指にある指輪に気付いて、ちょっと驚いたように目を見開いた時、――横から、コツリ、と靴音が上がった。
「待たせてしまったかな」
耳に入ってきたその声を聞いて、ティナはハッとした。今、一番聞きたい声だと思っていたせいか、初対面と接していた緊張感も消えて、ぱっと肩越しに振り返る。
両手にグラスを持ったアランが、すぐそばまで来ていた。パチリと目が合った途端、彼が綺麗な微笑を浮かべた。そのまま方が触れてしまいそうな距離まで歩み寄ってきたかと思ったら、おもむろに少し背を屈めて、耳元にある滴形のイヤリングをパクリと軽く噛まれた。
ティナは、僅かに耳朶に触れた吐息を感じて、びっくりして頬を赤くした。驚きとくすぐったさで「ひゃっ」と変な声まで出てしまい、思わずそこを手で押さえて庇うと、信じられない思いでアランを見つめ返した。
「な、なななんでイヤリングを食べるのよアラン!?」
「だって両手が塞がっているし、なんだか美味しそうな形をしていたから、つい」
一旦背を起こした彼が、少し頭を傾けてクスリと笑う。
「驚かせてごめんね。どうか怒らないで、俺の奥さん」
アランが周りに聞こえる声で言って、どうしてか頬にキスまで落としてきた。
声を掛けた男が、なるほどと察した様子で「これは失礼致しました、では」と言って、これ以上見せつけられてもたまらないと言わんばかりに、そそくさと離れていった。
それに気付いたアランが、興味もなさそうにそちらへチラリと視線を流し向ける。ティナは、普段は寂しがり屋で子供みたいにも思える彼の横顔が、なんだか知らない大人の男性に見えてドキリとした。
きちんとした服を着て、仕事向けの顔と仕草で、社交をしている姿を見るのは初めてのせいなのだろうか?
そもそも気のせいか、イヤリングをパクリと食べられる直前、その唇が自分の耳をわざと掠ってきたようにも思えた。ティナはまだ熱を持つそこに手を触れたまま、しばらくドキドキとして動けなくて、アランの横顔を見上げていた。




