22話 四章 妻とプレゼントと使用人 ~兄と弟~(2)
午前中の王都は、爽やかで穏やかな秋先の空気に満ちていて、少しずつ賑わい始めている人の波も窮屈さがなかった。結い上げてもいない黒髪もあって、そこを歩くティナの少し幼い横顔は、同じ十八歳の着飾った女性たちと比べると少女にも見える。
癖のないストレートの長い見事な黒髪というのも、ここでは珍しい。歩くたびに腰元で揺れる混じりけもない黒い髪を、母に連れられて通り過ぎる男の子が、不思議そうに目で追った。
トニーは、執事ロバートから預かったお金と、もしもの時にティナに入り用になるかもしれないハンカチやらタオルやらが入った鞄を持って、彼女の右隣を歩いていた。のんびりとした様子で頭上の青空を見やり、「いい天気だなぁ」と呟く。
「奥様見てくださいよ、雲一つない晴天です。やっぱり日傘を持ってこれば良かったですかね?」
「荷物になるし、このくらいの日差しなら日傘もいらないわよ。だから大丈夫」
少し前まで農村地で暮らしていたティナには、王都の女性のように日傘や、たっぷりの飾りがされた日除け用の帽子をする習慣には馴染みがなかった。ダンス教室に通う中で、アグネシアにも勧められていたが実行に移していないくらいである。
そういえば、旦那様がまた新しく購入した日傘も、まだ仕舞われたままだったな、とトニーは思い出して口の中で呟いた。彼に案内されるようにして、普段は進まない道に入っていたティナは、辺りが物珍しくて聞いていなかった。
その時、進む先から「ごほっ」と咽た男性の声がした。目を向けてみると、一人の男がこちらを凝視して直立している。
誰もがゆったりと歩く通りの中で、黒い軍服の男が突然立ち止まる姿は、その鍛えられた長身もあってかなり目立っていた。ティナとトニーは、揃ってそちらに顔を向けたまま「何かしらね?」と話す。
「あれって、王都でよく見掛ける軍服ね。確か、最近も見たけれど、えぇと――」
「警備隊の物です。マントを付けているという事は、それなりに地位もある人なんだと思います」
トニーは記憶を辿るティナに教えると、その三十代らしき軍人を見つめて首を捻る。
長身の軍人男は、髪もある程度セットされて、清潔感あるよう整えられているのだが、それでも完全にはまとまらない少し癖の入った茶色い短髪をしている。その感じもそうなのだが、目付きの悪い鋭い瞳も、どことなく誰かの面影がある気がした。
ティナもトニーと同じ印象を受けていたから、最近見た誰かだった気がするのだけれど……と、ここ最近の記憶を振り返った。けれど、懐かない犬みたいに生真面目そうな雰囲気も強かったせいで、脳裏に浮かびかけた愛想たっぷりのおちゃめな人物が遠のいてしまう。
その時、男が我が目を疑う様子で、一旦目をそらしてごしごしと擦った。それからガバリと顔を上げて、再度確認するように凝視してくる。
その視線が、ティナだけを真っ直ぐ見つめていると分かって、トニーはさりげなく一歩前に出て尋ねた。
「失礼ですが、うちの『奥様』に何か御用ですか?」
警戒するような、冷ややかな表情と口調だった。
すると、警備隊の男が「あっ、いや、その」と慌てたように言った。ふと、途半端な位置で立ち止まっている自分の姿が目立っているようだと遅れて気付き、二人に歩み寄った。
「……私は警備隊のエミリオと申します」
目の前に立ったところで、男が仕切り直すように渋々、なんだか非常に嫌々そうながらそう自己紹介してきた。家名を名乗らない簡単なものだったので、ティナも自分の名前だけを答えた。
そうしたら、名を告げた途端に警備隊の男――エミリオが「!?」と声なく目を剥いた。やはりそうかッ、と口にして顔面を引き攣らせた彼は、けれど一旦冷静になるように慌てて咳払いをしてから表情を取り繕った。
それを見たトニーが、乾いた笑みを浮かべて「あ、なるほど」と察したように警戒を解いた。
エミリオは、不思議そうに見つめているティナの、大きな黒い瞳をしばし見下ろした。それから、どういう状況なのか探るように彼女の隣にいるトニーに視線を移したところで、その左手に持っている鞄を目に留めて、ハッとして血の気を引かせた。
「もしや……ッ、まさか家出ですか!?」
突拍子もなく少々穏やかではない質問をされて、ティナはパチリと瞬きした。軍服のマントだけでなく、彼はアランのように格を示す飾りもしているから、警備隊の中でも地位が高い人なのだろう。それなのに、どうして彼は敬語なのだろう?
屋敷を出発して、まだ少ししか歩いていない。買い物に付き合うべくお供をしていたコックのトニーは、薄ら笑いの表情を浮かべていた。少し口を開いたものの、結局は口を閉じて見守ってしまう。
いやいやいやソレはまずいだろうッ、と呟いたエミリオは、ティナを説得するべく「奥様!」と慌てて切り出した。
「何があったのかは分かりませんが、家出とは穏やかではありません。まずは別居を実行する前に、誰かに相談する方がよろしいかと思います、王都の平和のためにもッ」
「王都の平和?」
「この前の強盗事件のせいですか? いやいや奴は関わっていませんとも、そうですよちっとも違いますとも、緘口令だってきちんと敷き――ごほんっ。あなたの旦那様は人を縛り上げたり、駆け付けた俺らの目の前で、彼らを問答無用で川に投げ捨てたりなんて、そんな事はしていませんからね!?」
焦りとプチパニックから、墓穴を掘って色々と情報が込められている。そんなエミリオの話を聞いたトニーは、薄ら笑いのまま遠い目をすると「うわぁ、同情するわー。そりゃ回収するのも大変だったろうなー」と、棒読みで呟いた。
彼があまりにも早口で喋るせいで、ティナは内容がよく分からなかった。警備隊の中に知り合いはいないので、もしかしたら誰かと勘違いしているのではないだろうか、と思ってきょとんとしてしまう。
その薄い反応を見て、エミリオが苦悩するように「くッ」と片手で顔を押さえた。
「やはり、奴のぞっこんぶりが、とうとう鬱陶しがられて――」
「そうではないのでご安心ください。これは買い物ですし、俺はただの『荷物持ち』の任を受けたコックです」
ようやくトニーが口を挟んだ。
エミリオはピタリと混乱を消すと、ゆっくりと彼に目を向けた。今更のように訝って「すまないが」と、慎重に前置きしてから尋ね返す。
「君は、侍従ではなく、屋敷のコックなのか……?」
「コックです。ウチは、男性の使用人が圧倒的に少ないんですよ」
「それでいて、ただの買い物の『荷物持ち』……?」
「はい。その通りです」
しばし、互いの間に沈黙が落ちた。通りの真ん中で立ち止まっている三人を、通行人たちがチラリと見やって避けていく。
ややあってから、エミリオが静かに姿勢を整えた。軍服のマントを手で払うと、軍人というよりは貴族の男性らしい様子で、ゆっくりと丁寧に礼を取る。
「…………騒がせてしまって、すまなかった。どうやら私の勘違いだったようだ。どうか気にしないで欲しい――私はここで失礼する」
そう言って彼が踵を返した。
額に手をあてているし、歩く足取りもややおぼつかない。大丈夫かしらと心配になって声を掛けようとしたティナを、トニーがやんわりと止めた。
「行きましょうか奥様」
そう言った彼は、子供服の多い店が並ぶ通りへ進むため、それとなくエスコートするように歩みを促した。
大通りを二つほどこえて、個人店が多く並ぶ建物がある区に入った。そんなに時間は経っていないものの、そこでまたしても、ティナとトニーは足を止める事となった。
そこには、何故かぶらぶらと歩いている近衛騎士、エディー・ニコルがいた。アランと同じ隊の副隊長である彼は、騎士としての軍服に身を包んで腰にも剣を下げていたが、仕事の用があって歩いているという様子はなく一人だった。
「家出っすか?」
人波の中からバッチリ視線を寄越してきたエディーが、小首を傾げつつ、きょとんとした表情で開口一番にそう言ってきた。癖のある茶色い短髪が風に揺れていて、悪戯好きそうな活気溢れる瞳は、相変わらず愛想よく笑んでいる。
なんで皆、そう訊いてくるのかしら?
ティナは、先程の見知らぬ警備隊の男を思い返して、小さな疑問を覚えた。トニーが「誰かに似てるなぁ」と、彼と同じ毛色をしたエディーの頭に目を留めて呟く。
すると、彼が気付いたように遅れてトニーを見た。
「ん? 奥さん、その隣にいる男って誰? もしかして新しい恋人で、家出の相方――」
「恐ろしい勘違い発言は、おやめください、俺が旦那様に殺されたらどうしてくれるんですか。ただの無害で真面目なコックですよ」
「ははは~、冗談だよコック君。俺、屋敷で何度か雑用している君を見てるし」
エディーは、おちゃめな様子で人差し指をピンっと立てた。回答を受けたトニーが、真面目な顔でこう申告する。
「一方的に精神的なダメージを負わされて、寿命が減った気がします」
それにしても、彼はどうしてこんなところにいるのだろうか?
ティナがそう思って尋ねようとした時、トニーをからかって満足したエディーが「んで?」と質問してきた。
「奥さんは、こんな早い時間にお供を連れてどうしたの? 新婚の悩みなら、隊長の一番の部下として聞きますよ。隊長のお仕事の様子から休憩時間の過ごし方や、知られたくない恥ずかしいあれやこれやまで、俺は一つ残らず全部暴露します」
「エディー様、真っ直ぐな眼差しでなんてことを口にしているんですか。一番の部下と言う割には、あまりに口が軽すぎませんかね。――というか、あんた旦那様が嫌いなんですか?」
トニーは思わず突っ込んだが、エディーは人懐っこい犬みたいな目をティナに向けていた。
きっと冗談だろう。そう受け取ったティナは、アランが喜んでくれるといいなと思っている今回のサプライズについて話すことにした。知らない仲ではないので、もしダメなところがあれば教えて欲しいと言葉を添える。
すると、話を聞いてすぐ、エディーが「ぶはっ」と笑う吐息をこぼした。何か楽しいことでも思い出したのか、それとも思い付いたとでも言わんばかりの瞬間だったのか、「ぶくくっ」と口許にこらえきれない笑みを浮かべている。
「それはいいっすね! 俺、超応援してます!」
エディーが、今日一番のキラキラとした笑顔でそう告げたかと思うと、「急ぎの用があるので、ここで失礼しますね~」と言って、元気良く踵を返して駆け出していった。
彼の「あ~面白くなってきたッ」という声が、あっという間に人混みに紛れて遠くなる。あっさりと去っていってしまったせいで、ティナは副隊長である彼が、こんなところを呑気に歩いていたのがサボリである、と推測するのも忘れていた。
ティナの隣で、人通りの向こうに消えていったエディーの後ろ姿を見送ったトニーは、不意にピンときた顔で「あ、もしや」と口にして視線を上げた。なんだか嫌な予感がするなぁ、と屋敷に残った同僚たちを思い浮かべたのだった。