18話 四章 夫はゆったりとした休日を希望(1)
休日は、穏やかな秋晴れの中、普段よりも遅めの起床から始まった。
昨日までの二日間、いつもより一時間ずつ遅めの帰宅となっていたアランは、随分疲れていたらしい。いつもの時間に目が覚めたと思ったら「もう少し」と言って、こちらを抱き枕にして再び寝入ってしまい、ティナもうっかり二度目の眠りに落ちてしまったのだ。
次に目が覚めた時には、すっかり外が明るくなってしまっていた。こんな時間まで眠っていることはなかったから少し驚いたものの、こうしてゆっくり朝寝坊出来るのは休みの日くらいなものだろう。平日には出来ないことだと思うと、休日らしい穏やかなスタートだとも感じた。
食卓についてからもずっと、のんびりとした空気が流れていた。仕事の予定がないアランが、とても落ち着いた様子で大人しく座っているのを見て、午前中は身体を休めてもらおうという気持ちが強くなった。
そうだとすると、午後までは家でゆっくり過ごした方がいいわよね。
散歩の件は後で考えるとして、午前中はどうしようかしら。いつもみたいに菜園に出てしまったら、アランもついてきてしまうだろうし……、それならやっぱり読書がいいのかもしれない。朝食が済んだら、ひとまずは蔵書室に誘ってみようかしら?
そう思っていたティナは、食後の紅茶待ちになった今、押し倒された状況でアランを見上げていた。食事が終わったテーブルに、下げられた食器の代わりのように仰向けに乗せられてしまっている。
こうなる直前、紅茶が運ばれてくるまで二人きりだから『頬にキスが欲しい』と、物欲しそうに言われた。変な寂しがり方だなと思いながらも、それくらいならとやってみた。
そうしたら、いきなり抱き上げられて、気付いたらこの状況になっていたのだ。
自分を押し倒しているアランは、鮮やかなエメラルド色の瞳でこちらを見ている。テーブルに縫い付けられている手は、握られてしまっていて解けそうにない。黙ったまま動かないでいるので、ティナは彼が一体何をしたいのかよく分からなかった。
「あの、アラン……?」
戸惑いがちに声をかけてみる。
すると、彼が熱のこもった目を、眩しいものを見つめるようにして僅かに細めるのが見えた。
「えぇと、どうして私をテーブルに上げたの?」
「じっくり君を見ていたくて。ティナ、なんて可愛いんだろう」
言われ慣れない言葉を聞いて、ティナは体温が上がるのを感じた。
こうして見つめたいほどに、可愛いと思ってくれているらしい。美人でもなんでもないのに……と恥じらって視線をそらした際、ドキドキして手をぎゅっと握り返してしまった。
そうしたら、自分よりも体温の高い彼の大きな手が、優しさを持って力を込めてくる熱を感じた。アランが背を屈めて、癖の入ったハニー・ブラウンの髪先が頬に触れ、すぐそばから清潔な石鹸の香りが漂って鼻先を掠める。
距離を近づけられたのが分かったティナは、ますます視線を返せなくなった。じっくり見つめられている気配をひしひしと感じて、彼の眼差しからも熱が移るみたいで、落ち着かなくなる。
「あのね、アラン。その、新しいお洋服を着ているわけでもないし、そんなにじっくり見なくても……」
「襟元のリボンは初めてだよ。緑色がよく似合ってる」
それは昨日のダンス教室で、アグネシアに手渡されたものだった。アランが個人的に相談して、髪飾りよりもこちらがいいだろうと注文していた物であるらしい。
昨日帰ってきた彼に、わざわざ特注で作らせなくても良かったのに、とティナは言った。それでも白状してしまうと、金糸の縁取りを一目で気に入ってもいたから、好みを分かって作ってくれたアランの気持ちが嬉しくて、「ありがとう」とも伝えたのだった。
そんなことを思い出していると、アランが片手を解いて、細いリボンを指で触れてきた。
彼は、ほんのり頬を染めて視線をそらす彼女の横顔を見つめて、やや緊張して上下する膨らみに視線を流し向ける。少しひっぱったら解けそうなリボンを、指先で撫でるように滑らせると、その端の部分まで降りたところで手を止めた。
ティナは、リボンが微かに引っ張られる感覚に気付いて、アランへと目を戻した。
「簡単に結んであるだけだから、あまり強く引っ張ったら駄目よ。ほどけちゃうもの」
生地が絹のような素材になっているから、少し引っ張っただけで簡単にするりとほどけてしまうのだ。だからこそ、恋人や夫婦に人気だとアグネシアに言われていたのだけれど、みんな解けやすい部分についてはあまり考えていないのかしら、とティナは不思議に思ってもいた。
そう教えてあげたのに、アランは手を離す様子がなかった。こちらをじっと見据えていたかと思ったら、つまんだリボンの先を少し持ち上げて見せてきた。
「解いたりしたら、君は怒るかな」
「アランは、リボン結びが出来ないでしょう?」
「――ああ、なるほど、そうか」
君はそう考えるわけか、と彼が思案気に口の中で言う。
「ネクタイ結びなら出来るけれど、ダメ?」
「駄目よ」
というか、なんでほどきたがるのだろうか?
こんなに細いリボンでネクタイ結びをしようだなんて、おかしな人だ。そう思ってティナが小さく笑って見せると、彼がリボンから手を離して、手を握り直しながら愛情溢れる微笑みを深めた。覗き込んでくるアランの髪が頬に触れて、くすぐったい。
「ふふっ、近いわよ、アラン」
「ああ、ティナ。休みの日は、こうして一日中ティナに甘えていたい」
「? 昨日までずっとお仕事が続いていたでしょう? お休みの日は、ちゃんと休まないとダメよ」
なんだか話が噛み合っていないような気がして、ティナは小首を傾げた。また持ち前の寂しがりから、甘え癖を発動させているのだろうか?
その時、執事のロバートが戻ってきた。彼は食卓に広がる光景を見て、一度足を止めると、それから顔面を硬直させたまま主人の近くまで歩み寄った。
「旦那様、下心が見え見えです」
「妻との休日を堪能して、ゆっくり過ごしているだけだ」
「その視線を奥様から離して、今すぐお放しくださいませ。一つずつ進めて『待つ』と言ったのは、旦那様ですよ」
ロバートは、熱い眼差しでティナしか見ていないアランにぴしゃりと言うと、それでもちっとも動かない彼に「それから」と続けた。
「エディー・ニコル様がお見えになっております」
「…………」
夫婦として過ごせる休日の朝なんだが、とアランが微笑を浮かべたままピキリと青筋を立てた。まとう空気が五度下がるのを感じたロバートが、しれっとした様子で「ですので、紅茶は客間にお出しします」と報告する。
ティナは、先日来ていた彼の部下の副隊長『エディー・ニコル』を思い出した。予定外の訪問らしいので、恐らくは個人的な用があって足を運んで来たのだろう。一体なんの用事なのかしら、と夫の静かな怒りに気付かないまま小首を傾げる。
アランはその仕草までしっかり目に留めて、「やっぱり可愛い」と口の中に本音をこぼした。この状況を手放すのが大変嫌で、しばし一人で静かに葛藤した――がロバートに脇腹を打たれてしまい、ティナを解放したのだった。