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15話 三章 一回目のダンス教室

 アグネシアが経営している店は、徒歩三十分ほど歩いた先にあった。

 建物は三階まであって、全員部下であるとざっくり紹介されたそこには、ごった返した忙しさに走り回る多くの人の姿があって驚いた。一階のオフィスでは、十数人の従業員が忙しそうにしていて、訪問客と個別に相談を行っていた。


 建物の二階は、ドレス等の制作も行える作業部屋で、三階に例のダンス教室用の部屋が設けられていた。広々とした室内は、大きな窓から外の灯りが差し込んで明るく、曇り一つない鏡が一面を覆っていた。


 ここでは、週に一、二回ほど、初心者向けに少人数制で授業が開催されているのだという。希望があれば個別指導も行っていて、自宅への訪問指導よりも安い料金で受けているらしい。


「殿方がリードしてくださいますから、まずは基本的なステップを覚えましょう。大丈夫ですわよ、肩の力を抜いてくださいませ」


 アグネシアは、これからの授業方針についてそう語った。ゆったりと踊るのであれば、相手の男性に協力してもらうような踊り方は、すぐに必要ではない。だからまずは、基本的なダンスの型や流れを身体で覚えることになった。


 ダンス教室としては、入門レベルの超初級ではあった。しかし、これまで踊った事がないティナにとっては、これが中々大変だった。


 基本姿勢から始めてみたものの、相手の腰に手を回して、もう片方の手を握ると足元が見えなくなった。そのおかげで練習を始めて早々、ステップを踏み出して数歩でアグネシアの足を踏んでしまっていた。


「ごめんなさいっ」

「うふふふ、はじめの頃は、誰でも踏んでしまうものですわ。わたくしの靴は、少し頑丈な作りになっておりますの。だから思い切り踏みつけて頂いても痛くはありませんから、大丈夫ですわよ」


 その返答を受けて早々、またしても足を踏んでしまった。


 ティナは、自分より少し背丈の高いアグネシアを見上げて「本当にごめんなさいっ」と涙目で謝った。すると、彼女がほぅっと息をついて「目の保養ですわ……」と、うっとりした様子で呟いた。


「奥様の上目遣いの威力、しかと堪能させて頂いております」

「上目遣い……?」

「おっほん。姿勢の方は形になってまいりましたので、一旦解いて、次はステップ重視で練習してみましょうか。すぐに基本姿勢とステップを同時にやるというのも、難しいかと思いますし」


 アグネシアがそう言って、改めてティナの両手を取ってから、足元を見るよう優しく促した。


 一、二、三……と二人で口にしながら、足を右へ左へと動かした。基本的なステップは数種類。リズムはいくつかのパターンが組み合わされていて、その中で足の動きを音楽に乗せれば、それなりには形になるくらい単純であるという。


 だから苦手意識を持つ必要はない。練習するうちに、足が基本的なステップを覚えてくれるので、そうなれば相手のリードに合わせて応用するのも容易になるのだと、アグネシアは動きを教えながらそう説いた。


「リズム感は悪くありませんから、一週間では身に付いているかと思いますわ。それさえ覚えてしまえば、後は基本的な動きを習得して、当日は殿方に身を任せてしまえばすぐ踊れます」


 だから、今度ある夜会には十分間に合う。焦らず落ち着いて練習していきましょうと言われて、ティナは少し前向きに挑むことができた。


 頭では分かっていても、足がスムーズに動いてくれない。それでも、急かさないアグネシアの教え上手な声掛けにも励まされて、もしかしたらなんとかなりそうだ、とダンスに対する苦手意識も次第に薄れていった。


 こまめに休憩を挟みながら、一時間半ほど練習した後、アグネシアが授業の終了を告げた。


 一階にある応接席で、紅茶を飲んで少し休憩を取って足を休めた。彼女に案内されて外に出ると、通りにはまだまだ沢山の人と馬車の往来があって、午後の明るい日差しが眩しく降り注いでいた。


「美味しい紅茶を、ありがとうございました」


 外に出てすぐ、玄関の前で立ち止まったアグネシアに向かって、ティナは改めてそうお礼を言った。


「明日も、どうぞよろしくお願いします。それにしても、男性パートも全部踊れるなんて、アグネシアさんはすごいですね」

「おほほほ、だって可愛い女の子とくっついて踊りた――おっほん。こうして少しでも、世の女の子たちの助けになるためですわ」


 玄関扉の外まで見送りに出ていたアグネシアが、凛々しい表情を作ってそう言った。最後をうまく締めてきたけれど、冒頭でごっそり本音の方がこぼれてしまっていていたから、後半の取って付けたような台詞には感銘も覚えなかった。


 少しだけ変わっているところがある人だけれど、とても頼りになる女性だわ。

 ティナはそう思いながら、困ったように微笑んで別れを告げた。踵を返して、通りへと身体を向ける。


「奥様、待ってください。――何か聞こえません?」


 その時、アグネシアが呼び止めて、向こうを見やった。周囲にいた通行人たちも、一人二人と足を止めて同じ方向へ目を動し始めた。


 耳を済ませると、何やら穏やかではない複数の声と物音がした。こちらまではまだ距離があるせいで、あちらで何が起こっているのかまでは分からない。


 ティナは不思議に思って、アグネシアや通りの人々と一緒になって耳を傾けていた。すると、しばらくもしないうちに騒ぎが近づいてきて、こちらに向かって危険を伝えてくる男たちの声が、ハッキリと言葉になって聞こえてきた。


「銀行強盗が起こったらしいぞ!」

「危ねぇぞ! ボケっとすんなッ、暴れ馬車をよけろ!」

「警備隊の連中の馬も、犯人の馬車を追ってそっちに行くぞ!」


 警戒を促す叫び声が耳に入り、途端に緊迫した空気が広がった。


 人々が慌てて道の端に寄る光景を前に、ティナは呆気に取られて「え」と声を上げた。立ち塞がっていた通行人の姿がなくなったと思ったら、こちらに猛スピードで駆けてくる二頭馬車と、その後ろから馬に乗った警備隊の男たちが「止まれ強盗犯!」と怒声を放っている姿が見えたからだ。


 非日常な光景だったから、現状を理解するのに少し遅れた。ダンスの練習で足が少しくたくたになっていたこともあり、ティナはすぐに反応することが出来なかった。


「奥様! ダメですこちらへ!」


 それを見た人々の悲鳴が上がった時、アグネシアが弾かれるように動いた。半ば放心状態だったティナの腕を、ガシリと掴むと力任せに引き寄せる。


 その直後、荒れ狂う軍馬のように、馬車を引く馬が地響きのような足音を立てて目の前を通過した。馬車の車輪がティナのスカートの裾を擦った直後、何頭もの警備隊の馬が後に続いて通り過ぎていった。


 思い切り引っ張って抱き留めたアグネシアと、窮地を免れたティナが、一緒に後ろにひっくり返りそうになるのを見て、近くにいた男たちが慌てて支えた。


「アグネシアさん、ごめんなさい。ありがとう……」


 荒事には無縁だったせいで、ティナはまだ呆然としたまま、どうにかそう言った。唐突の出来事でドキドキと緊張が込み上げ、すぐに動けなくてアグネシアの腕に支えられたままでいた。


「いいえ。奥様にお怪我がなくて、何よりですわ」


 ほっと胸を撫で下ろしたアグネシアは、怪我がないことを確認した後、ティナの少し乱れた髪を整えた。

 

             ※※※ 


 初めてのダンスの練習で、心地良い疲労感に包まれていたティナは、膝の上から本がバサリと落ちる音にびっくりして目が覚めた。


 ハッと目を開けると、そこは見慣れたリビングの一室だった。帰ってくるアランを出迎えようと思って、二階の蔵書室からこちらのソファに移動したものの、読書してしばらくもしないうちに、少し眠ってしまっていたらしい。

 

 窓に目を向けてみると、先程よりも濃くなった夕暮れ色の明かりが差し込んでいた。

 そろそろ、アランが帰ってくるかもしれない。そう思って本にシオリを挟んだ時、ソファの背側から大きな手が回ってきて、力強いながらも優しく引き寄せられた。


 その高い体温に「あ」と声を上げた直後、首に暖かい何かを押し当てられていた。その柔かな温もりにピクリとすると、ちゅっと音を立ててそれが離れていく。



「ただいま、ティナ」 



 アランの穏やかな声が、吐息まじりに耳元からじんわりと沁みた。

 どうやら首にキスをされたらしい。そう気付いたティナは、どうしてか顔に熱が集まるのを感じた。顔や手に唇が触れた時よりも、首への口付けにとてもドキドキしてしまう。


 すぐに振り返れないでいると、後ろから抱き締めている腕がするりと解かれた。その大きな手が、髪をすくい取るように動いて、頭の横を撫でたかと思うと、そっと頬を包みこんで『こっちを向いて』というように促してくる。


 なんだか緊張してしまって、ティナは一呼吸置いてから、まだドキドキした胸に手をあててチラリと目を向けた。


 こちらを覗きこんでいたアランが、視線が合った途端いつもの困ったような微笑みを浮かべた。


「ごめんね、驚くかなと思って、つい」


 そう口にした彼が、仕切り直すように額にキスを落としてきた。


 なんだ、驚かされただけであるらしい。寝起きだから、自分も普段より過剰反応してびっくりしてしまったのかもしれない。


 そう考えていると、ソファの後ろにいたアランが、正面に回ってきて隣に腰を下ろした。ティナはそれを見て、遅れて声を掛けた。


「おかえりなさい、アラン」


 お疲れ様という労いも込めて微笑み返したら、こちらを目に留めた彼が、エメラルド色の瞳をぱぁっと明るく輝かせてすぐ、膝の上に抱き上げてきた。


 後ろから肩を抱くようにぎゅっとしたかと思うと、頭をぐりぐりと擦りつけてくる。高い体温が伝わってきて、少し癖のある柔かな髪の感触まで服越しに触れて、くすぐったくなった。


「急にどうしたの?」

「君に『ただいま』って言えて、『おかえりなさい』って言われるのが嬉しいんだ。離れている間、とても寂しかった」


 初めてのダンス教室はどうだったの、とアランが続けて尋ねてきた。肩に顔を埋めた彼の囁いた吐息が、温かく肌の上を撫でてきてくすぐったい。


 こうして一緒に暮らして、毎日顔を合わせているというに、まだ寂しがり屋は健在であるらしい。ティナはそう思いながら、ダンスを分かりやすく丁寧に教えてもらったことを話した。


 それから、アグネシアから手紙を預かっていて、帰宅した際にロバートに渡したことも伝えた。彼女の個人指導では、授業のたびに記録と報告を一筆する事になっているようなのだ。


「お手紙については、本番のダンスを楽しみに待ってもらえるように、夜会が終わるまではロバートさんだけに見せて欲しいと頼まれたの。それでも大丈夫?」

「ああ、それがいいだろうね。本番を迎えた後でまとめて読むと、ロバートにも指示しておく。とても楽しみだ」


 そう言いながら、更に抱き寄せられた。茶化すように少し前に倒されたティナは、「ちょっと、屈まないでちょうだい」と言って笑った。


 彼が肩口で、「どうしようかな」と楽しげに笑う。


「こうした方が、ティナの横顔が見えやすいんだ」

「私は、耳元で喋られてくすぐったいわ」


 サラリと音を立てて、ティナの長い黒髪が前にこぼれ落ちる。アランはその様子を、ほんの少し思案するように視線を流し向けた。


「――じゃあ、直接くすぐってしまおうかな?」

「そんなことをしたら、昔みたいに脇腹をこちょこちょするわよ、アラン」

「それは困るな。うん、ものすごくくすぐったそうだ」


 アランは、ほぼ棒読み口調でそう言った。自分よりも低い位置にある彼女の形のいい頭を見て、それから細く白い首に目を留める。


「ねぇティナ。このまま、首の後ろにキスをしてもいいかな」


 そう唐突に要望された。


 ティナは、不思議に思って小さく首を傾げてしまった。いつも思うけれど、彼がキスしたがるタイミングがよく分からない。


 すると、答える前に、ほんの少し触れる程度の、じゃれるような口付けが首の後ろに落とされていた。思わず「くすぐったいわよ」と身をよじったら、アランが「ごめん」と反省のない楽しげな声で言って、隙間を埋めるように抱き締めてくる。

 その時、ふと、アランが揺れたスカートの下部分に目を向けた。


「これ、どうしたの?」


 ティナは彼の視線の先を辿って、裾の部分が少し擦り切れてしまっていることに気付いた。そういえばと、帰る直前に騒ぎに遭遇した一件を思い出した。起こった一連の出来事をさらりと話し聞かせて、「銀行強盗があったんですって」と教える。


「王都の銀行が襲われるのは滅多にないのにって、アグネシアさんもとても心配していたわ。しばらく一緒にいたのだけれど、犯人が馬車を置いて消えてしまったらしくて、早く事件が解決すると良いわねと話していたの」


 そう語り終えたところで、ティナは自分を後ろから抱き締めているアランが、ぴくりとも動かずやけに静かであることに気付いた。


 こちらが騒動について話し始めてから、彼は一言も発していない。どうしたのだろうと思って、肩越しに目を向けてみると、パチリと目が合ったアランが労うように微笑んできた。


「それは大変だったね」


 ようやく相槌を打ってきたその笑顔に、一瞬違和感を覚えた。すると、彼が安心させるようにニッコリと笑ってこう続けた。



「――警備隊は優秀だから、大丈夫だよ。何も心配はいらない」



 笑顔が変だなと思ったのは、自分の気のせいだったようだ。ティナは「そうね」と答えながら、どうにかしてこのスカートを直せないかしらと考えて、そこに目を向けた。

 この服は、元々屋敷に用意されてあったものだ。自分のちょっとした不注意のせいだと思うと申し訳ないし、気に入っていた物だったから、もし着られなくなってしまったらと想像すると悲しくなる。


 すると、声に出していないのに、アランが気遣うようにこう提案してきた。


「夕食までまだ少し時間はあるから、一緒にメアリーのところに行って、先に相談してみようか?」


 もし無理だったら、とは続けずに彼が手を取って歩き出した。


 昔はいつも自分が手を引いていたのに、あたりまえのように率先して彼が手を引いているのを不思議に思った。しっかりと握られた手を見つめていたティナは、心が救われるような気持ちがして、「ありがとう、アラン」とその背中に声を掛けた。



 その後、スカートの様子を確認したメアリーが、この程度であれば大丈夫なので任せて下さい、と頼もしく告げてくれた。それを聞いて、ティナはようやく安心したのだった。

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