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14話 三章 なんだか私も甘えてみたい

 この日、アランは普段より早い時間に帰ってきた。


 空はまだ夕焼け色にも染まっていなくて、前もってスケジュールを聞かされていた執事ロバートも、ちょっと意外だという表情を浮かべて主人を出迎えた。奥様であるティナとの挨拶を見届けた後、「お早いお帰りですね」と言った。


「業務が早めに終了してね」

「左様でございましたか。まだご夕飯には早い時間ですので、ご用意が整うまでごゆっくりされますか?」

「そうしよう。届いていた手紙と書類は、そのまま書斎室に置いていてくれ。リビングにまで、家の仕事を持ち込みたくない」

「かしこまりました」


 荷物を受け取ったロバートは、そう答えてからメイドたちに指示を出した。


 夕食が出来るまではと、ティナはアランと並んでリビングのソファに腰かけた。紅茶を用意してくれたメアリー達が出てすぐ、ダンスを少し習うためアグネシアの店に通うことにしたと彼に伝えた。


「ダンスを?」

「うん。少し習いたいなと思って、アグネシアさんにお願いしたの」


 アランが、不思議そうに首を傾げる。ティナは、まずは自分の口で伝えたいとロバートにはお願いしていたので、気を利かせた彼が「二階から、奥様のご本を取ってまいります」と一旦席を離れている間にと、その説明を続けた。


 教えてもらったアグネシアの店は、この屋敷から近く、徒歩で行き来するのに問題ない距離にあった。授業は一対一で進められ、短い時間に設定されている。わざわざ馬車を遣う必要もないので、迷惑はかけないことをティナは話した。


「まぁ、ここは治安も悪くないし、見回りの警備隊もいるけれど……」


 話を一通り聞いたアランは、名刺の店の住所を確認しながら、口の中で思案げに呟いた。それをテーブルにそっと戻したところで、隣にいるティナへと目を戻す。


「確かに距離的には問題ないけど、突然どうしてダンス教室なんて――」

「あの場で一人で決めてしまって、ごめんなさい。本当は前もって相談すべきだったと思ったのだけれど、私、どうしてもアランと踊れるように頑張りたくて。明日からでもお願いしますって、そうアグネシアさんに答えてしまったの」


 ティナは、彼とはもう家族なのに、自分の独断になってしまったと途中で気付いた。もし反対されたらと想像すると悲しくなって、だから通わせてほしいのという想いを込めて本心を伝えた。


「一緒に踊れたら、素敵だろうなって思ったの。アランと踊れるようになりたくて、だから頑張ってみたいのよ」


 頑張るから、とティナは引かない姿勢で言い切った。


 すると、何故かアランが手で口を押さえた。感動がぶわりと込み上げたのか、その瞳が感極まった様子で一気に潤む。それを見て、どうやら反対はされないらしいとティナは安堵した。


「通ってもいいの?」

「勿論。全然、全く問題ない」


 彼がぷるぷると震えながら、区切ってそう答えてきた。


「えぇと、アラン? どうかしたの?」

「ちょっと頭がどうにかなりそう。今度ある王宮の夜会に、さっそく出席の返事を出しておく」

「頭? あの、さっきから表情と声が、一致していないような気がするのだけれど……」


 ちょこんと顔を覗きこまれたアランは、「俺は大丈夫だから心配しないで」と口を手で押さえたまま答えた。まさかこんなにも早く『妻です』『夫です』と紹介出来る機会が到来しようとは……と手の内側にこぼして静かに悶えてしまう。彼女と踊れるとか嬉し過ぎる、想像するだけで興奮して夜眠れそうにない。


 もごもごと何やら呟かれている言葉が、ティナはうまく聞き取れないでいた。ダンス経験が全然なかったので、やっぱり心配しているのかしら、と思ってこう言った。


「アグネシアさんが、もしかしたら一番近い夜会に出席するかもしれない可能性を考えて、それに間に合うように付きっきりで教えてくれるらしいの。だから私、少しでも踊れるように頑張るわ」


 だから心配しないで、とティナは微笑んで見せた。


 するとアランが「応援してるッ」「楽しみだ」と言って、ぎゅうぎゅうに抱き締めてきた。高い体温の温もりに包まれたと思った時には、ソファに腰を降ろしている尻が少し浮いてしまっていた。


 満面の笑顔は子供みたいに無垢で、まるでプレゼントでもされたかのような喜びようだった。心の底からそう思っているのだと分かったティナは、息苦しかったものの、しばらくは好きにさせていた。しかし、続いて頭と額にキスまで落とされ始めてしまい、さすがにそれは少し恥ずかしくなって身をよじった。


「ちょっと、アラン。くすぐったい」

「ああ、ティナ。今日もとてもいい香りがする」


 たくましい腕でぎゅっと持ち上げられたかと思ったら、目尻にキスをされた。頬にもすぐ唇を押し付けられたティナは、やっぱくくすぐったくて「やりすぎよ」と胸板を手で押し返した。


 聞こえていなかったのか、どうしてか彼の動きがますます増した。触れている胸板ごしに、心臓の音が先程よりも大きくトクトクトクと鳴っているのを感じていると、耳のすぐ手前にもちゅっとキスを落としてきた彼が、鼻先で髪の中を探ってきた。

 まるで本当に犬みたいだ。いつもの花弁の香料の匂いよと教えたのに、アランはどこかうっとりした様子で「ティナ」と呟きながら、動物のように嗅いで鼻先を触れさせてくる。唇が何度か掠り、耳元にも温かい吐息を覚えていた。


 そのせいで、とてもくすぐったい。


 ティナは困ってしまって「ちょっとアラン」と、軽く叱り付けるように言った。胸が潰れるくらい力強く彼の方に押し付けられて、息苦しい。つい、ふっと苦しげに息をこぼしたら、彼がますます身体を押し付けてきた。


 その時、近くから低い声が上がった。


「――旦那様」


 殺気を孕んだその声を聞いた瞬間、アランがピタリと止まった。


 ティナは、彼の腕の力が緩んだのを感じて、ほっとしながらそこに目を向けた。本を二冊抱えたロバートが、ソファの背ごしに手を伸ばして、主人の後ろ襟を掴まえている。

 アランはティナをゆっくり解放すると、ぎこちなく自分の執事に目を向けた。その途端、ロバートがつきつけるように差し出してきた本の表紙を、しばし無言で見つめてしまった。


「旦那様、こちらの本をどうぞ」

「……うん。これ、俺の分か」

「左様でございます。他に、誰がいると?」


 静かに受け取った主人を見て、ロバートは続いて、ころっと表情と雰囲気を変えて「奥様どうぞ」と愛想良く、彼女が昼間に途中まで読んでいた本を丁寧に手渡した。続きが気になっていた本だと気付いたティナは、嬉しくなって「ありがとう」と受け取り、直前の疑問や質問も忘れた。


 アランはその間も、自分の分だと手渡された本を、じっと見つめていた。やはり黙っていられず、ゴクリと唾を飲むと「なぁ、ロバート……?」と声を発した。


「…………この本の『忍耐と仕事の集中力』というタイトルに、メッセージ性を感じるような気がするんだが」

「気のせいでございましょう、旦那様」


 ロバートは、優秀な執事といった態度で背筋を伸ばすと、涼しげな表情でしれっとそう答えた。


             ※※※


 しばらく、ソファに並んで座りながら、互いに本を読んで過ごしていた。


 空が夕刻色に染まった頃、秋らしい空気の冷え込みを感じた。そばに控えていたロバートが、ふっと気付いた様子で顔を上げて、灯りをつけると部屋の窓を全て閉めた。胸ポケットから、懐中時計を取り出して時刻を確認する。


「もうしばらくもすれば、ご夕食のメニューも全て揃うかと思われます。一旦それを確認してまいります。準備が整いましたらお呼び致しますので、今しばらくお待ちくださいませ」


 ロバートはそう告げると、丁寧に頭を下げて部屋を出て行った。


 本のページに視線を戻したティナは、また少し時間を忘れて読書に没頭した。切れのいい部分まで読み進めたところで、次に顔を上げて窓の外を見てみると、すっかり薄暗くなっていた。


 そのガラス窓に反射する室内の光景の中に、読書するアランの姿に気付いて目を留めた。長い足を組んで、黙々と読書している落ち着いた様子は、知らない美麗な大人の男性のようだった。

 それが、なんだか不思議な感じがした。普段の彼を思い返してみたところで、ふと、『いつも向こうからされていることを妻の方からやると夫が喜ぶ』と言っていた、アグネシアからのアドバイスが脳裏を過ぎった。


 アランは普段から、堂々と『寂しい』と口にして突撃してきたり、構ってとばかりにぐりぐりと頭を擦りつけて甘えてくる。その様子を思い返したティナは、自分の方からそれをやるのを想像して、恥ずかしくなった。これまでお姉さんのように彼の面倒を見て、引っ張ってきた自分には、子供みたいな真似なんて出来そうにない。


 そう考えたところで、不意に気付かされた。


 こうして夫婦となった自分たちは、最近になってようやく好きであると気付かされて、ようやくスタートラインに立った新米夫婦だ。その再スタートを切った暮らしの中で、いつも甘えてくるのはアランの方だった。


 ティナは、チラリと隣を盗み見た。アランは本のページにある文章を目で追っていて、その眼差しはとても落ち着いていた。もしかしたら普段、騎士として仕事をしている時は、こんなに冷静で凛々しい表情をしているのだろうか?


 なんとなく想像してしまって、ついじっと見つめてしまっていた。大人になった彼のそんな様子は、ほとんど見たことがなかったせいで馴染みがない。


 どうしてか、いつもは感じない他人のような距離感を覚えて、ソファに並んで腰かける互いの間の、ちょっとしたスペースが気になった。幼い頃にあった夕暮れの別れ時のように、心が少しだけしんみりするのを感じた。


 肌寒いわけでもないのに、温もりが欲しくなった。心細さで胸が苦しい気がする。すぐ手の届く距離にいるのに、寂しさは増すばかりで、確かに彼がそこにいるのだと確認したくてたまらなくなった。


 子供でもないのに甘えたくなってしまい、ティナは彼が傍にいると実感したくなって、読んでいた本をソファの脇に置いた。


 隣に座る彼の横に、ぴったりと身を寄せてみた。それでもなんだか落ち着かなくて、今度は抱きついてみた。すると、触れた場所から暖かさがじんわりと伝わってきて、そこでようやくほっと出来た。


「どうしたの、ティナ?」


 不思議と安堵感が胸に広がって、心細さが消えていくのを感じていると、アランが目を丸くしてこちらを見下ろしてきた。


 問われたティナは、ふっと唐突に、自分が恥ずかしいことをしていると気付いた。じわじわと顔に熱が集まるのを感じて、唇をきゅっとした。


 どうしてかは分からない。ただ、子供がするみたいに甘えたくなってしまったのだ。心寂しさで温もりが欲しくなったなんて正直に答えたら、笑われてしまうだろうか?

 本を脇に置いたアランが、宥めるように頭を撫でて「どうした?」と心配そうに尋ねてきた。ティナは、その優しいエメラルド色の瞳を見たところで嘘も吐けなくなって、恥ずかしさで少し頬を染めたまま、視線をそらしながらぽつりと白状した。


「…………ただ、私が、ぎゅっとしてみたくなっただけなの」


 ティナは、申し訳なくなって、小さな声で続けた。


「………………読書の邪魔をしてしまって、ごめんなさい……」


 いきなり読書の手を止めさせることになってしまったのに、どうしてか離れ難くて、ティナは自分でもよく分からないという口調で言葉をこぼすと、抱きついた彼に熱くなった頬を押しつけて「いきなり抱きついたりなんかして、迷惑だった……?」と訊いた。


 囁きのような声が途切れる。はじめの一声を聞いてからずっと、動きを止めていた彼が、そこでようやく止めていた息をこぼすように「ああ、ティナ」と言った。どうしたんだろうと思ったティナは、次の瞬間、思いきり抱き締められていた。


 力強く腕の中に閉じ込められて、一瞬息が詰まった。先程よりも高くなった彼の体温で包まれて、清潔な香りが鼻先を掠める。


「ティナ、すごく嬉しいよ、可愛い。どうしよう嬉し過ぎて……ああ、やっぱり可愛過ぎる」


 ぎゅぅっと強く抱き締めながら、何故かアランが、似たようなことを二回言った。誰から『可愛い』なんて言われたのは初めてで、ティナはびっくりしてしまった。

 自分はこんなにも平凡なのに、彼には可愛いく見えていて、そう思ってくれているの……?


 そんな思いが脳裏を過ぎった途端、不意に猛烈な恥ずかしさが込み上げた。ティナは赤面してしまい、声も出せなくなった。何か言わなくちゃと思うのに、顔も熱くて、心臓がドクドクとして唇も上手く動いてくれない。


 ぐんぐんと体温が上がるみたいに、どこかふわふわとして身体から力も抜けてしまう。そうしたら、力一杯抱き締めてきている彼の大きな身体を支えられなくなった。

 あ、と思った時には、押されるままソファに倒れ込んでいた。ドサリと音が上がって、一緒に重なるように倒れてしまう。頭がソファについた際にぎゅっと目を閉じたティナは、頬を包み込んでくる大きな手の熱を感じて、そっと目を開けた。


 自分の上にいて、近い距離から、真っすぐこちらを見下ろしている彼に気付いた。アランが身体を重ねたまま、両手でこちらの頬を撫でるように包みこんでいる。



「――このまま、キスをしてもいい?」


 

 彼がそう訊いてきた。こちらを間近から見下ろすその顔は、熱に悩まされているかのように少し火照っていた。重なって触れている彼のしっかりとした胸元から、どうしてか自分と同じように、とても速く大きくなっている心臓の音が伝わってくる。

 それを不思議に思って、ティナはアランの顔にそっと手を伸ばした。触れてみた頬は、とても体温が高かった。可愛いと言われて、恥ずかしくなって赤面している自分と同じで、彼もとても緊張しているみたいだと気付かされた。


 すると、アランがその手を上から握り締めてきた。もっと触れさせるように頬を擦り寄せると、そのまま掌をゆっくりと唇へ持っていく。その仕草がとても色っぽく感じて、ティナはなんだかドキドキしてしまった。



「ティナ、このままキスがしたい」


 

 こちらの手を口許に寄せたアランが、熱の宿る強い眼差しを向けたままそう言った。懇願するようなその声は、どこか余裕がないようにも感じた。


「…………少しだけ、ほんとに少しだけ長めにするけど、怖くないから」


 だから、どうかキスをさせて、と彼が続けて掌に唇を押し当てる。


 手に柔かな温もりを感じたティナは、そこから甘い痺れが伝わってくるみたいに思えて、そんな彼の様子を見つめていた。いつもアランがキスをねだるきっかけやタイミングは分からない。でも、怖さや怯えを感じさせられたことはなかった。


 彼の身体の重さを感じている今だって、その体温に不思議な安心感を覚えている自分がいる。彼とは、幼い頃からずっと一緒だったのだ。そもそも信じているのだから、何も怖いはずがない。


 もう一度、掌をちゅっとされる熱を感じた。どうしてかは分からないけれど、代わりのようにそこにしないで、自分の唇にキスをして欲しいと思った。


「私、怖くないわ。だから、キスをして、アラン」


 だからティナはそう答えて、キスを受け入れるべく目を閉じた。吐息を覚えた時、身体を重ねたままのアランが「ティナ」と呼んで、唇を包み込むような口付けを落としてきた。

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