12話 三章 なんだか夫がすごく甘えてくる
数日前の『アビリラ祭』で互いの想いを伝えあってからというもの、アランが以前にも増して、ものすごく甘えてくる気がする。
初めて口付けをしたあの翌日から「キスしたい」と言ってくるようになり、時折、ふと気付いたら髪や手にも茶化すように唇で触れてくる。どれもスキンシップの延長戦のように、あっさりさりげなくやってのけているので、警戒心は煽られていない。
そのせいか、夫婦として『恋人同士のスタート地点』に立てた今、大きな変化や戸惑いは感じていなかった。ただ、ここ数日をよくよく思い返してみると、不思議と抱き締められて床から足が離れる回数が、若干減っているような気もする。
それはそれで、苦しくなくていいかなと思う。しかし気のせいか、泣き虫で弱気な彼がやけに積極的になって押してきているような。普段の激しい抱擁の代わりのように、以前の彼らしかぬような『新しいスキンシップ』が増している気が――
「ティナ」
玄関フロアでそう思案していたティナは、名前を呼ばれて我に返った。朝のお見送りをするため、執事のロバートと本日の日程について話すアランの邪魔をしないよう、少し離れて待っていたのだ。
すると、その直後、後ろから手を取られていた。あ、と思う暇もなく大きな手が回ってきて、顎を支えて引き寄せられる。そして次の瞬間には、流れるような動きで、ちゅっと音を立ててアランの唇が頬に押しつけられていた。
すぐに唇は離れていった。ちょっと触れ合うような、あっという間の出来事で驚く時間もなくて、少し遅れて頬にキスをされたらしいと理解出来た。
ティナは左手を取られたまま、背中に触れている高い体温を感じながら肩越しに見上げてみた。いつもより近い距離から、こちらを見下ろすアランのエメラルド色の瞳があった。最近は特に、どこか潤って美しい鮮やかな色合いに見えたりする。
「次は、唇にキスしてもいい?」
彼が柔らかい声で、そう尋ねてきた。突然したら驚かせてしまうだろうか、と配慮するかのようでありながら、したくてたまらないと熱のこもった目で見つめてくる。
先日の『アビリラ祭』では、初めてのキスをあんなに恥ずかしがっていたのに、今は自分から積極的に、よく分からない唐突なタイミングで欲しがってきたりする。それが、ティナには少し不思議だった。
あの日以降、ちょっと触れたと思ったら離れていくような口付けをされていた。それは本当に僅かに触れる程度のもので、両親に幼い頃、額に軽くキスを落とされたものに似ている。おかげで緊張感は覚えないでいるのだけれど、今はちょっと状況が違う。
ティナは、玄関の方で待機しているロバートを、チラリと見やった。人の目があるこのタイミングで、キスがしたいという提案には、すぐに返事が出来なかった。
「あの、アラン? えぇとその、ロバートさんもいるんだけど…………」
すると、アランが握り込んだ指先を口許にあてて「だめ……?」と、お願いするように訊き返してきた。美麗な顔には寂しそうな様子が漂っていて、まるで子犬が項垂れているようにも見える。
どうやら自分は、彼のこの態度と表情に弱いらしい。昔から世話を焼いていたせいか、きゅんとなってしまい、断れずに甘やかしてしまいたくなることに最近気付いていた。
でも、やっぱりロバートさんにキスを見られるのは、恥ずかしい気がする……。
ティナはそう思って、思案げに目を落とした。すると、こっちを見てとばかりに少し身体を横にずらされて、顎にかかっていた手で上を向かされていた。近い距離から彼に覗きこまれて、考え事に集中出来なくなってしまう。
「ティナ。唇にキス、したいな」
ロバートの方に聞こえない小さな声で、アランがそう言った。懇願するようにこちらを見つめたまま「目の前に君がいるのに、待ちきれなくなる」と囁きながら、こちらの左手の結婚指輪に、そっとキスを落としてくる。
一瞬、なんだか彼がとても大人びて色っぽく見えて、ティナはドキドキした。触れられている指先から、高い体温が伝わってくるみたいに、じわじわと顔が火照るような気がする。つい動けないでいると、彼が少し背を屈めて、鼻先がぶつかりそうな距離からこう言った。
「俺で隠れているから、ロバートからは見えないよ」
「え、そうなの? 本当に……?」
ティナは、答えながら彼の口許を見てしまった。好きだと自覚したせいなのだろうか。今、こちらが少し踵を上げて爪先立ちをしたら、その形のいい唇に届きそうだという想像が浮かんで、ふっとキスがしたくなる。
それを自覚した途端に恥ずかしくなって、ぶわりと顔に熱が集まるのを感じた。なんてこと考えてるの、そう思って慌てて目をそらそうとした時、どこからかブチリと何かが切れる音がして、顎を支えているアランの手がそれを阻止してきた。
「いつもより『ちょっとだけ長くする』けど、大丈夫だから」
大丈夫って、何が?
彼がそう言った直後、パクリ、とティナは吐息ごと唇を奪われていた。ハッキリと唇同士が強く触れているのを感じて、その強い熱に思考が止まった。
いつもにはないくらいゆっくりと、優しく啄ばむように唇が離れていった。思わず何も反応出来ないでいると、アランが様子を確認するように「平気?」と訊いてきた。ティナは目を丸くしたまま、どうにか頭の中を整理してから「うん」と答えた。
「…………その、なんだかいつもと違っていたから、ちょっとびっくりしたわ」
「そうか『少しだけ』、ね――うん、驚かせてしまって、ごめん」
ほんの少し思案したアランが、冷静に独り言を口にしてから、いつもの表情に戻って申し訳なさそうに微笑んできた。けれど顎を支える手が離れる際に、彼が唇の下を物憂げに見やって、するりとなぞられたような気がした。
気のせいか、それは随分大人びた眼差しに思えた。少し緊張を覚えてしまうと、察したかのようなタイミングで、アランが雰囲気を変えて腰を屈めてきた。
「今日も仕事を頑張ってくる。会えない時間分の元気を、もらってもいい?」
そう言って両手を少し広げて見せた彼は、いつもの子供みたいな目をしていた。抱き締めて欲しいと伝えているのだと気付いて、いつもの彼だと思ってなんだか安心した。
ティナは「いいわよ」と答えると、寂しがり屋な幼馴染を抱き締めてあげた。すると、アランがくすぐったそうに抱き締め返してきて、肩に頭を擦り寄せてくる。
主人の様子を見ていたロバートは、呆れたように腰に手をあてた。しかし、「ようやく一歩前進ですからね」と苦笑を浮かべると、少し予定時間を押していることについては今回だけ、もう一、二分くらいは黙っていることにしたのだった。