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歯痛故に

作者: 雫石

 歯の痛みのせいか、彼はその時意識が朦朧としていた。

 歯が痛み出したのは、誕生日を直前に控えた秋の深まりを肌で感じる頃だった。

 一度知覚してしまった疼きは止まることを知らず、彼の精神を苛んだ。

 彼は歯科医院に通うことの出来ない人間だった。目と鼻の先、百メートルも歩けば在る歯科医院に彼は足を運べない。歯科医院に足を運ぶ。たったそれだけのことで、抗い難い嘔吐反射に襲われるからだ。

 そもそも嘔吐反射とは、人体が持つ防衛機能の一つである。熱を持った物に触れると、勝手に身体が反応してしまう。それと同じシステムの、この嘔吐反射であるが、歯科治療時に起こるそれは、また別物である。

 治療に対する恐怖からくる過度の緊張や、口内に器具を挿入されることで起こる不快感。これらの精神的ストレスが、歯科治療時の嘔吐反射を引き起こすと言われている。


 彼の場合も然りであるが、彼が他人と違うのは、歯科医院の門を開く事、いやそれ以前に前述した通り、歯科医院に足を運ぶことすらできない、それが彼と他人の違いである。


 故に彼は歯科医院に通えない。どれだけの痛みが彼を襲おうと、彼は我慢し続けるしかないのだ。


 その年の彼の誕生日は最悪のものになった。歯の痛みは誕生日という今日であっても彼を見逃してはくれない。


 ここから彼の闘いが始まる。

 勝てる見込みなど皆無の闘いが。


 日を追うごとに歯痛は増していった。

 最初は痛み止めを一錠飲めば、その日一日をやり過ごせる程度の痛みだったのが、痛みは加速度を増していく。


 それでも彼は辛抱強かった。

 痛み止めを服用しながら、仕事に精を出した。疲弊していく精神と身体を気遣うことなく。


 そんな日々も長くは続かなかった。痛み止めの過剰服用によって胃腸系へのダメージは相当なものになっていたし、その上痛み止めは効きづらくなっていた。


 仕事中も絶え間無く襲ってくる歯痛に彼の精神と身体は限界に達しつつあった。こんな状態では仕事を続けられない、そう悟った彼は退職願を提出し、家に引き籠る生活をする決心をした。

 横になって極力身体を動かさなければ、痛みも和らぐ。痛みを少しでも和らげる。それがその時の彼の唯一絶対の至上命題であった。


 それから二年という長きに渡る月日を彼は布団の上で過ごした。彼は家族と共に暮らしていたが、彼の家族とて、勿論彼の置かれた状況を傍観していたわけではなく、彼を病院に行かせようと、様々な工夫を試行した。が、彼が病院に行くことはなく、その上、自室から出ることも段々と減っていった。


 時間の流れとは無慈悲であり、そんな彼の存在は家族の中で希薄なものになっていった。家族に残された道は諦観しかなった。


 ──再び秋が巡ってきた。

 彼の人生を大きく変えてしまった秋。

 彼にとっては最悪の季節。

 自らが生を受けた季節であり、災厄が降りかかった季節。


 彼は自室の窓から朱に染まりつつある街並みを見下ろす。もう二年も一歩たりとも外の世界に足を踏み出していない。


 歯痛のせいか、彼の意識は朦朧としていた。朦朧とした意識の中で、ふと気付くと、彼は幼少時に通っていた歯科医院の前に立っていた。目と鼻の先に在った歯科医院ではあるが、もう何年も視線を向けることすらしなかった歯科医院の門扉が目前にある。


 彼はドアノブに手をかける。不思議と緊張はしていなかった。意識が朦朧としているせいかもしれない。


 院内に足を踏み入れて、彼の目に初めて飛び込んできた文字列。


「笑気麻酔始めました」


 完。



笑気麻酔にワンチャンをかけ、私も歯医者へ通います。たぶん。

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