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恋花

作者: 黒衛



―― 桃色の雪のような 優しい花を下さい

    いつか辿り着きたいと 君を想っている様に ――




彼女と出会ったのは、私が医家の先生宅で書生の真似事をしていた頃だから、もう随分と昔のことになるのだろう。

書生といえば聞こえは良いが、用は体のいい下男である。

勿論医学の勉強にも励んではいたが、元来私とは性の合わぬものであったらしく、よくよく壁にぶつかっては愚にも付かぬことをつらつらと思い悩む、そんな青っ白い頭でっかちの男が、つまり私であった。

私の先生宅の辺りには坂が多かった。

近くに小高い丘があって、私はその上から見える景色が好きだったので、よくそこへ出かけてはぼんやりとしていたものだ。草っ原がそのまま放置されていたのが良い。

長閑な田舎の山にある母の故郷で生まれ、幼い頃に母から離されてこの地へやって来た私には、放り出されて草だけ茂るこの光景が、掠れた記憶の中の風景と似て懐かしく映るのだろう。

丘には一本の木が立っている。何の木かは誰も知らない。何故なら「咲かずの木」と名付けられたそれは、咲かずどころか葉の一枚すらつけた事がないからだ。

その向こうにはお屋敷がある。坂の上のお屋敷と呼ばれるその豪邸に住まう人物を私は知らない。が、余程高貴な血を引くお方だということは、人の噂を聞かずとも何とはなしに知っていた。



あれは、季節で言うと初夏――いや、晩秋であったか。

空には櫛型の月が浮かんで、涼しい風が髪を撫ぜる心地の良い晩であった。

私はいつものように丘に上った。暗い道も、月が仄明るく闇に困ることはなかった。

私は大概咲かずの木の所で一服するのが常だった。だからその日も木の下まで行ったのだ。

そこに先客がいた。

おや、と思った。今までに一度でもここで誰かと出会ったことはないし、何よりそれはうら若き淑女であった。

私は驚いた。深夜というほどではないが、既に女子供が外出する時間ではない。挙句にその女性はとても良い身なりをしていたので、はて夜鷹の類でもあるまいし如何した訳だと訝しんでいると、女性はふと私の方を振り向いた。

身の竦む思いがした。いや、女が化けたとか言うのではない。寧ろその逆。

美しかった。流れる黒髪と、内から光を放つような白い肌、長い睫毛に縁取られた黒曜石色の瞳。夜の中で全てが美しく、私は息を詰まらせて立ち竦むしかなかった。

女性は、何方ですの?と不思議そうな顔をして私に問うた。

「君こそ誰かね?」

と私は精一杯尋ね返した。

「もうご婦人が歩くには些か遅いが」

すると、女はくすりと笑って答えた。

「大丈夫ですのよ。お家はすぐ其処ですから」

成程。夜の散歩の同好の士ということか。

「私は朔と申します」と彼女は言った。

女性に先に名乗らせたままではいかぬ。私もすぐに、「佐倉と言います」と名乗った。

「あらまぁ」と微笑んで、「それではサク様とお呼びしますわ」

朗らかに言った彼女があまりに美しく、私はその一秒で恋に落ちた。

彼女の笑みの下で咲く桜の柄の黒い着物が、艶やかな夜桜にも見えた。


この話を、同じく医術を志す書生仲間に聞かせると、皆一斉に私を笑った。

お前それは狐に化かされたのだ、いや危うく美人局に引っ掛かる所だった、もしやその女は咲かずの木の精だったかも知れんぞ、すると食われかねんかったな、と面白おかしく囃し立てる中で、ただ一人春日井だけが真面目に聞いてくれた。

春日井は色の薄い髪を肩まで伸ばした白皙の美青年で、頭が良く私達の間では一番に医者になるだろうと言われていた。

皆と喋って騒いだ後、春日井と帰り路を歩く途中で不意に、

「本気か?」と彼が尋ねた。

私は一瞬何のことかわからなかったが、すぐに彼女のことなのだと察した。

「あぁ」

とだけ答えると、

「お前らしいな」

春日井は短く笑って、それっきり一言も話さぬまま私達は帰路を辿った。

私は以前より頻繁に散歩に出るようになった。何度も出かけている間に、二度に一度は彼女と出会うことができた。そんな時、私と彼女は咲かずの木の下で暫し話し込んだ。

彼女は確かに私のことをサク様と呼んだ。私は彼女を朔殿と呼んだ。

彼女は「二人とも同じ名では何だか不思議ですわね」と笑った。

その様が無邪気で可憐で、私はどうしようもなく彼女に惹かれてゆく己を感じるのだった。

やがて二人が約束し合って落ち合うようになるまで、そうは掛からなかった。

何時か私は不安になって、彼女に尋ねてみたことがある。

「いつもこんな遅くに外出して、ご両親は心配なさらないのか?」

彼女はこう答えた。

「心配性のサク様。私のお家はほら、あそこですわ」

彼女が指差したのは、咲かずの木の向こうに見えるあの立派なお屋敷だった。

そうではないかと言う気もしていたが、やはりそうであったか。この近くに彼女のように身なりの良いお嬢さんがいるようなお宅はあそこしかない。

「しかし、するとご両親は尚更ご心配では?大事なお嬢さんが私のような若造と…」

「あら、いいえ。だってサク様は立派なお医者様になる方ですもの」

笑んで答える彼女の言葉が、私にはくすぐったかった。

「でも、せめて昼にお会いした方が良いと思うのです。それで、良ければ何処か遊びにゆきませんか?」

それは、私の勇気を振り絞ったデェトの誘いだった。

彼女はやはり笑んだまま、だけれど何故か寂しそうな目で、

「ごめんなさい、サク様。私は日の光が苦手なのです。幼い頃から体が弱くて、いつも外に出てよいのは日が沈んでからだけ」

あぁ、と私は頷いた。それで彼女の肌はそんなにも白いのかと。まるで雪のように。

「それに、サク様のお勉強のお邪魔をするわけにはいきませんもの。

 でも、サク様がお医者様になったらきっと連れて行って下さいましね。きっとですわよ」

何度も念を押す彼女を、私はいじましくも愛らしいと思うのだ。


しかし、彼女があのお屋敷のお嬢様であるという事実は私の心を挫かせた。

どうしたって身分違いであることは明らかだ。相談できるような相手は、やはり書生仲間しかいなかった。

今度は彼らも笑わなかった。私が真剣だということは知っていたし、何より一番行く末を案じてくれていたのは他でもない彼らだ。

「お嬢さんだとは思っていたが、何とお屋敷の娘さんだったか」

「そんな気はしていたがなぁ」

「何、気を落とすな。寧ろ医者の卵だと紹介されているなら心強いものじゃないか」

彼らは口々にそう言ってくれたが、私の心を慰めるには足らなかった。

「しかし、あそこに娘さんなぞ居たかなぁ」書生仲間の一人が言った。

「居るのだろうさ、本人がそう言ったのだろ」

「だったら医者が呼ばれるだろう?しかし我々の先生は誰も呼ばれたことがない」

「そりゃきっとお抱えの先生がいるのさ」

「成程」

そんな他愛無い会話にすら、参加する気力もなかった。

私はまた春日井と帰り道を辿った。

「佐倉、少し痩せたか?」と彼が尋ねた。

「寝不足かな」と私は答えた。

彼は呆れた顔で笑った。

「何だ、元気じゃないか」

「そりゃあね。私が一人悩んでいるだけで、何も振られたわけじゃない」

別れ道になる三叉路で、春日井が私にこう言った。

「無理はするなよ」

何だか沈んだ声に聞こえたのは、きっと私の心境のせいだろう。



その日が来ることは、私には最初からわかっていた。何故かと聞かれても困るけれど。

だから、そう聞かされた時もあまり驚かずに済んだ。

「私、もう行きませんと」

「何処へ?」

「遠い所へ」

彼女はそれだけ答えた。月のない夜だった。だけど何故か私達の周りだけは仄かに明るくて、そして最早私はそれを不思議には思わないのだ。

思えばいつだって、彼女は蛍のように儚げに輝いていたのだから。

私はそれを仲間達に話すほど愚かではなかった。話してしまえば、きっともう彼女には会えない。いや、そちらを選んだ時点で、私は既に救われようもない愚か者だ。

「何時、なのです?」

「もうじき」

もうすぐですわ、と彼女は言った。

「私も一緒に……!」

彼女は一瞬驚いた顔をして、それから花が咲いたようにぱっと笑った。

「嬉しいサク様、本当に来て下さるの?私と一緒に?向こうは少し淋しくってよ?」

私は大きく頷いた。

「あぁ、嬉しいサク様。約束よ、きっとよ、きっと!」

彼女はとても喜んで、私はこんなに喜んでくれるのならもっと早くこうするべきだったと、本当に愚かなことにそう思うのだ。

それからの私は、夜となく昼となく咲かずの木を訪れた。私が行くと彼女も現れて、そこでとりとめもないことを話すのだ。

彼女は始終楽しそうだった。彼女が幸せでいてくれるのなら、私はそれでいい。


ある日春日井がやって来た。

「やつれたな佐倉」

「そうかい?」

惚けてはみたものの、春日井には全てお見通しなのだろう。今の自分の有様がかなり酷いものだとは自覚もしている。

手土産のはずの饅頭を自分で頬張りながら、彼は言った。

「お前が何とかできることだとは思うなよ」

「……分かってはいるのだけどね」

私には分かっている。けれど、こればかりはどうしようもない。

気遣ってくれる彼には申し訳ないが。

結局私は全てを裏切っているのだろうと思う。



ある夜、咲かずの木の下を訪れると、そこには彼女が立っていて、美しい彼女は笑んでこう言った。

「今宵ですわサク様。旅立ちの夜ですわよ」

それを聞いて私は、その時が来たことを知った。

いつかという時を知ってはいても、いざとなると不安は拭えぬものだ。

私は彼女の側に立ち、その手を取って木を見上げた。

「朔殿、ささやかではありますが旅立ちに祝いの品を用意しました。受け取って下さい」

彼女も、ふと頭上を仰いだ。目の前に薄桃色の雪が見えた。

いや、それは花弁だ。小さな花が、一斉に散っていた。

桃色の花を重そうにつけた枝。匂い立つそれは夢でも幻でもない。

咲かずの木が咲いていた。

咲かない花が、満開の桜が、葉もなく花だけを重たげにつけて、

私達の頭上で狂い咲いて舞い散っていた。

「まぁ、何て綺麗!」

彼女ははしゃいで駆け出した。

降りしきる桜の花弁の中で、袖をなびかせくるりくるりと踊って見せた。

その度に、袖や裾に触れた花が片端から彼女の黒い着物に吸い込まれて、艶やかな桜の柄となった。

その様を、何と可憐で美しいのだろうと思った。

「サク様、見てくださいな」

しかし、振り返った彼女はきょろきょろと私を探し始めた。

「サク様、どちらにいらっしゃるの。サク様?」

彼女の不安げな様に、私の心はずきりと痛んだ。

彼女の目に、私はもう見えないのだ。

「サク様、私を置いていかれたの?共に参ると約束を下さったのに!」

彼女に答えたのは、私ではない別の声だった。

「彼奴はそこに居るだろう。ほら、お前の袖に、衣に。

 満開の“サクラ”が」

それに気付いて彼女は、驚いたように、だけどそれ以上に嬉しそうに、自分の袖をかき抱いた。

「あぁ、サク様。此処にいらしたのね。嬉しい、これでずっと一緒に居られますわ」

彼女の姿が花吹雪の中に霞んだ気がした。けれどそれは錯覚ではなく。

  さぁ、参りましょう。

と彼女の声が聞こえた。

ほんの一時で全てを散らし尽くしてしまう花の嵐の中に、彼女が掠れる。

彼女の姿が私の目には届かなくなっても、花弁は絶えずに降り続けた。

彼女を送るように、別れを愛しむように。

花と安らいだ微笑。最後の瞬間に見えた彼女は、何よりも美しかった。

彼女は笑って旅立った。

私を連れて。

私を置いて。



花霞の中で、私は今しがたやって来た彼に言う。

――来たのか。

彼、春日井は独り言のように呟く。

「彼女は君のことを知っていたようだな」

私は頷く。

――それはそうさ、ずっと一緒に居たのだから。

私は一番太い枝の上に立っている。

下から春日井が呼びかける。

「漸くお前の名の通りになったな、サクラ――佐倉咲太郎」

サクラサクタロウ。

その名を聞いて、私は笑う。

――君のくれた名はいい名だ。私は大好きだ。

私は微笑む。

彼女が笑って去ったから、私も微笑える。

だけど、これは私の“花”ではない。私の足元に埋められて、私の滋養になった彼女の花だ。

何故に彼女がそのような目に会わねばならなかったかは到底知れぬが、彼女の血潮を吸って咲いた“私”が言うのだから、違いない。

これは、彼女の“花”だ。

長い間土の中で独りだった彼女は、きっと淋しかったことだろう。

その空虚をほんの少しでも埋められたなら、季節外れに“私”の咲いた価値もあるだろうか。

私の咲かせた彼女の“花”は、永遠に彼女と共に在る。嫉ましくも、羨ましいことに。

――私の“花”は咲かない。

   私はやはり“咲かず”のままだ。

そう言うと、春日井は少し困ったように笑った。

「しかし、お前の花が美しいことは、ちゃんと俺が知っている」

涙代わりに、恋の花を散らせたばかりの私には、彼のその言葉が殊の外嬉しく響いた。




―― 了




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