カラスの場合2
昔から僕は天然パーマだった。
いつごろからだろう、覚えていないが、生まれた時からではないと思う。
昔の写真を見る限り、幼稚園児の頃から髪はクルクルと巻かれていた。天然パーマは僕のいくつかあるコンプレックスの一つだった。だから中学校の二年までは、髪が巻かない程度の短髪にしていた。
けれど周りの連中が髪を伸ばしたりとオシャレに気を配るにつれて、僕も短い髪型に一種の抵抗感を覚えていった。
シャンプーやリンスはもちろんのこと、ストレート液や、美容院でのストレートパーマも試してみた。
しかし、それらは一時の効果を得られたとしても、根本的なものにはなりえなかった。
二ヶ月もすれば、僕の髪はあちこちに飛びはね、まるでテストのペケ印のように中途半端な曲線を描いていた。
そして高校上がる頃、僕は決心した。
天然パーマから逃げるのではなく、天然パーマと上手く付き合おうと。
ある程度、髪を伸ばし、あえてそのままに放置しておいた。
それは天然パーマであったものの、見方によってはパーマをかけたようなオシャレに見えないでもなかった。
大切なのはイメージの転換と、そのイメージが紛いものでも信じることなのだ。
休み時間や放課後、僕はいつもトイレで髪を整える。
整えるといっても、明らかに飛びはね過ぎている箇所を水で矯正するだけだ。
しかし今日の放課後は念入りに髪型をチェックした。
僕のクラスは事前の取り決めで、日直当番は、男子は席並びの右隅後ろから、女子は左隅前から順番に当たっていくと決まっていた。
なんでそんな複雑な方法を取ったのか理解できないが、とにかくそうなっていた。
そして、音野響子と日直がかぶったのは、高校に入学してから今日が初めてのことだった。
日直当番はその日の学校終わりに職員室に行き、担任に今日一日で変わったことがなかったかを報告しなければならない。
そしてそれは担任、男子の日直当番、女子の日直当番の三人が揃って行われる。
今日、音野響子が在籍する吹奏楽部は朝練だけの日だ。
つまり、そこがアタックチャーンスなのだ――。
僕はトイレを出ると職員室にむかった。イメージしていた。
まず、職員室に入ると、「遅いぞ」と担任の笹岡が扉より三メートル離れた職員席から声をかけてくる。
席に座る笹岡の前には学生カバンを背負った音野響子が立っている。
音野響子は何という感情の無いような顔で僕を見ている。
僕はまず、小走りで二人に近寄り、「すんません」と反省と恥ずかし気の入り交じった笑顔で頭をかいて笹岡に謝る。
それから音野響子をちらっと見て、「待たせてごめんね」と頭をかいて謝る。
音野は何も言わないが、しかし手をあげて、別に大丈夫――、というふうな態度を見せる。
それから報告会が始まるが、今日一日で大したことは特になかったし、僕も音野響子も笹岡と世間話するほどの教師生徒関係でもないので、一分くらいで報告会は終わる。
「明日の日直当番は黒板に書いたか?」笹岡の問いに、僕は「書きました」と答える。
それから笹岡とあいさつして、僕と音野響子は一緒に職員室を出る。
ここからが大切だ。
二人で廊下を歩きながら、僕は窓の外を見る。
すると、一匹のカラスが飛んでいる。
カラスはカラスらしくない動きで空を――。カラス?
えっなんでカラスなんだろう――。
あっ――。
変なノイズが混じったせいで、イメージが途切れてしまった。
それに、気がつくと、僕はもうすでに職員室の前に立っていた。
しかたない――。
僕は中途半端なイメージを携えて、職員室の扉を開けて、中に入った。
「遅いぞ」
三メートル離れた職員席で、笹岡が僕を見つけるなり言った。笹岡の前には音野響子が立っていた。
僕を見ている。ただ見ているだけ、というふうで、どうという感情はなさそうだ。でも、無表情でもやっぱり可愛い。
なんでこんなに可愛いんだろう。理解できない。
理解できないなぁ――、小走りで二人にかけ寄りながらそう思った。
「すんません」
ちょっと笑顔が引きつった気もするが、まぁまぁな出来だろう。及第点だ。
そして、音野のほうを見た。かなり至近距離だ。かなり至近距離で目が合った。
胸がどきどきする。息が荒くなりそうだ、深呼吸をした。
音野響子が僕を見ている。僕も音野響子を見ている。
まだ目が合ってる。目を逸らしたい、恥ずかしい――。
「遅れて……、ごめんなさい……」
言いながら、なんか違うと思った。でも頭では何かが分泌され始めていて、まともなことは考えられなかった。
音野響子は「えっいや、別に」と言うと、少し気まずそうに目を逸した。
僕は、初めて音野響子と話をした。
僕の言葉に音野響子が始めて答えた。
その事実に、僕は気がついた。
信じられなかった。こういうことってあるんだ。
頭の中が真っ白になって、気がつくと、報告会は終わっていた。
「明日の日直当番は黒板に書いたか?」
「えっ?」
「はい、誰かが書いてくれてました」、そう答えたのは音野響子だった。
僕と音野響子は、揃って職員室を出た。
職員室を出て、音野響子はすぐに僕を見た。
そして、どういう意味なのか分らない笑みを浮かべた。
でも何も言わなかった。そのまま音野響子は廊下を歩き始め、僕も並んで歩いた。横を歩いているだけで幸せな気分になった。すごく幸せだった。
げた箱に着き、靴にはきかえて、げた箱から校門までも二人で歩いた。
外は十一月半ばらしく、少し肌寒い気候だった。
そこいらに落ち葉が落ち、どうにか残った葉も、寒さがやってきて木々が身震いするとすぐに落ちてしまいそうだった。
二人の間に言葉は一切なかった。
しかし僕に関していうと気まずくはなかった。むしろ、このまま、無言のままに二人で永久に歩いていたいとすら思っていた。
けれど、その幸せも長くは続かない。
わかっていた。
僕と音野響子の家路は真逆で、今見えてくる校門を過ぎると別れなければならない。
だから、音野響子の歩調に合わせながらも、できるだけ遅く歩いた。
そのうち校門に着き、そこで音野響子は僕に向き直り、「それじゃあ、また明日ね、巻神くん」と言った。
「うん、それじゃあ、音野さん」
僕らは別れた。音野響子は背を向け、歩き始めた。音野響子の背中が遠ざかっていく。
僕は歩き慣れた歩道を少し歩き、それから素早く振り返った。
音野響子の背中姿はまだあった。
歩道は登下校の生徒で溢れている。
立ち止まる僕の横を同じ制服を着た生徒たちが通り過ぎていった。
僕は下校する北木高校生徒の大勢の一人になっていた。
歩き続ける音野響子と立ち止まる僕との距離は、ちょうど三十メートルくらいになっている。
ちょうど良い距離だ。
僕は静かに歩き始めた。
三十メートルの距離を保ち、音野響子に気がつかれないように――。
人は僕のような人間をストーカーと呼ぶのかもしれない。
しかし、僕は違う。
僕は断じてストーカーではない。
ただ、好きな人のことが知りたいだけなのだ。
好きな人がどのような道を通って、どんな景色を見ながら家に帰るのか、どこに住んでいるのか、どんな家に住んでいるのか、家に帰った時の第一声、部屋はどこなのか、僕が日々イメージする音野響子のあれやこれやとは、一体どれくらいの差異があるのか。
愛する人の何もかも、それを知りたいのが何故いけないのか。
それは自然な欲求だろう、馬鹿じゃないか。
音野響子の家がどこらへんにあるのかは大体知っていた。
以前、音野響子と同じ中学出身の萩原良雄にそれとなく聞き出していた。
しかし家に行くのは初めてだった。
もちろん、音野響子とともに家路を歩くのも初めてだ。
休日、何度も行こうはとしたのだが、番地までの住所がわからずに毎回頓挫していたのだ。
音野響子は尾広市の新田が丘に住んでいる。
新田が丘は僕の住む藤が丘とは少し離れた所にある住宅街地域だが、高校までの距離は新田が丘のほうが近い。
たぶん、歩いて十分もかからないだろう。
なので、新田が丘に住む生徒たちは徒歩で通学する者が断然多い。音野響子もその一人だ。
何人かの人とすれ違い、いくつかの曲がり角を曲がった。
新田が丘は尾広市のなかでも特に住居が密集している地域だから、帰宅中に少し寄り道、なんてことがない。
カフェもなければゲームセンターもない。
コンビニもない。
だから、音野響子は黙々と歩き続け、僕も歩き続けている。
そろそろ音野響子の家がある新田が丘三丁目あたりだろうか。
ツバを飲み込む。
音野響子は僕の三十メートル前を歩いている。
その後ろ姿は美しい。
長い黒髪、まるで髪自体が意思を持ち生きているかのように息づかいを感じさせる。
音野響子は僕に気がついていない。
三十メートルがやけに遠く感じる。
もう少し近寄りたい。
そして、声をかけたい、と思う。
でも、そんなことしたら確実に彼女を怖がらせてしまう。
これってやっぱりストーカーなんじゃね?
いや違う。
といっても、僕にだって罪悪感はある。人を尾行するなんて――。
でも、しょうがないじゃないか。好きなんだもの――。
ふと、三十メートル前方を歩く音野響子が空を見上げた。
空はどんよりと灰色に濁っている。
その下の電線にはカラスがとまっている。
またカラスか――。
そのカラスが鳴いた。
音野響子は気にも留めず、前に向き直って歩き続けている。
僕はカラスにベェと舌を出した。
それから間もなく、音野響子は一戸建ての家前で足を止め、その家に入っていった。
電柱の影から音野響子が家の中に入ったのをしっかり確認し、その家に近づいた。
表札には『音野』と書かれている。
間違いなく音野響子の住居だった。
僕はいま、音野響子の住まいの前に立っている。
尾広市新田が丘三丁目二十番地九――。
イメージしていた通り、割りと大きめな家だ。
庭付き一戸建て、僕の家の敷地の倍くらいはありそうだ。庭には大きな木が二本、家庭菜園スペース、人工芝が敷かれたゴルフ練習スペース、雑草は見当たらない。
僕が持つ『幸せな家庭の住居』のイメージに、音野響子の家は非常にマッチしている。素晴らしい。
表札に触れてみる。
石の研磨されていない部分がざらざらとしている。
心地好く感じる。
家の中を見てみたいけれど、正面から見える窓にはカーテンが引かれている。中に入りたい、インターフォンを押したい、連打したい。
「音野さんちに用ですか?」
ふいに背中に声をかけられ、心臓がはちきれそうになった。
振り返ると、ホウキを持った背の低い老婆が僕のすぐ目の前にいて、僕の顔を見上げていた。
「響子ちゃんの同級生?」
老婆は怪しむような目つきで、じろじろと僕の顔を見ながら言った。
ヤッバイ――、とっさにそう思った。
とにかく、何も言わずに小走りでその場から離れた。
少し行った所で振り返ってみたけど、老婆は追ってきていないみたいだった。
安心したが、興奮と緊張でのどがカラカラに渇いてしまった。自販機を目で探したけれど、見当たらなかった。
〈〈ストーカー、自分が一方的に好意を持った相手につきまとう人物の意。待ち伏せや尾行、手紙やファックス、メール、電話などの行為を執拗に繰り返す〉〉
えっ――。
いきなり空から男の声が聞こえた。
慌てて上を見たが、そこにはどんよりと濁った空だけだった。
なんだ? 気のせい?
〈〈そういうのって、あんまり良い趣味じゃあねぇーな〉〉
はあぁ!?
また頭上から声が聞こえた。
はっきりとしているようで、しかしくぐもってもいるような、遠くからのような近くからのような、よくわからない不思議な響き方で、とにかく耳に聞こえたのは野太い男の声だ。空から男の声――。
もう一度見上げてあたりを探ると、電線と、カラスが目に入った。
カラス――、黒いカラスが僕に顔を向けている。
黒いカラス、カラス?
僕は頭を振って、もう一度カラスを見た。
カラスだ。
するとカラスは羽を広げ、翼を機敏に動かすと素早く飛んで、いきなり僕の前に降り立った。
その真っ黒い瞳は完全に僕をとらえている。
完全にカラスだ。
〈〈――ガキで、ストーカーか。これって人選ミスじゃねぇーか?〉〉
目の前に降り立った黒いカラスが僕の顔を見て尖った口をパクパク動かしながらパクパクパクパク喋っている。
いやいや、気のせいか。カラスが人語を話すなんて、そんなことあるはずがないから。
ウソウソ、ありえない、幻聴、幻聴。きっと、いきなりオバーサンに声かけられたから、その緊張からの反動で頭がまいっているんだ。
ヤバイなぁ、病院行かないとダメだ、こりゃ――。
〈〈なに? カラスがしゃべったらいけないワケ?〉〉
「ひぃっ!」
だから頭がマジで本格的にヤバイって、これ。
とにかくカラスに背をむけて、全速力で走った。
財布に市民病院の診察券は入っているだろうか――、たぶん、入っている。今から行って診てもらえるのだろうか、脳というよりも精神科のほうがいいのかも、走りながら考えた。突如起こった自分の体の異変が恐ろしかった。
〈〈――なんで逃げるの? 話そうや〉〉
頭上で声がした。野太い男の声。
無視だ。自覚があるうちに早く病院に行かないとヤバイ。
こういうのって、きっと自覚すらも冒されていくものなんだ。じいちゃんがボケた時もそうだった。
〈〈まぁそうだよなぁ、信じられないわな。わかるけど、まぁ一旦落ち着けや〉〉
走り続けた。
けれど、道がわからなかった。
住宅、住宅、住宅――、どれも似たような家並み、同じような景色しか目に飛び込んでこない。
とにかく、高校の前まで出なければいけない。しかし息が切れてくる、胸が苦しくなってくる、僕は、僕は昔から長距離走は苦手なんだ――。
〈〈グルグルグルグルと何してんの? もしかして道に迷ったのか? どこに行きたいの?〉〉
――ほっとけ、頭の上から話しかけるな、胸が苦しい。
〈〈迷ったんだな。そうだなぁ、ちょっと待てよ。――あっ、次の曲がり角、左な〉〉
左?
僕は左に曲がった。なんで曲がった?
〈〈そうそう。――んで、そこの道の突き当たりをまた左な。それから右な〉〉
少し走ると突き当たりに当たって、僕はそこを左に曲がった。次の曲がり角を右に曲がった。
あっ――。
見知った道に出た。高校までの一本道だった。
〈〈ほら、さっき通った道に出たろ?〉〉
息切れはもう限界で、僕はほとんど歩いていた。
モヤがかかったように頭がぼんやりする。
息が切れまくって、低い気温に関わらず汗をかきまくっている、胸が苦しい、ヘトヘトで死にそう――。
完全に足を止めて、その場に座り込んだ。
〈〈おっ、休憩か〉〉
座り込んだ僕の目の前に、一羽の鳥が降りてきた。
――カラスだ。