ロゼ
話しがあるの。
私は出来るだけ冷たい口調で言った。
1DKの部屋を照らすライトは人工的な白い光を放ち、生活感のない愛すべき家具たちを一層魅力的にしていた。
彼はテレビから視線をそらさない。
ちょっと聞いてよ・・・
「ティッシュとって。僕花粉症なんだよねー」
私は乱暴にティッシュの箱を彼のほうに押しやった。
「で、何怒ってるの?」
彼は事もなげに言う。怒ってない、とだけ答えて私はベランダに移動した。五月も半ばだというのに外はひどく寒かった。カーデガンを着て来ればよかったなぁ、、と後悔しながら手すりにもたれる。
私の住むこのアパートからは茶色いレンガの駅とコンビニ、そして駅前の大通りが見える。終電からはきだされた人たちを見るのは私の日課である。コンビニの自動ドアから流れ出る中華まんの匂いに誘惑される人が今夜は何人いるだろうか…そんなことを思いながら過す深夜の時間が私はとても好きだ。
残念ながら今夜はそんな気分になれないけれど・・・。
「ワイン飲むー?」
部屋の中からヒロが叫ぶ。
全く何処まで空気の読めない人なのだろう…。いつものことながら呆れてしまう。
彼は決して話しから逃げているのではない。あくまで自然体、そして時に自分の世界にひったているだけなのだ。そう理解したのはついこの間だったと思う。
ふいに生暖かい腕が後ろから私をとらえた。
「何考えてるの?」
ヒロは遠慮なく私の顔を覗き込む。
あなたのこと、と短く答えて私は部屋にひきあげた。
テーブルにはマグカップに注がれたワインが置いてあった。
(せめてガラスのコップに入れればいいのに…ワインが気の毒だわ。)
ヒロはベランダの戸を閉め、カギをかけたことを3回確認してから私のそばに来た。
私は小さなスケジュール帳を取り出し、熱心に見るフリをした。鮮やかなオレンジ色のすべすべした表紙のスケジュール帳はヒロと付き合う丁度一ヶ月前に買ったもので、私のお気に入りだ。
彼はテレビではなく、今度は私をぼんやりみている。私はスケジュール帳から彼に視線を移した。めがねの奥の切れ長の目をしっかり見据え、彼が口を開くのを待つ。テレビの音が耳障りでないのが不思議だった。
「アレ、何ヶ月来てないんだ?」
私はヒロと目の前に置かれたマグカップを交互に見た。彼の言葉はいつもこんな風に無造作に投げ出される。あまりに唐突で私は狼狽してしまう。
「三ヶ月…」
私はやっと聞き取れるほどの小さな声で答えた。
「そう…検査薬はもう使った?」
こんな時彼はとても冷静だ。そして彼とは逆に私はどんどん不安定になっていく。
「ナツ・・・?」
「怖いの。そんな簡単に言わないでよ!」
やっとの思いで叫んだその声は自分でも驚くほど弱々しく、震えていた。ここ数週間の不安が一気に襲ってきて涙が後から後から流れ落ちた。
「ごめん、君の精神的な辛さもわかるよ。けど、検査して白黒ハッキリした方が君だって楽だろう?」
ヒロは落ち着いていたが、少し言い訳のような口調でつぶやいた。
シロクロ・・・じゃあ黒だったらどうするのだろう。彼は責任を感じるだろう。でも、小さな命を生かそうと言ってくれるだろうか…。答えはNOだ。きっと…。そしたら私はどうすればいいのだろう…。
気がつくと私は我を忘れて泣いていた。
「ごめんよ…」
ヒロは涙で顔に張り付いた髪をどけながらつぶやいた。冷たい右手が泣いて熱を持ったまぶたに触れるのが心地よい。私はなんだか子供のように安心した気持ちになった。
「落ち着いた?」
さっきとは違う静かな優しい声だった。
ヒロはマグカップを差し出した。私はそれを受け取り、一口飲んだ。
「これ…ワインじゃない」
それはとろりと甘いグレープジュースだった。見るとゴミ箱に果汁100%と書かれた紙パックが捨てられている。
「アルコールは母体に良くないんだ。ほら…結果まだわからないだろ?注意するにこしたことないしさ」
彼は努めて平静に言おうとしていたが、なんだかしどろもどろだ。
そりゃあ飲みすぎは良くないけれど…私は胸の辺りが温かくなるのを感じた。
「僕はこれでも医者のタマゴだ。まだ免許はないけどね」
すっかり調子を取り戻し、誇らしげに話す恋人を横目に私は残りのグレープジュースを飲みほした。
「ごちそうさま。美味しかったわ、あなたのワイン」
彼は静かに微笑んだ。
ノンフィクションに少しばかり砂糖をかけて仕上げました。