蝉の啼く庭
彼は彼女に誠実であろうと……。
今日も蝉が鳴いている。
小さな作りの縁側からは、見える景色は極限られてしまうのがややもの足りなくもあるにはあるが、致し方ない感もある。今はもう、自分以外に誰も住まわぬようになったこの辻崎の家では、仮に広くても寂しさばかりが募っただろう。
そういう諦めの念も確かに覚えつつ、一方ではこの区切られた小さな庭の小さな世界をそう悪くないとの思う気持ももある。
侘びしくも、風情は日々折り重なって移り行きては変わって行く、その流れこそが風流なのだと確かに感じ取れるのだ。
故に、庭木を眺めた折にふと、蝉が止まれば良いなと口を衝いて出たのもそういう意味で、鳴き続ける蝉ばかりを求めた訳ではなかったのだが。呟いてからここ三日、小さな庭には不釣合いなこの大木にずっと蝉が止まっている。
毎朝、毎昼、毎夕と同じこの樹から同種の蝉の鳴き声が響いて透る。まさかとは思う。まさか本当に……。
ジッジッジッと、居ついた折に響かせるには不自然な鳴き声がこの耳朶を打つ。その虫の音が示す通りに蝉が飛び立ち、切れ切れになる音も姿も空に溶けていく様までを脳裏に思い描いてしまうが、我に返るとまだ蝉はそこにいて同じように鳴いている。
飽きないのだろうか。蝉も、自分も、隣にいる彼女も。
異性を客に招くのは未だ責任のとれない年頃の身としては慎むべきであって。そうではあっても。家族ぐるみの付き合いがある隣家から幼馴染――博美が上がり込むのはもはや日常の一つで。だから休日を誰かと共に過ごす日もそう珍しいことはなく。新しく友人となった男子――修一が来る事にも異論は無くて。そのように、友と呼べる繋がりが増えていくことに不満などはあろうはずがなく。
とは言え、茫洋とも言われるこの性分をその都度切り替えてられてきたわけではなくて。夏も長期休暇を迎えて、より頻繁に訪ねて来て貰えることになっても、切ったスイカを並べた後は縁側で庭木と空と折に触れ訪れる蝉の喧騒を眺めるばかりになってしまうもので。
もてなしのセンスに乏しい自分にとって、勝手知ったるとばかりに自由に寛いでくれるのがどれほどありがたいことか。
だからそう。後悔することになるだろうとは分かっていた。
感じるままに世界の美しさを堪能することに慣れきってしまい、手づから組み上げた美などというものはどうしてもそれに及ぶものとは思えずにいて、結果として、そう、話題に乏しい。
あの極めつけなまでに快活な幼馴染の親友を、見事にやってのけられる剛の乙女でも、沈黙が続けば気を遣わせてしまうだろう。だからせめて風情を語ろうと、流れ行く事象を詠おうと、変化を求めて蝉を乞うた。
その時は、そのことで悔いることになるとは夢にも思わずに……。
作為的といえばこの状況の殆どがそうだったのだろう。幼馴染も友人も、彼女を連れて訪れては縁側に出ずに室内で涼むばかり。
外の風や風鈴の音が錯覚させる涼しさよりもエアコンの冷風の方が楽に過ごせるなどとのたまって。彼らがそういうのはいつものことで、そういうものだと思っていた。けれどそうすると、ここ三日もの間ずっと縁側に出ている彼女はどういうことだろう。
嬉しくはある。こうして添うて貰えていることそのものが、幸せというものに相違ないのだろう。しかしながらここ数日は日差しが強く、庇で影はできているものの、その影響でか常以上に気温は高い。
自分はいい。これが好きなのだから。夏というのはこう暑いもので、汗は出るものなのだから。概ねこれが例年通りの夏であり、だからこそこれがいいのだと心底から思える。
飛ぶことのない蝉について以外ならば。
ただ、それ一つが違和を覚えさせてきて。ただ、それ一つだけを理由として存分に夏を堪能できなくて。我ながら共感しがたいだろうと思う楽しみすらも、自分が楽しめぬままでは、彼女がたまたま同じ風情を楽しんでいたとも思えなくて。
その訳を、勘ぐってしまう。
もし己惚れが真であったなら喜ばしいことだ。つまり彼女はこの景色には飽いていても暇を暇とは感じていないということなのだから。そうであってくれるなら、この心苦しさもやや薄らいでいく気がする。
代わりに抑え止めるに難儀していた鼓動の勢いが増し、心苦しさとは別の息苦しさが胸を締め上げることになるだろうが、さすがにそれに不平を洩らすほどの堅物ではないと、やや卑猥な思いに囚われているこの己を鑑みて、そう思う。所詮この身は虫と同じ輩なのだ。恋に焦がれて鳴く蝉か、鳴かぬまま身を焦がす蛍かの違いはあっても、求める思いは捨て去りようがない。
例えそうでなくても、仮に想定通りの答えを聞いたとしても、それをよりよく治める腹案があるわけでもない。
見やる情景には違和感がある。辛い思いをさせているかもしれない。だというのに、もし聞いてしまったならこの距離感が失われてしまうかもしれないのだから堪らない。
彼女は、彼女であるのだろう。こうして彼女でいてくれるのが、得難い幸せであるのだろう。幼馴染と友人にお膳立てされたとはいえ、我ながら唐変木と思えるこの凡庸たる身に、こうして添うてくれているなどとはもはや天女の域だ。
だからもう問う必要がないのだと、胸の内に棲むまう怯懦な自分はそう囁いてくる。
それでも怖じるこの心の根は、何も知らないまま、何も理解しないまま失われていく可能性にも臆病で……
「蝉が鳴いてる」
「ええ、そうですね」
当たり障りのない言葉でと間をとったつもりが、愚かしくも問うべき異変に直に触れていた。
だというのに彼女の声はとても愉しそうなもので、その閑やかで暖かな声音からは、響き渡る違和にはまったく頓着していない様子が伺える。
それは単に異変に気付いていないだけなのか、それとも……。
答えは定まらないまま、ずれは払拭されないまま、疑念は晴れないままに、一旦流れ出した会話は止まらない。
「昔は賑やかだった」
「一匹ではもの足りません?」
伺うような、誘うような、じっとりとした気配を含む艶やかな笑い声が響き渡る。
この身は震えただろうか。
耳小骨から脊椎を貫き尾骨まで抜ける、一言を妙なる麗句に変える妖美の声音。
そう妖美、その響きだけで美しいといえてしまう声音がそこにあった。
「もう少しいた方が嬉しいですか?」
重ねて問われる。
彼女の思惑が那辺にあるかも知れぬまま、それでも由と思わせるほど傾城の美声が風を震わせて大気に消えた。
これが彼女の少々の悪戯だったとしても、むしろ愛嬌としか思えない。
なんの不満もありはしない。
その思いは真実のものではあるが、もしこれが気遣い故のものであったなら、伝えなくてはいけない。
「いや」
そういった口をあけたまま、いかにこれまで考えていたことを伝えようかと熱に浮かされた頭を捻り、そして結局は何も思いつかないままに思いの丈を口から出ていた。
「花は綺麗だ」
「? ええ、お庭にも咲いていますね」
それはこうした彼女とのやり取りが心地よく、この空気がなくなることを恐れている故だったのかもしれない。
「けれどもいつの間にか、それを踏んででも翔け回る快活さこそをより好ましく思っていたみたいだ」
「あら」
結局のところ、そういう言い回しで彼女を瞠目させるくらいしかできずにいる。
気付いて欲しいと思う反面、気付いて欲しくないとも思って、半ば意識しないままに、一拍遅れで美しい名前だと彼女――千翔子をの名を褒めていた。それに対する返答は……
「気付いていました?」というものだった。
それは俺が危惧していた悪戯を彼女が行っていたことを意味していて、同時に彼女の悪戯を俺が知っていると、それに気付いていると彼女が気付いているということ。
なんて事をしたんだろうという思いがある。同時に、だからどうしたという想いもある。
道義的には叱らなければいけないのだろう。彼女の為を思えばこそ、例え嫌われても言うべきなのだろう。
けれどどのような存在でも彼女が千翔子らしくあるのならば、このままでいても自分は一向に困らないと言うことに思い至った。
むしろ噴き出そうとしている気持ちは……
「可愛いな」という言葉から始まる、一連の想いだった。
なぜ出たのか分からない文句も、それが本心であることには偽りは無く、本心ゆえに思うがままに言葉が続く。
「気付いて欲しいから、わざわざ机の上にアロンアルファを置いていたんだろう」
「よかった」
心底悦ばしげなその声は、経緯を知らずに聞けば心の底からの安堵と親愛のものと聞いただろう。尤も、そこに篭められた気持ちを疑うつもりはないが。
「良くない」
「え?」
「なぜ、量った」
つまりは の為の義憤ではなく、彼女が自分を信じずにいたその事に文句を言いたくなったのだ。
「静寂も喧騒も君と共に受けるからこそ意味があると、なぜ信じてくれなかった」
女々しくも詰ってしまう。
「君が、好きでこれをやったのなら、これすらも好ましいと思っただろう」
だがそういうことではない。彼女は自身がこれをやったとこちらに伝えていたのだ。
「話題がないのは辛い」
俺が求めた話題通りに話題を作ったのだと……。
「だがそれは自然に君と交わす言葉がもう少しでも欲しいからであって」
それをこそ俺が求めていたのだと思ったのだと……。
「思いは、君がいるだけで満ちている」
ここ三日、平常の様を装って傍にいる事で、それを伝えていたのだ。
「何か用意しないと駄目だなんて、思わないでくれ」
悲しいことに。
「ではどうしましょう」
その声は悲しげで、更に哀切の重いが湧き上がる。
飛べない蝉は啼いている。
「何もしなくていい」
何かを変えたくてもがいている。それが分かっておきながらそう突っ撥ねてしまう。
「これは単に自分のわがままで……」などと、咄嗟にごまかそうとするが、自分が納得できないままでは……
「いや、そうじゃない」などと途中で止めてしまう。
それでも、笑顔の失った表情そのままに、どこか涙がこぼれそうな彼女の雰囲気に押され……
「君がわがままを言うに値しない、自分の狭量が悔しいだけだ」という、自分でも形になっていなかった想いをはっきりとした言葉として搾り出せた。
千翔子は呆れているだろうか。
嫌われただろうか。
だが、彼女らしさを失ってまで、無理に合わされるのは良いとは思えない。
その思いに嘘はないが、どうせそのような形では続くわけがないのだという打算が、関係を壊すような思いを吐き出させたのだろう。
「悪戯はわがままじゃないですか?」
「君が今、ああいう風に泣く蝉を聞き、喜んでいるのなら……」
真摯な問いには真摯に答える。そういうわけでもないのだろう。
自分はこの期に及んでも我侭を言い募っているだけだ。
「だが、そうではないのだろう?」
その問いには答えを期待していなかった。だから返事も待たずに……「だから違う」と斬って捨てた。
「そうですよ。でも、これでもわがままなんです」
クスクスと安堵交じりの呆れ顔が返ってくるとは思わなかった。
「だって、やっと明君のわがままが聞けました」
とても楽しげに微笑みながらも、千翔子はとても静かに息を吐いた。
「……悪趣味だ」
「趣味が悪い私はお嫌いです?」
明け透けに述べ過ぎた自分が悪いのか、彼女は窘められているというのにとても楽しそうで愛らしく……
「いや」と思わず流されてしまう。
それでも直ぐにそれでは駄目だと気を取り直して「けれど、蝉が可哀相だ」とだけは辛うじて言えた。
「そうですね」
彼女の言葉に今日始めて痛ましさが含まれた気がする。続く「どうしましょう?」という問いかけも、どこか配慮した風な抑揚で発せられた。
願った筈の反応が、つまりは彼女が傷ついていると示していた。
「戯れで花を摘んだなら花瓶に活けるものだ。なら、戯れで触れた命は、せめてその最期までなるべく長く慈しむべきだろう」
「……べき。ですか」
不安げなその声に思わず蝉如きいいのだと言いそうになり、それでも悼むべきという気持ちでなんとか押し返す。
「この庭の木と一緒だ」
そういうと彼女は蝉が鳴き続ける樹を見た。
「人が触れた以上は自然ではないが、人に生き方を定められた後でも、生命とは生き足掻くものだと。最期まで見て欲しい」
「私に?」
「そうだ」
そういうと彼女はそっとこちらを振向いて、更に「一緒に?」という質問を重ねた。
「勿論だ」
断固という風に答えつつも、頭では打算が弾かれる。
例えば、鶏のブロイラーは健康を害されたまま飼育される。
それは国産に限らず、むしろ外国なら更に酷いことに抗生物質に塗れた餌を日に三回与えられておきながら、数百匹が原因不明の体調不良とやらで死ぬことすらある。
「かわいそうな泣き声でも?」
「それがわがままを君に言わなかった己への罰で……」
ならばこそ言える。蝉の寿命も一般に語られるよりは短いだろうから、「このわがままにつき合わせるのが君への罰だ」と。
内心はどうあれ、ずっと一緒に庭を見ていた。
であるからには例えこの風情が千翔子の望まないものであっても、残りそれだけの時ならば、無為に費やす愚かしさを味わせたとしても然程は厭われないだろうと。
「約束ですか?」
「約束だ」
そう思っていた。
「よかった」
その、ほぅという息に溶けそうな穏やかで優しい声が聞こえて、つられて自分も心の底から安堵した。
そして、そんな風にずっと彼女のことばかりに気をとられていて、見ていたつもりの庭の変化もろくに察することができていなかったことを千翔子の一言で理解させられた。
「あの蝉は二匹目なんです」
ジッジッジッと同じ様な蝉の鳴き声が聞こえていた。
風情の中から話題を探していたつもりで、しかし自分はその音の違いを聞き分けようとしただろうか。
「この夏はずっと二人っきりになれますね」
ジッジッジッと、その虫の音が示す通りに蝉は飛ぶに飛び立てずにいる。
そして、きっと明日も明後日もずっと蝉は啼いている。
最後に主人公は何を思ったのか。作者ですら良く分かりません。
そんな変な作品ですが、でも、書いてて楽しかった。
もう一つの視点はこちらです。
http://ncode.syosetu.com/n9542bs/
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87 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2013/07/24(水) 11:38:35.27 ID:MyiDTiqD0
ひゃっほい。お題お一つ下さいな
88 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2013/07/24(水) 11:40:45.31 ID:VW1n7rYco
>>87
恐怖
89 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage]:2013/07/24(水) 11:46:49.58 ID:MyiDTiqD0
把握しました。ありがとう
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これがあったので、シリーズに加えました。