10.神の使いと、世界の話
ギルドホールの一角に、妙な空間ができていた。
立て看板が二つ。
片方には《用のない者は近寄るな》、もう片方には《接触禁止》と、やたら物々しい文字で書かれている。
その看板の内側を、まるで自分だけの陣地のように独占している男が一人。
――モリヒトである。
「なぁ、アイツ何やってんだ?」
ホールの反対側で腕を組んでいたエクボが、呆れたように言った。
その視線の先では、モリヒトが椅子に腰かけ、誰もいない空間に向かって真顔で話しかけている。
「あぁ、神の使いとお喋りだって」
ミカサは呑気にそう答えながら、オレンジ色の髪を指先でくるくると弄んだ。
「部屋でやりゃいいのに」
「部屋だと、部屋の住み分け相談とか、まだ顔を合わせてないギル員との接触ができないでしょ? だから、わざわざホールでああしてるってわけ」
「効率重視か」
「だねぇ。でも、傍から見るとかなり怪しいけど」
実際、怪しかった。
立て看板で自分の周囲を囲い、虚空に向かって険しい顔で質問を投げかけるギルマス。新規メンバーが見たら、ちょっと距離を取るかもしれない。
だが、当の本人はいたって真面目だった。
「じゃあ、家族とかも一応こっちの世界に転生してるってことか?」
モリヒトが低く問うと、その視界の端で桃色のゼリーがふわふわと揺れた。
「そうなのら。会えるかどうかは分からないのら」
「……まぁ、そうだろうな」
簡単に会えるなら苦労はない。
この世界は、どう考えても地球の国ひとつ分で済む広さじゃない。森、山、街、国家、戦争。今までに得た情報だけでも、十分に“世界”を名乗れる規模だった。
「聞いた感じ、相当広い世界みたいだからな」
「そうなのら! 地球は資源がすぐ尽きたのら! だから神様は、星を大きくして、尽きない資源を頑張ったのら!」
「……頑張ったって、お前……」
ふわっとした説明に、思わず眉間を押さえる。
だが、その言葉の意味を考えると、決して軽くはなかった。
(地球が終わったから、別の星へ移動した……?)
神は本当に実在していて、超次元的な何かで人類を丸ごと別世界へワープさせたのか。
それとも、もっと別の形か。たとえば、電子世界のような何かへ、人間の脳や意識をスキャンして移した――そんな可能性も、一瞬は頭をよぎる。
(……いや、後者は薄いか)
少なくとも、今のこの感覚はあまりにも“生きている”。
空気の重さ。椅子の硬さ。息を吸う時の胸のふくらみ。腹が減る感覚。疲れた時の筋肉のだるさ。
ゲームだった頃には、こんな感覚はなかった。
あの時はただ視覚と操作があっただけで、今みたいに血が巡り、肉が動いている実感はなかったのだ。
「なあ」
モリヒトは少しだけ声を落とした。
「お前は、いつか消えるのか? それとも、ずっと側にいるのか?」
その問いは、半分は好奇心で、半分は確認だった。
この神の使い――桃色ゼリーは、実のところずっとモリヒトの視界の端でふよふよと浮いている。
必要な時に話しかければ答えるし、勝手に出てくることもある。鬱陶しいが、いないと困るのも事実だ。
「ずっといるのら!」
「ずっと?」
「そうなのら」
「……それはどうしてだ?」
ゼリーは、ぷるんと体を揺らして、あっけらかんと言った。
「スマートフォンに付属するAIみたいなもんなのら。深く考えないほうがいいのら」
「……なるほど」
なるほど、じゃねぇよ。
こんな中世ファンタジーみたいな世界に飛ばしておいて、“スマートフォン”を例に出すな。
思わずそう言いかけたが、途中で飲み込む。
考えてみれば、この世界は見た目ほど原始的でもない。
ギルド城には冷蔵庫がある。
オーブンもある。
電子レンジまである。
まあ、電気で動いているわけではなく、全部“魔力”で稼働しているわけだが。
(……つまり)
モリヒトは腕を組み、少しだけ目を細めた。
(ここの人間は、みんな“電気人間”みたいなもんか?)
妙な言い方だが、感覚としては近い。
この体になってから、筋肉の震え方が前と違うのを何度も感じていた。走る時も、物を持つ時も、疲れた時も、どこか内側で別の力が巡っている感覚がある。
血流とは別の、何か。
たとえるなら、筋肉の収縮と摩擦の中で魔力が生まれ、それが全身へ流れているような――そんな感覚だった。
「……体内で、魔力を作ってるってことか」
「そういうことなのら!」
神の使いが、得意げにぷかぷかと跳ねる。
「人間も、魔族も、亜人も、みーんなそうなのら!」
「へぇ……」
モリヒトは小さく息を吐いた。
地球とは違う法則。
地球とは違う資源。
地球とは違う身体。
それでも、自分はちゃんとここにいて、考えて、腹を減らして、生きている。
それが少しだけ、不思議だった。
「……じゃあ、俺たちは本当に、もう地球の人間じゃないんだな」
ぽつりと漏れたその言葉に、ゼリーは少しだけ揺れを止めた。
「魂は同じなのら」
「魂、ね」
「でも、体はもう、この世界のものなのら」
その言葉が、胸の奥に重く沈んだ、その時だった。
ギルドホールの扉が、ぎぃ、と開く。
何気なくそちらを見た俺は、入ってきた人物に目を止めた。
青みがかった黒髪を前下がりのマッシュに整え、鋭い目つきの青い瞳をした男。服装は軽装備で、動きやすさを重視した革鎧寄りの装いだ。
見覚えがある。
(……ジェストか)
ゲーム時代、あいつは《影者》――ローグ系の上位職をやっていた。
奇襲、索敵、潜入、暗殺。そういう汚れ仕事を平然とこなす、いかにも裏方の廃人プレイヤーだったはずだ。
だからこそ、違和感があった。
反射的にギルド情報を開く。
「……は?」
目を疑った。
ジェストのレベルが、1だったのだ。
ありえない。
この世界が始まってから、もう数日は経っている。しかもあいつは、ゲーム時代からレベリング効率に異様にうるさい男だった。そんな奴が、いまだにレベル1のまま?
(いや、おかしいだろ……)
俺がそう思っている間にも、ジェストは俺の方には目もくれず、そのまま前を通り過ぎていく。
そして、少し離れた場所にいたミカサとエクボの前で足を止めた。
「……エクボ……ミカサ……」
かすれた声だった。
「え!? ジェスト!?」
ミカサが目を見開く。
「お前、ジェストか。レベル1じゃねーか」
エクボも眉をひそめる。
今の二人はすでにレベル5だ。
だからこそ、その差が余計に異様だった。
ジェストは、青い瞳を伏せたまま、小さく言った。
「あぁ……死んだんだ」
「死んだ?」
ミカサの声が跳ねる。
「え? 死んだらレベル1になるってこと?」
「いや、違う」
ジェストは力なく首を振った。
「死んで俺は……異世界に飛ばされた」
「……は?」
今度は、エクボだけじゃなくミカサまで完全に固まった。
俺も立ち上がる。
何を言ってるんだ、こいつは。
異世界の中で、さらに異世界?
混乱したまま、俺は視界の端を漂う桃色ゼリーに問いかけた。
「……どういうことだ? 死んだら異世界の異世界に飛ばされるのか?」
「そうなのら」
ゼリーはいつもの調子で、あっさりとうなずく。
「異世界での困りごとを解決すれば、戻ってこれるのら」
「……じゃあ、解決しない場合は?」
「解決しない場合、ずっと神の声が聞こえて、解決したくなるのら」
「なんだと……?」
背筋が冷える。
つまり、死んでも終わらない。
終わらないどころか、別の人生に放り込まれて、問題を解決するまで返してもらえないということか。
しかも“やりたくなる”ように仕向けられる。
救済なのか、拷問なのか、正直分からない。
俺たちがその話に息を呑んでいる間、ジェストはぽつりぽつりと続けた。
「俺は死んで、異世界でちょっとした人生をやり直した……」
その声はひどく乾いていた。
「でも……幸せになると、こっちに戻されるんだ」
「幸せに……なると?」
ミカサが、困惑したように聞き返す。
「だから……三回死んで、三回人生をやり直した」
ホールの空気が凍る。
「そしたらさ……もう、どうでもよくなった」
ジェストは笑っていなかった。
なのに、その言葉だけがやけに軽くて、余計に怖かった。
「生きることに疲れた」
その一言で、こいつがどれだけ擦り減って帰ってきたのか、少しだけ分かった気がした。
数日ぶりに戻ってきたんじゃない。
こいつの中では、もっと長い時間を生きて、疲れ果てて、帰ってきたのだ。
「そしたら、ナビが……ギルド城に帰ってみろって」
ナビ。
ああ、こいつはこのゼリーをそう呼んでいるのか。
俺はちらりと神の使いを見る。
相変わらず桃色の身体をふよふよと揺らしているだけで、悪びれる様子もない。
「……そうか。大変……だったな」
すると、ミカサがぱっと表情を変えた。
「あ、ジェスト! だったら、とりあえず食堂でご飯食べなよ! 元気出るよ?」
「飯……? いや、俺は……」
「いーからいーから!」
ジェストが断るより早く、ミカサはその腕をつかんだ。
いつもの強引さで、そのままずるずると食堂の方へ引っ張っていく。
「ちょ、待っ……」




