第六話 凍てつく皇城へ
エメロードを載せた馬車は、すぐに国境を越えてサードニクス帝国領を走っていた。
雪に覆われた広大な帝国の大地。
吹きすさぶ雪風が、馬車の窓を叩いた。車輪の音が鈍く雪を裂き、道なき白い雪原を進んでいく。
(帝国は、本当に雪が多いのね……帝都はもっと、雪深いのかしら)
エメロードは、窓の外の景色をただ静かに眺め続けた。
夕刻になり、休息のために街に立ち寄った一行。
護衛の兵の瞳に、薄手のドレスだけをまとい、震えるエメロードの姿が映る。
兵は、無意識に外套の紐をほどいた。だがその手がエメロードに届く前に、侍女の冷たい声が割り込む。
「何をするつもりなのですか」
凍った空気よりも冷たい声音だった。
『エメロードの婚礼が決まり次第、直ちにトリフェーンへ戻るように』と冷たく命じてきた王妃の声が思い出される。
兵は、俯くと外套を強く握り締めた。
「……あの姫君は、あの装いのままで帝都まで?」
護衛も侍女も防寒着を着ているというのに、薄手のドレスと手袋だけを身につける王女の姿に、帝国から遣わされた者たちは憐れみの眼差しを向けていた。中でも一部の者は、二人の従者に密かに軽蔑の眼差しを向けている。
「気の毒に……あれがトリフェーンの王女殿下の扱いとは……」
「あの従者たちは、どういうつもりなのだろうか……」
雪より白い吐息の中、彼らの言葉がかすかに溶けた。
* * *
エメロードは帝国の侍従官から用意された宿で、久しぶりに温かな食事を摂っていた。
(何て美味しいの……)
まだ柔らかなパンを口に運び、羊肉のシチューをスプーンですくった。
王妃から遣わされた侍女は、体調不良を訴え、他の部屋で休んでいる。
『王女殿下にお休みいただくには、あまりに質素な宿かとは存じますが、何卒お許しを……』
そう申し訳なさそうに告げてきた帝国の侍従官の姿を思い出す。
この部屋は王城のエメロードの部屋よりも広く、清潔で暖かだった。
テーブルには、花の形の美しい金の燭台。壁には、淡い色彩の春の風景画。純白のシーツに包まれた大きな寝台は、とても柔らかそうに見える。
「とても素敵なお部屋だわ……」
小さく微笑んだエメロードは、暖かなシチューを一口飲み込む。
ほんのりと甘くホッとするような味に、ため息が零れた。
(温かい……お母様が生きていた頃を思い出すわ……)
エメロードは一人で湯浴みをして着替えると、柔らかな寝床に沈む。
まどろんでいると、遠い日の温もりに包まれるようだった。
夢の中、春が来たばかりの白薔薇が咲く王城の庭で、母が微笑んでいる。
温かな手が両頬に触れ、優しく甘やかな、懐かしい香りに包まれた。
「寒くないようにね、エメロード」
その柔らかな声が耳に届いたとき、目の端に一粒、涙がこぼれた。
* * *
翌日の朝、一人で支度を終えたエメロードが扉を開けると、廊下の端には帝国の侍従官と騎士が一人ずつ控えていた。
そして、エメロードにそっと差し出されたのは白い毛皮のケープ。それは、窓から差し込む朝の光を受けて、まるで白い羽のように輝いていた。
「……殿下、サードニクスの帝都はとても冷えます。どうか、これをお召しください」
差し出されたケープに瞳を揺らすと、エメロードは遠慮がちに微笑んだ。
「私に……本当に、良いのでしょうか」
「僭越ながら、王女殿下のためにご用意させていただきました。風邪を引かれてはいけませんから、どうかお召しください」
騎士の言葉に、エメロードの胸は温もりに包まれた。
「お二人のお心遣いに、心から感謝いたします……でも私には──何も、お返しできるものがありませんの……」
小さく発されたエメロードの言葉に、二人は息を詰まらせた。
「そのような、恐れ多い……殿下にお召しいただけるだけで、充分です」
侍従官の言葉に、エメロードは安堵の表情を浮かべる。
「本当にありがとう……とても、暖かい……」
エメロードは白いケープを大切そうに抱き締めるとそっと頬を寄せ、幸せそうに微笑んだ。
その姿に、侍従官は淡く微笑み、騎士は瞳を揺らした。
だが、その様子を、廊下の影から護衛と侍女が見ていた。
護衛は翳った瞳を伏せ、侍女は鋭い眼差しでエメロードたちを見つめていた。
* * *
そして、エメロードが帝国の馬車に揺られて幾日も掛けてたどり着いたサードニクスの帝都ディアマンは、その名の通り雪化粧で白く輝く美しい都市だった。
(なんて美しい街なの……)
エメロードを乗せた馬車が帝都ディアマンの大通りを進むにつれ、雪景色の中に煌めく白銀の尖塔が見えてきた。
それはまるで、空に届かんばかりの氷の王冠のようだった。
ディアマンの街は静かだった。
雪を踏みしめる馬の蹄の音が、石畳に反響する。
人々は皆、黒や灰の外套に身を包み、道の端で馬車を見つめていた。
その瞳の奥にあるのは、好奇だった。
──皇后選定を受ける“異国の姫”。
それが、彼らの目に映る自分の姿なのだとエメロードは理解した。
馬車の窓を曇らせた吐息をそっと指で拭いながら、彼女は思う。
(……この雪の下にも、春は来るのかしら)
やがて、馬車はゆるやかに速度を落とす。
雪に覆われた城門の前には、長槍を持つ衛兵たちが整列していた。
銀の鎧は淡く輝き、その列の向こうに──
帝国の皇帝が住まう、サードニクスの皇城があった。
馬車の扉が静かに開き、侍従官が手を差し伸べる。
エメロードはその手を取り、雪の上に足を下ろした。
冷たい風が頬を打った。
けれど、白い毛皮のケープに包まれた身体は、不思議と温かい。
眼前にそびえる皇城を見上げた瞬間、エメロードは息を呑んだ。
城壁の上には幾重もの氷柱が垂れ下がり、陽の光を受けて淡い虹色に輝いている。
空に届くように見える尖塔の屋根には雪が積もり、まるで白い翼を広げた神殿のようだった。
(まるで、雪の女王の城のよう……)
胸の奥で、震えと憧れが同時に生まれる。
エメロードは侍従官に導かれ、そっと足を踏み出した。
──その瞬間、凍てつく空気の中を、ひとひらの羽根が舞い降りた。
それは雪のような、純白の大きな羽根。
風に流されながら、翠玉のような瞳の前に、ふわりとそれは漂った。そして、無意識に差し出されたエメロードの両の手のひらの上に静かに舞い降りた。
「鳥の、羽根……?」
エメロードが手に取ったそれは、とても大きく長い、白い羽根だった。陽の光を受けて、虹色の光沢が美しく煌めいている。
(何て美しいの……)
「聖鳥……」
侍従官の口から思わずこぼれた呟き。
エメロードは、羽根を握ったまま顔を上げた。
その手に握られているのは、玉座の間にいるはずの聖鳥の羽根。
そして、それは彼女の手のひらに舞い降りた。
騎士たちがざわめく。
そして、帝国の侍従官は静かに膝を折った。
突然雪の上にひざまずいた彼の姿に、エメロードはうろたえる。
「──聖鳥が、再び殿下を指しました」
侍従官から発されたその言葉の意味を、エメロードはまだ知らなかった。
けれど、胸の奥で確かに何かが鳴った。
小さく、けれど確かな音で。
その音は、氷に閉ざされた帝国の運命を静かに溶かし始めていた。
物語は、氷の皇帝と出会う第二章へ──
次回、第七話「氷の皇帝と聖鳥」




