第五話 ひとりの旅立ち
──雪の降る、息も白く凍る朝だった。
夜明けの光が薄く差し込む中庭に、エメロードの細い影が落ちていた。吐く息が白くほどけ、空気は張りつめていた。
エメロードは、昨夜のことを思い出していた。
「帝国にお伺いするのに、侍女は一人だけなのですか?」
かすかに震える声で問うと、王妃アデルは鏡越しに視線を向けた。
「人手が足りないのです。仕方がないでしょう」
何気ない調子だった。けれどその瞳には、冷たい拒絶の色が宿っている。
エメロードは小さく頷き、深く一礼した。
「はい。……お世話になりました、お母様」
「……トリフェーンの王女として、帝国で恥をかかぬようにね」
振り向くこともなく告げられた声は、冬の空気よりも冷たかった。
エメロードが吐いた白いため息が、空気に溶けていく。
中庭を出たエメロードは、王城の石畳をゆっくりと歩いた。
見送りの者は誰もいない。廊下に灯された燭台の炎が、わずかに揺れるだけ。
彼女の足音だけが、広い城に寂しく響いた。
* * *
王城の前には、帝国からの迎えの馬車が数台と、そして荷を積むための荷馬車が二台、雪の上に静かに並んでいた。
トリフェーンから、馬車は用意されなかった。
馬車の前後には、馬の傍らに降り立った騎士たちが整然と並んでいる。
雪に覆われた石畳の上で、立ち並ぶ使者たちは、現れたエメロードたちに目を見張る。
王女の後ろには、護衛が一人と侍女が一人。どちらも王妃の命を受けた者で、冷たい沈黙を崩すことはなかった。
「私は、第二王女のエメロード・トリフェーンと申します」
エメロードは裾をつまみ、深く礼をした。
「第一王女である姉のアンブルは、急な病で伏しております。大変失礼ながら、私ひとりでお伺いすることをお許しいただけますか」
(まさか、王女殿下の護衛と侍女が、この二人だけだと……それに、見送りもないとは……)
帝国から遣わされた侍従官は短く息を呑み、そして恭しく頭を垂れた。
「……トリフェーン王国からの書状でも、仰られた通りに伺っております。エメロード殿下。サードニクス帝国へお連れいたします」
穏やかにそう答えると、彼は静かに馬車の扉を開けた。
エメロードの視界の端では、護衛の兵が古びた衣装箱をひとつ、荷馬車に積む様子が見えた。
「これだけですか」との御者からの問いに、護衛が黙ったまま一礼する。その瞳に、一瞬だけ言葉にできぬ迷いが揺れた。
御者の手によって、雨除けの掛布がばさりと荷馬車を覆った。
淡い雪が舞い降りる。
エメロードは最後に一度だけ城を振り返った。
白い塔の上に薄く降り積もる雪が、ゆっくりと光を吸い込んでいく。
誰もいない城門。その向こうにあったはずの、幼い頃に母と歩いた暖かな庭はとうに失くなった。
彼女は静かに馬車へと乗り込み、薄いレースの手袋に包まれた両手を重ねる。
扉が閉められ、世界の音が遠ざかる。
──見送る声も鐘の音もなく、ただ雪だけが静かに降り続けていた。
車輪が軋む音が、やがて遠くへ霞んでいく。
窓の外を流れる雪景色を見つめながら、エメロードは胸の奥で小さく呟いた。
(サードニクス帝国の皇后選定の儀……私は、どうなるのかしら……)
エメロードは、心も体も冷え切っていた。
だが、その凍える心の奥深くで、もしかしたら“自分の居場所”を見つけられるのでは、という淡い期待がほのかに芽生え始めていた。
* * *
エメロードが旅立った日の午後。
「お待ちしてましたのよ」
アデルは応接間で客人に微笑みかけた。
「新しい香はありますの? 前いただいた香には、飽きてきたところですのよ」
琥珀色の瞳で並べられた品を覗き込むアンブルに、客人が微笑んだ。
「本日は、取っておきの品をご用意しておりますよ」
淡い褐色の肌に、焦茶色の髪を持つその若い男は、並べた品の中から小さな木箱をそっと手にする。
彼が蓋を開けると、甘く蠱惑的な香りがふわりと漂った。
「まぁ……何て良い香りなの! ぜひ欲しいですわ!」
身を乗り出したアンブルに、男の金茶色の瞳が細められた。
「龍涎香でございます。マルジャーンの王侯貴族の間で流行っている希少な香で……この国は勿論、サードニクス帝国でも手に入らぬ程の特別な品です」
「マルジャーンでは、密かに愛を引き寄せる香として、人気を集めております──ですので、安くはありませんが……」と付け加えた男の言葉に、アンブルがアデルを振り返る。
「お母様、わたくしは絶対にこれが欲しいですわ!」
娘のお願いに、アデルは小さなため息を吐くと優雅に微笑んだ。
「宝石なら、いくらでもありますわ」
アデルの言葉に、男は薄く微笑んだ。
* * *
──いない……。
男は、トリフェーンの王城の中庭を訪れていた。
辺りを見回すも、いつもそこにいたはずの、淡い金の髪の姫の姿がない。
男はため息を吐くと、持ってきていた美しい装丁の本と、白い別珍の貼られた小箱を懐に仕舞った。
震えながら厚手の外套を羽織り直すと、王城の中へと戻る。
「そこの──」
「これはアイン様、どうなさいましたか?」
王城の廊下で侍従を捕まえると、男はにこやかに話しかける。
「本日は、エメロード王女殿下はどうされたのですか?」
「エメロード王女殿下は──」
侍従から語られた話に、男は言葉をなくした。
翳った瞳でため息を呑み込むと、窓から中庭を見つめる。
訪れる際には、いつもそこにあった王女の姿はもうない。
「エメロード殿下……」と小さく呟くと、彼は懐に仕舞った白い小箱を握り締める。
その金茶色の瞳には、誰もいない噴水だけが映し出されていた。
次回、第六話「凍てつく皇城へ」




