第三十二話 白く染まる皇城
眠りについていたオパリオスは目覚め、早い冬の訪れとともに帝都ディアマンは白く染まった。
皇城にも雪が降り積もり、すべてを包み込むように静寂が満ちている。
眠るように雪化粧をまとう白薔薇の庭は、淡い陽射しに煌めいていた。
あの襲撃から、ひと月以上が経った。
早朝、一人目覚めた私はそっと寝台を抜け出すと、隣の部屋へと入る。
鏡に背中を向け髪を上げると、そっと寝衣を下ろした。
(本当に、夢のようだわ……)
少しだけ寝衣を下ろしたままで、私は鏡を振り返る。
そこに刻まれていた傷跡は消え失せ、白い背中が淡い陽射しの中で浮かび上がる。
「エメロード、平気か……?」
不意に響いたその声に、思わず肩が跳ねる。
「陛下……大丈夫ですわ」
寝衣を整え、下ろした髪を手櫛で整えて扉を開ける。
そこには、かすかに瞳を揺らす陛下が立っていた。
(本当に、心配性な陛下……)
私は胸の内で小さく笑うと、彼を見上げて微笑む。
「……その、髪が少し絡んでしまって、整えておりましたの」
「そうか……侍女を呼ぼうか」
私は、小さく首を振った。
「もう少し……陛下と二人で過ごしたいのです」
そう小さく言うと、陛下の腕が伸ばされた。
私を抱き締める腕は優しいのに、何故か胸が苦しくなる。
「あまり、可愛いことを言われると困る……」
小さく掠れたその声に、頬が熱くなる。
顔を上げると、アイスブルーの瞳に私が映っている。
(陛下……)
私の額にそっと口付けが落とされ、再び抱き締められた。
あの襲撃のあった日、オパリオスの光りに包まれた私の胸の傷は癒え、背中に刻まれていた傷痕も跡形もなく消え失せた。
あの暖かな光が確かに自分を包んでいたことを、私ははっきりと覚えていた。
そして、私を包む陛下の腕の温もりに、心からの安堵と愛しさを感じていた。
* * *
執務室には、淡い光が差し込んでいた。
目を通し終わった書状を置くと、アズールは控えていたエドモンを見つめる。
「侍女や使用人たちの身元の確認は済んだのか」
「はっ。全て確認を終えております」
アズールは、「そうか」と低く返した。そのアイスブルーの瞳の奥には、鋭さが感じられる。
「近衛の育成はどうなってる」
「兵も騎士も人員を増やし、順調に訓練を進めております」
「皇后の──……この棟に配置する者は全て私が選ぶ。今度訓練場を視察する」
「それでは、そのようにご準備を──」
「私だということは伏せろ」
低く落ちた声に、エドモンが驚いたように顔を上げる。
「それは……皇帝陛下にご無礼があっては……」
「構わぬ。エメロードの安全のためだ」
わずかにうろたえたエドモンをアズールは一瞥した。「かしこまりました」と頭を垂れたエドモンに、かすかに笑む。
「……ルイーズの容態は?」
「命に別状はございません。ただ、毒の後遺症で、腕の自由が戻るには、まだ時を要するかと……」
「……そうか。彼女は、よくやってくれた……労ってやってくれ」
短くそう呟くと、アズールは視線を落とした。
机上の白薔薇が、淡く揺れる。
あの日、血に染まったその花と同じ香が、まだ胸の奥に残っていた。
心優しいエメロードがローズの処刑を願わなかったことは、理解できる。
そして、ローズは辺境の塔で命を落とした。
だが、何より大切なものを失いかけた彼の心に残る棘は、容易に抜けはしなかった。
* * *
夜更けの皇后の寝室──
「陛下……」
小さな声でそう呼びかけると、陛下がまぶたを開いた。
「眠れないのか」
「はい。……少し、歩きたいのです」
そう返すと、陛下は淡く微笑んだ。
手を差し伸べ、立ち上がった私をそっと包むように白い毛皮の外套を着せてくれた。
私たちは静かに回廊を抜け、白薔薇の庭へと歩み出る。降り積もった雪に、ふたりの足跡だけが刻まれていく。
澄み渡る空気は、肌を刺すように冷たかった。
雪に包まれた木々が、月明かりを受けて白銀に光っている。
「綺麗……」
雪景色に見惚れていると、後ろから包み込むように陛下に抱き締められた。
「雪が溶けたら……」
彼が囁くように口を開く。
「また、湖へ行こう……アジュリットに」
私は、思わず彼に視線を向けた。
アジュリット──そこは、私が初めて陛下と視線を交わし、微笑んだ場所だった。
(陛下も、あの場所のことを……)
「……はい」
そう答えて微笑むと、風に雪の粒が舞い上がり、私たちの肩を淡く染めた。
──その光景を、回廊の陰から見つめる者がいた。
剣を握る右腕をそっと押さえながら、ルイーズは微かに微笑んだ。
(ようやく、この皇城にも春が来る……)
彼女の吐息が白く滲み、夜の空へと消えていった。
* * *
数日が経ち、冬の陽がやわらかに差し込む昼下がり。
私の居室には、色とりどりの生地のサンプルや刺繍糸の束がいくつも広げられ、華やかな空気が満ちていた。
陛下によって、帝都一と名高い女性仕立師が招かれ、侍女たちは張り切って意見を飛ばしている。
生地を選ぶように言われ、水色や薄青の生地ばかりを選んだ私に、侍女たちは小さく笑った。
そして、仕立師と侍女たちに勧められるまま、純白のシルクや薄桃色のレースの生地も選ぶこととなった。
「皇后殿下、春に向けてのお召し物にございます。どのような刺繍をお入れいたしましょう?」
問いかけるエリーズに、私は少し考えながら微笑んだ。
春に向かい始めた窓の外では、淡雪がゆっくりと舞っている。
やわらかく降り注ぐその景色に、何故か陛下を思い浮かべた。
「そうね……白いドレスの刺繍は、雪の結晶が良いわ。……薄桃色のレースには、花の刺繍が合うかしら」
にやりと笑いかけたニーナが、思わず声を上げそうになった瞬間、エリーズの視線が鋭く飛んだ。
「ドレスのデザインは、どのようなものがよろしいでしょうか?」
「迷ってしまうわね……」
悩む私に、仕立師が一歩進み出て言った。
「それでは、白いドレスの方は、オフショルダーのデザインはいかがでしょう。シンプルな方が雪の結晶の刺繍がより映えますし、皇后殿下の清楚なお美しさを一層引き立てるドレスになるかと存じます」
私は小さく微笑むと、無意識に指先をそっと肩に伸ばした。
その仕草を見たエリーズが、穏やかに微笑む。
「皇后殿下は、お背中もとてもお美しくていらっしゃいます。もうじき暖かくなりますし、きっとよくお似合いになりますわ」
エリーズの言葉に、胸が暖かくなる。
「それじゃあ、そのデザインでお願いするわ」
そう答えた私に、侍女たちは顔を見合わせて微笑み合った。
「薄桃色のドレスはいかがいたしましょう」
「絶対に、パフスリーブにプリンセスラインのデザインが良いかと思います!」
「ニーナ、私は皇后殿下にお尋ねしているのですよ」
苦笑を浮かべるエリーズに、「ですが、皇后殿下に絶対にお似合いになると思うのです!」とニーナが真剣に返す。
そのやりとりに、私や他の侍女たちは小さく声を立てて笑った。
(私に、こんな日々が訪れるなんて……)
私は、その暖かな光景を眺めながら微笑んだ。
* * *
──執務室では、隣からかすかに聞こえる楽しげな気配に、アズールが淡い微笑みを浮かべていた。
仕立ての打ち合わせが終わったエリーズが仕立師を見送り、執務室を訪れた。
アズールは書状を整理し、エドモンがその隣で控えている。
「どうだった? 彼女の好むドレスは仕立てられそうか?」
「はい、皇帝陛下。皇后殿下は、白いドレスには、雪の結晶の刺繍をお望みでした」
エリーズの言葉に、アズールがわずかに眉を寄せる。
「……もうじき春だというのに、雪の結晶か」
その呟きに、エリーズは静かに微笑んだ。
「皇后殿下は、雪を随分とお気に召しておられるようでございます」
「そうか……エメロードには、花の刺繍が似合うと思うのだが」
真剣な面持ちでそう呟いたアズールに、エドモンが軽く肩を竦める。
「恐れながら、ご自身が何と呼ばれておいでかお忘れでは? ──“氷の皇帝陛下”」
その言葉に、アズールのアイスブルーの瞳がわずかに見開かれ、一瞬時が止まる。
「何を……余計なことを申すな」
小さく咳払いして視線を逸らすアズール。
その横顔がわずかに紅潮しているのを見て、エリーズは微笑ましげに一礼した。
「それでは、“氷の皇帝陛下”に相応しい、皇后殿下の春の装いを、心を込めて支度させていただきます」
「……好きにしろ」
その言葉とは裏腹に、アズールの眼差しは和らぎ、口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
その微笑みは、彼の胸の奥に眠る温もりが、ようやく春の兆しを見つけたことを、誰よりも雄弁に語っていた。
「エドモン、近い内に宝飾師を呼んでくれ……急ぎ作らせたいものがある」
「かしこまりました」
アズールは、執務机の引き出しから、青い小箱を取り出した。
そっと蓋を開けると、鎖が取り替えられたアイスブルーダイヤのネックレスが納められている。
(エメロード……)
それは、窓辺から差し込む陽射しを受けて、雪解け水のように澄んで煌めいていた。
次回、第三十三話「雪解けの季節」




