第三十一話 光を狙う闇(後編)
※血の描写を含みます。
扉が大きく開かれ、私は振り返った。
「ルイーズ……?」
玉座の間に、私の声が響く。
開いた扉の中央には、黒髪の侍女が立っていた。
立ち尽くす私を見たその侍女は、笑みを浮かべた。
「皇后殿下……お逃げ、ください……」
侍女の後ろから絞り出すように声を上げたのはルイーズだった。
彼女は床に倒れ伏し、苦しげに呻いている。
「ルイーズ……!!」
叫んだ私を見て、侍女が愉快そうに笑い声を上げた。
青白い指先で、オパリオスを指す。
「その聖鳥は皇后を間違えた……だから、わたくしが正して差し上げる!」
聞き覚えのあるその声と煉瓦色の瞳に、思わず私は震える。
「あなたは……」
──ローズ・サーペンタイン。
彼女はまるで別人に変わっていた。
輝いていたストロベリーブロンドの髪は黒く染まり、青白い痩せた顔には長い前髪が掛かっている。
その瞳は、憎らしげに私を睨み付けていた。
「その場所は……わたくしのものよ──!」
彼女は、短剣を握り締めてそう叫んだ。
駆け出した彼女に、私はオパリオスを守るように立ち塞がった。
* * *
刃がひらめき、空気が裂かれた。
鈍い音と共に、薄青のドレスに鮮やかな赤が滲む。
「──っ!」
次の瞬間、オパリオスが強く羽ばたき、まばゆい光が玉座の間を満たした。
オパリオスの光に弾かれたローズは後方へ吹き飛び、呻き声を上げて床を転がる。
その時、開かれた扉から蒼い外套を翻し、アズールが飛び込んできた。
「エメロード──!」
アズールの目の前には、ルイーズが剣を握ったまま倒れ伏し呻いていた。
その向こう──玉座の間の奥で倒れているエメロードを見た瞬間、彼の顔から血の気が引いた。
「エメロード!!」
抱き起こした彼女の瞼は閉じられていた。ドレスは赤く染まっている。
「嘘だろう、エメロード……誰が、こんな……」
震える指が、彼女の白い頬に触れた。
滲んだアイスブルーの瞳が、彼女の顔を映し出す。
「やっと……わたくしが……」
アズールが振り返った視線の先、血に濡れる短剣を握り締めた侍女がゆらりと立ち上がった。
「さぁ、聖鳥よ……このわたくしを選びなさい」
そう呟いた女は笑っていた。黒髪を振り乱し、その煉瓦色の瞳には狂気が揺れている。
「皇帝陛下、その女は聖鳥の皇后ではありませんわ」
(あの時、斬っていれば──!!)
「貴様……!!」
低く唸るように叫ぶと、剣を抜きながら音もなく立ち上がる。その氷柱のような瞳は、青い炎のように燃えていた。
だが、その背後でかすかな声がした。
「……陛下……」
背後から聞こえた弱々しい声に、アズールの動きが止まる。
エメロードが震える指で、アズールの外套を掴んでいた。
(──どうか、その手で誰も傷付けないで……)
エメロードが胸の内で願ったその瞬間、玉座の間に柔らかな光が溢れた。
オパリオスの翼が大きく広がり、エメロードにまばゆい光の粒が降り注ぐ。
彼女の傷口がゆっくりと癒え、薄青のドレスを染めていた赤が消えていく。
「エメロード……?」
アズールの声が掠れる。
オパリオスの放った光の中で、彼女は穏やかに微笑んで瞼を閉じた。傷痕が刻まれたその背を包む、温かな光を感じながら──
そしてオパリオスも、エメロードに合わせるかのように眠りについた。
紫水晶の瞳が閉じられるのと同時に、純白の羽根が数枚、灰のように舞い落ちた。
玉座の間を満たした清らかな光が静かに消えた頃、ローズは膝をついていた。
手の力が抜け、血に濡れた短剣が音を立てて床に落ちる。涙が頬を伝い、眠るエメロードを呆然と見つめていた。
(──お父様、お母様……わたくしが、選ばれるはずでしょう?)
「どうして……わたくしでは、ないの……」
ローズの震える呟きが、誰にも届かぬまま消えていった。
彼女の足元で踏み潰された花びらは、赤く染まっていた。
国外追放されたはずのサーペンタイン公爵家の令嬢ローズは、皇帝の影により秘密裏に拘束された。
数日後、彼女は皇后エメロードの願いにより処刑を免れ、北西の辺境の塔に幽閉となった。
だが、アズールの心は静まらなかった。
(……赦すというのは、これほど苦しいのか)
玉座の間の白薔薇が、かすかな風に揺れた。
* * *
月の見えぬ夜、サードニクス北西に建つ古びた塔。
朽ちた石壁に、かすかな足音が響く。
松明の灯が揺れ、黒衣の男が牢の前に立った。その顔が、淡く照らし出される。
「……あなたは……」
顔を上げたローズが息を呑む。
「俺は、『殺すな』と言ったはずだが」
男の赤い瞳が、真っ直ぐ射抜くようにローズを見つめる。その低い声には、皮肉とも怒りともつかぬ静けさが宿っていた。
「……わたくしは──」
震えるローズが、瞳を伏せて唇を噛みしめる。
その様子に、男はかすかなため息を落とした。
「まぁ良い。……聖鳥の皇后は無事だ──おかげで、サードニクスの聖鳥の力も本物だとわかった」
「わ、わたくしは……これから──」
ローズの震える声を遮るように、男は懐から小瓶を取り出した。松明に揺らめくその透明の液体は、淡い紫色に煌めいている。
「悪いが、お前には眠ってもらう」
「え……?」
男がローズの眼前で小瓶を開けた瞬間、甘い香りが漂い、煉瓦色の瞳が揺らいだ。
彼女の体が淡い紫色の光に包まれ、砂塵に汚れた石床に崩れ落ちる。
男の手にある小瓶は、空になっていた。
「……愚かだな」
男は、誰に呟いたのか。
松明が消され、あたりに闇が広がった。
男が何かを唱えると、足元に赤い魔法陣が浮かび上がる。ふわりと揺れた外套から、漆黒の髪が覗いた。
男が闇に溶けるように消えた後、赤い魔法陣の残滓だけがかすかに煌めいていた。
翌朝、塔の見張りが悲鳴を上げた。
牢の中に、外傷のないローズの亡骸が横たわっていたのだ。
かつては『社交界の薔薇』と謳われた美貌の公爵令嬢は、薄汚れた黒髪に灰色の衣をまとい、その最期は見る影もなかった。
ただ、その表情は眠るように安らかだったという。
西の彼方から冷たい風が吹き抜け、塔の上空で一羽の烏が去っていった。
次回、第三十二話「白く染まる皇城」




