第二話 宝石の国の王女
雪に閉ざされた北の都で鳴いた聖鳥の声は、遠く離れた小国の王女の運命を呼び覚ます。
静かな祈りとともに──
サードニクス帝国の都から南西に位置する、西のグロッシュラー帝国との国境にある王国。宝石の産出国として知られるトリフェーンは、ふたつの大国に挟まれた小さな国だ。
豊かな鉱山を持ちながらも軍備は弱く、力のない王国に過ぎない。古くは広い国土を有したという古文書が残っているが、その名残はほとんど感じられなかった。
「あら、エメロード……またこんな所で本を読んでいたのね」
「お姉様、ご機嫌よう」
トリフェーン王国には、ふたりの美しい王女がいた。
琥珀の瞳を持つ第一王女アンブルと、翠玉の瞳を持つ第二王女エメロード。
ひとりは光を浴びて咲く花、もうひとりは陰の水面に咲く花。
──王城の誰もが、そう思っていた。
かつては第二王女エメロードの母マルグリットが第一王妃だったが、マルグリットはエメロードが幼い折に若くして亡くなり、今ではアンブルの母で第二王妃だったアデルが唯一の王妃となっていた。
「これから、いつもの仕立師が来ますのよ……あなたもいかがかしら?」
「……私は──」
エメロードが本を抱いたまま口を開きかけると、アンブルが小さく笑って口元に手を当てた。その指には美しい宝石が輝いている。
「まあ、ごめんなさい……忘れていましたわ。お母様から、“今日はわたくしのドレスだけ”と言われていましたの」
「また今度ね、エメロード」と美しく微笑むと、アンブルはエメロードに背を向ける。
冷たい風が吹き、甘い蜜のような香りがふわりと漂った。
宝石の飾られた黄金のように輝く長い髪と夕焼け色の絹のドレスの裾が揺れて遠くなるのを、エメロードは静かに見送った。
静かな水音だけが、あたりを包んでいる。
エメロードは軽く息を吐くと、静かに噴水の縁に腰掛けた。
本を開き、ゆっくりと視線を滑らせる。物語を読んでいる間だけは、辛いことをすべて忘れられた。
(お母様……)
優しかった、今は亡き母の面影を思い出す。
エメロードは、本を閉じてまぶたを伏せる。
揺れる水面が朝陽に煌めき、淡い金の髪と白いレースの裾が、冷たい風にふわりと揺れた。
少し離れた木の枝では、小鳥たちが身を寄せ合っている。その中の一羽が、噴水の縁に舞い降りた。エメロードの傍らに……。
「今日は、良いものを持ってきたのよ」
エメロードは微笑むと、小さな焼き菓子を取り出した。粉砂糖のまぶしてある、可愛らしいものだ。
彼女の手で小さく砕かれたそれに、木の枝にいた小鳥たちも一斉に舞い降りてきた。
集まった小鳥たちがついばむ姿を見て、エメロードは淡く微笑んだ。
「これは、遠い国のお友達からいただいたのよ。美味しいでしょう?」
エメロードは、夏に城を訪れた異国の商人の姿を思い浮かべた。この焼き菓子は、つい先日、彼から送られたものだった。
淡い褐色の肌に、人当たりのよい優しい笑みを浮かべる穏やかな青年。
この城で、彼以外にエメロードに微笑みかける者はいなかった。
(アイン様は、次はいつお見えになるのかしら……)
エメロードは、母を亡くしてからずっと孤独だった。
継母のアデルも異母姉のアンブルも、エメロードに優しい眼差しを向けることは一度たりともなかった。アデルはエメロードが幼い頃から冷たく接し、アンブルはそれを笑って眺めていた。
気の弱い王は、名家出身の王妃に逆らえず、幼い頃から冷遇され続けるエメロードに手を差し伸べることもしなかった。
廊下ですれ違う者たちは、誰も彼女に声をかけなかった。
視線だけが、一瞬だけ向けられては、すぐに逸らされる──それが、この城での“日常”だった。
冷たい風に煽られて、中庭から飛び立つ小鳥たちを、エメロードは見送った。
いつか、この国の外に広がる美しい世界を見てみたい──
彼女は叶わぬ願いと知りながら──それでも、胸の奥に小さな灯を絶やさなかった。
* * *
「これにしますわ……それと、このドレスも」
最新のドレスのデザイン画を、アンブルは食い入るように眺めている。
その傍らでは、王妃アデルが美しい絹地を手に取っていた。
「さすが、アンブル王女殿下はお目が高くていらっしゃる。このドレスは、サードニクスの若いご令嬢の間で流行し始めているデザインでして……」
「まぁ、帝国の……」
会話する二人をちらりと見やるとアンブルは小さく鼻で笑い、再びデザイン画へと視線を滑らせる。
(どうでも良いですわ。“引きこもり王子”の国なんて……)
サードニクス帝国の王子はほとんど城から出ず、表に顔を出さない──それは、“人前に出られない容姿”のせいなのだと、トリフェーンの社交界では密かに囁かれていた。
「あの、本日はエメロード王女殿下のドレスは……」
仕立師の発した言葉に、アデルは一瞬言葉をなくした。
「──あの子は体調が優れず……またの機会に……」
そう言ってまぶたを伏せたアデルに、仕立師は苦笑を浮かべた。
数年前から頻繁にこの城に出入りしているが、第二王女のドレスを仕立てたことが一度もなかったからだ。
部屋の隅に控えている侍女に目をやると、さっと視線を伏せられる。
(同じ王女だというのに、気の毒だな……)
毎度、“体調不良”だと聞かされていた第二王女を先刻見かけたことを、仕立師は思い出す。
ひっそりとした中庭で、噴水の傍に佇む姿はまるで春の妖精のように可憐だった。
ただ、彼女がまとっていた白いレースのドレスは、次の春のシーズンのために“第一王女”の依頼で仕立てたばかりのものだった。そして、あの薄手のドレスは、この寒い冬にまとうにはあまりにも──
「このドレスも仕立ててちょうだい。生地はこれが良いですわ」
アンブルの指が、胸元が広く開いた豪奢なデザインのドレスと最高級の薄紅色の絹地を指す。
「かしこまりました」
仕立師は、気の毒な王女の姿を脳裏からかき消すと、愛想の良い笑みを浮かべた。
* * *
その頃、噴水の縁に腰掛け風を感じていたエメロードは、ふと胸の奥がざわめくのを覚えた。
北から吹き込む風の中に──どこか懐かしい呼び声が聞こえた気がした。
次回、第三話「帝国からの知らせ」




