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第三十話 交わす心、交わらぬ想い

 皇都から夏が去っていった。

 涼やかな風に、皇城の木々が色づき始めた頃──

 陛下は、毎夜私の部屋で休むようになっていた。


 遠くから聞こえるのは、小鳥たちのさえずり。

 夜明けの風がカーテンを揺らし、淡い光が薔薇色の絨毯を撫で、甘やかな香りが漂った。


「エメロード、寒くはないか……」


 背後から遠慮がちに呟かれた、低い声。陛下の手が、私の肩に衣を掛けた。


(まさか……)


 私はドレッサーを振り返る。

 そこには、衣の襟元から傷跡がわずかに覗いていた。


「ご覧に、なったのですか……」


 声が震えた。

 背中の傷を隠すように陛下に向き直ると、アイスブルーの瞳は少しだけ揺れていた。


「エメロード……」


 ──『なんて醜い背中……エメロードは、どこにも輿入れなんてできませんわね』


 トリフェーンにいる頃、お姉様から言われた言葉。あの時、お母様とお姉様は笑っていた。

 こんな傷痕、陛下には見られたくはなかった。


(……陛下は、どうお思いに──)


 俯くと陛下の腕が伸ばされ、温もりに包まれる。


「エメロード……私は、お前の全てを愛おしいと思っている……」


「陛下……」


 陛下のかすれた声に、胸が苦しくなった。その腕の中で、そっと身を預ける。思わず、涙がこぼれそうになった。

 高鳴る鼓動が伝わりそうで、私はそっと陛下の胸に手を当てた。


「陛下こそ……お背中は、大丈夫なのですか」


 そっと見上げると、アイスブルーの瞳がかすかに揺れた。

 一瞬の逡巡の後、背を向けた陛下のまとう白い寝衣が静かに滑り落ちる。

 その広い背に刻まれているのは、赤みを帯びた火傷のような痕。私はただ息を呑み、そっと指先で触れた。


「私のせいで……」


 「エメロードのせいではない」と陛下が振り返った。


「これは、私の誇りだ……あの時、エメロードを守ることができて本当に良かった」


 「痛みはないから、何も心配することはない」と、陛下が私の頬に触れて微笑む。


(陛下……)


 こぼれた涙に陛下の口付けが落とされる。私はその腕の温もりに包まれながら、瞼を閉じた。


 * * *


 その日の午後、私はいつものように薔薇園を訪れていた。


「皇后殿下、お寒くはありませんか」


「ありがとう、エリーズ。大丈夫よ」


 エリーズの淹れてくれた紅茶を口にすると、ホッとする味に心の奥から温まっていくように感じた。


 風が吹いて、澄んだ甘やかな香りがふわりと鼻をくすぐった。

 夏に散り、涼しくなった季節に再び咲いた白薔薇──


 『白薔薇を見る度、いつもエメロードを思い出す……』と淡く微笑んだ陛下の姿が浮かぶ。

 陛下の執務室には、いつも私の名が付けられた白薔薇が飾られているのだと、侍女たちが話していた。


(嬉しいけれど、まだ少し恥ずかしいわ……)


 皇城の三階の窓を見上げる。

 そこに陛下の姿はない。きっと政務に励んでおられるのだろう。


(私にも、この帝国の皇后として何か出来ることはないのかしら……)


 春から眠っていたその想いが、再びくすぶり出したのを感じていた。


 * * *


 部屋へ戻る途中、執務室の扉の向こうから、複数の声が漏れ聞こえてきた。陛下が大臣たちと、北方の領地について話しているようだ。


「北の民の生活は厳しい……冬が早く訪れれば、また飢えが出るだろう」


「皇帝陛下、いかが致しましょうか」


「当面はこのための備えでまかなえるはずだが……いざとなれば、城の備蓄庫の開放を──」


「お言葉ですが、皇帝陛下。未だかつて、民のために皇城の備蓄庫を解放したことはございません」


「……民を見殺しにしろと言うのか」


「いえ、私めはただ前例がないと……」


「前例がないから何だというんだ」


「それは……」


「お前たち、備蓄庫は何のためにあると思っている」


 低く放たれた陛下の言葉を最後に、執務室は凍りついたかのように静まり返った。

 扉の前で立ち止まった私は、思わず手を握り締める。

 この国のために、陛下がどれほど孤独に立っておられるか──初めて、その重さを知った気がした。


(私も、陛下の隣に立てるようになりたい……)


 執務机の上では、飾られた白薔薇がかすかに煌めいていた。


 * * *


 秋の陽が、室内に柔らかく差し込む。

 休憩のためと私の部屋を訪れた陛下。その肩にそっともたれながら、私は小さく口を開いた。


「……陛下。私に、皇后として何か出来ることはないのでしょうか」


 陛下が、わずかに目を細めた。

 その瞳に一瞬、過ぎ去った記憶の欠片が映る。


「──春に、もらった書簡にも同じ言葉があったな」


 私の胸が、かすかに鳴った。

 

 『皇后として、私にも何か出来ることはないでしょうか』──あのつたない思いを、陛下は覚えていてくださったのだ。


「……返事もせず、すまなかった」


 私が「いえ……」と首を振ると、陛下の手が頬に伸ばされる。


「エメロードは何もしなくて良い……ただ、私の傍にいてくれるだけで……」 


 陛下の柔らかな口付けが頬に落ちる。

 その低い声は、やわらかな温もりに満ちていた。


「エメロードがこの国に来てから、政は滞るどころか整っている……何も心配はいらない」


「……陛下」


 陛下のその優しさが、かえって胸を締めつけた。

 私の中に芽生えた何かをなしたい想いは、行き場を失い、それでも静かに灯り続ける。


 ふと、窓の向こうを見上げた。

 高い塔の向こうに、白い羽が一枚、風に舞っていた。

 それは、淡い虹色の光をまとっている。


(聖鳥、オパリオス……)


 美しい紫水晶の瞳を持つ、この帝国の光の象徴。あの聖なる存在は、いつも玉座の間の奥にいる。


「陛下……少し、玉座の間へ行っても良いでしょうか」


「……オパリオスのところか」


「はい」


 陛下は何も問わず、私の髪をそっと撫でた。

 その表情には、静かな理解が感じられた。


「行ってくるといい。……あの鳥は、お前が行くと喜ぶだろう」


 私は微笑み、白い外套を羽織って扉を出た。

 回廊を抜け、玉座の間へと続く階段を上る。


 ──その時、私はまだ知らなかった。

 それが、これから訪れる“運命の兆し”であることを。


 * * *


 扉が閉まるのを見届け、アズールはしばらく立ち尽くした。

 こちらを真っ直ぐに見つめてきた翠玉の瞳──彼女の姿が、胸に焼き付いて離れなかった。


(……もう二度と、あの光を失いたくない)


 指先に残るのは、先程まで触れていた温もり。

 だが胸の奥では、言い知れぬ不安が静かに息を潜めていた。


 * * *


 玉座の間には、透き通るような静寂が満ちていた。


(オパリオス……)


 ステンドグラスから淡い青の光が降り注ぐ中、玉座の間の奥に佇むオパリオスが静かに羽を広げた。

 その紫水晶の瞳と視線が合った瞬間──

 淡い光に包まれ、遠い記憶のような声がどこからか響いた。


『……光を失えば、国もまた沈む……けれど、光は澄んだ瞳と心に宿る』


 はっと息を呑むと、オパリオスはもう静かに翼を閉じていた。


「今のは、あなたの声なの……?」


 問いかけても、返事はない。

 ただ、澄んだ紫水晶の瞳が、一度だけ瞬いた。

 まるで『その答えはお前自身の中にある』と告げるように──


(“澄んだ瞳と、心”……一体、どういう意味なの……)


 私の胸の奥に、かすかな期待と不安が同時に芽生えた。

 玉座の間に飾られた白薔薇が一輪、音もなく花びらを散らした。

 それは、まるで風のない湖に揺れる波紋のように感じられた。

次回、第三十一話「光を狙う闇(前編)」

※前編・後編として、朝夕に投稿予定です。


※次回の31話からエピローグまでは、

 2/11(水)〜2/14(土)まで毎日お届けします。


 ◇ ◇ ◇


一瞬ではありますが、

2/7(土)の注目度連載中のランキング(4-7時更新)で、86位にランクインしておりました。


読んでくださっている皆様のおかげです。

ありがとうございます!

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