第二十八話 愛の証
私は、夢を見ていた──
まどろみの底で、陛下の声が私の名を呼ぶ。
以前は氷のようだったその声は、甘さを帯び、切なく響いていた。
そして、髪に、額に……そっと落とされる、柔らかな感触──
それが、頬に触れたとき、淡い吐息とともに再び名が囁かれる。
「エメロード……」
淡い光にまぶたを開くと、そこには、アイスブルーの瞳が揺れていた。
「良かった……エメロード……」
横になったまま、優しく抱き締められる。
「陛下、私は……」
「……疲れが出たんだろう」
「何も心配はいらない」と囁くように言った陛下は、私の額にそっと口付けを落とした。
「あの子は……大丈夫でしたか? 私が倒れて、驚いていたでしょう」
赤い薔薇を差し出してくれた少女を思い出す。
けれど、陛下の瞳はわずかに翳った。
「大丈夫だ……」
陛下はそれだけ言うと、再び私を抱き締めた。
何故か、私に触れる陛下の温かな手は、かすかに震えていた。
* * *
陛下が連れてきた女性の医官に体調を確認され、『しばらくゆっくりと休むように』と陛下から指示された私は、窓辺に立っていた。
風にかすかに揺れる白薔薇の園を静かに見下ろす。
(今日は、見に行けないわよね……)
その時だった。
「皇后殿下、失礼致します」
穏やかなノックの音と共に、静かに扉が開かれる。
聞き覚えのある声に、私は振り返った。
「皇后殿下、お早うございます」
「ご挨拶も出来ないまま失礼してしまい、申し訳ございませんでした」と涙ぐみながら淡く微笑んだのはエリーズだった。
「また、皇后殿下のお傍で仕えさせてください……これから、ずっと」
そう言ったエリーズは、深く頭を垂れた。
彼女の言葉に、にじんだ涙が溢れる。
「皇后殿下……」
前と変わらず優しい手が、白いハンカチで涙を拭ってくれた。
「エリーズ……戻ってきてくれて、ありがとう」
私たちは、涙ながらに微笑み合った。
そしてこの日から再び、彼女が私の筆頭侍女となった。
* * *
エメロードが目覚めて、一週間が経った。
「皇后は、どうしている」
「体調はすっかりご回復されたようです。……とても、幸せそうにお過ごしですよ」
「そうか……」
報告書に向かいながらそう呟いたアズールに、エドモンはかすかに微笑んだ。
(そろそろ、時間のはずだな)
アズールは報告書を揃えて立ち上がると、窓辺から白薔薇の庭園を見下ろす。
彼は、そこに在る彼女の姿に微笑みを浮かべた。
その傍らには、呼び戻した筆頭侍女エリーズの姿もあった。
(エメロード……)
彼女のまとう薄青の絹とシフォン生地で作られたドレスは、アズールが新しく贈ったものだった。
エドモンやアガタからは、『またその色をお贈りになるのですか』と苦笑されたが、彼女が望んでくれた色だ。
(よく、似合っている……)
裾の広がった花のようなドレスに、淡い金の髪が陽射しの中で煌めいている。
アズールは、エメロードの幸せそうな微笑みを愛しそうに見つめていた。
* * *
昼下がりの薔薇園。
仕立てられたばかりの薄青のドレスの裾が風に揺れた。陛下からの新たな贈り物をまとい、私の心は幸せに満ちていた。
けれど、穏やかなひと時が流れていた薔薇園に、不意に甘やかな声が響く。
「ご機嫌麗しゅう、皇后殿下」
その姿に、私は息を呑んだ。
薄青のドレスの裾を揺らしながら、優雅に現れたのはローズ嬢だった。
挑戦的な眼差しで微笑みかけた彼女に、周囲の空気がピンと張り詰める。
(あの、宝石は……)
彼女の耳と胸元には、アクアマリンの宝石が輝いていた──初めて陛下から贈られた、大切な品のひとつだった。
イヤリングが彼女の耳元で儚げに揺れる。けれど、花びらの一つは欠けていた。
(この方が、陛下からの宝石を……)
割られた香水瓶と一緒に引き出しの奥にしまってあるアクアマリンの欠片が浮かび、私はわずかに瞳を伏せた。
胸には、強い怒りを感じていた。けれど、皇后としてそれを露わにすることはできなかった。
ローズ嬢の姿に、近衛騎士たちは警戒の視線を向けているように見えた。
だが、至って彼女は穏やかで、礼儀正しかった。
「見事な薔薇園ですわね……」
彼女の言葉に、私はかすかに微笑むだけで、何も答えなかった。
「この白薔薇の庭園は、皇帝陛下が皇后殿下のために造られたのですよ」
私は息を詰まらせた。
誇らしげに微笑むニーナに、ローズ嬢の顔がわずかに引きつる。
表情を消したエリーズは、その様子を注意深く見つめていた。
「そうでしたの……随分と、愛されていらっしゃるのね」
低く呟かれたローズ嬢の言葉に、握った手に汗がにじむ。
その時、ルイーズが足を一歩踏み出した。
「あなた、どちらの家門の騎士かしら……わたくしが、サーペンタインだということはご存知ですわよね」
近付こうとしたルイーズに、威圧的な眼差しを向けるローズ嬢。
ルイーズは、固く握った拳を震わせた。その背後では、オスカーとロジェが険しい表情で沈黙している。
「本当に美しい、白薔薇ですこと……」
薄く微笑んだローズ嬢。
「皇后殿下……この薔薇園を案内していただけませんこと?」
「実は、ご相談したいことがあって参りましたの……殿方や他の者たちに、聞かせるわけには……」と小声で囁かれた。
その時、ルイーズの声が上がる。
「皇后殿下、なりません」
「皇帝陛下のご命令です」と告げられ、あたりは静まり返った。
「……何故、あの方は貴女なんかを……」
(ローズ嬢……?)
彼女が何か呟いたように聞こえた。
煉瓦色の瞳は伏せられ、エリーズたちは不安気にこちらを見つめている。
「……少しだけ離れた場所なら、良いでしょう?」
「皇后殿下──」
険しい顔のルイーズに微笑みかけると、ローズ嬢を伴って少し離れたベンチへと案内する。
この城では、城門の外で帯剣していないか検査をしているとルイーズから聞いていた。魔術を用いたもので、侍女や令嬢も例外なく調べられているそうだ。
(もし何かあっても、この距離ならルイーズたちの手が届くわ)
「……これも、皇帝陛下が?」
彼女の声はかすかに震えていた。
その瞳は、ベンチに刻まれた白薔薇を見つめている。
私は、「ええ」と小さく頷いた。
その時、鐘の音が鳴り始め、薔薇園の茂みがざわりと揺れた。
「……どうやって取り入ったの? ……その純粋そうな顔で、あの方をどう籠絡したのかしら」
鐘の音が鳴り響いている。
薄く笑った彼女は、静かに胸元から小瓶を取り出した。
開けられた蓋から薄紫の一雫が落ち、白薔薇の花弁の縁が焦げるように黒くにじむ。
後ずさった私に、彼女は笑いかけた。
「これで……すべて終わるわ」
見開かれた煉瓦色の瞳。
彼女は歪んだ微笑みを浮かべ、私に向かって小瓶を振りかざした。
「皇后殿下──!!」
ルイーズたちの叫び声と同時に、蒼い影が風のように駆け抜け、私を抱き締めた。
その背中に、紫色の液体が浴びせられる。
──侍女たちの甲高い悲鳴が上がった。
「陛下……?」
布が焦げる匂い。
低く呻いた陛下の声に、私は小さく震えることしかできなかった。
異臭があたりに広がり、溶けた紺のマントからは煙が立ち昇っている。
「そんな、わたくしは……皇帝陛下……」
震える手から小瓶を落としたローズ嬢が、近衛騎士たちに取り押さえられる。
小瓶から溢れた液体に、触れた草が黒くしおれて枯れていく。
「エメロード、無事で良かった……」
私を守るように抱き締めたまま、陛下は安堵したように息を吐くと、ローズ嬢を振り返った。
怯えた表情で立ち尽くす彼女の胸元には、アクアマリンのネックレスが儚く煌めいている。
「その宝石は、私が皇后のために選んだものだ……何故お前が持っている」
低く放たれたその言葉に、ローズ嬢の瞳が見開かれる。
呆然とした表情のまま、彼女は首を横に振った。
「嘘ですわ。皇帝陛下が、そのような──」
「それを早く投獄しろ」
陛下の命に、二人の近衛騎士がローズ嬢の両腕をそれぞれ抱え込む。
「何をなさるの?!」と彼女が声を上げた。
「わたくしに触れられるのは皇帝陛下だけですわ! わたくしは、サーペンタインですのよ!!」
「……早く連れて行け」
陛下は、感情を押し殺すかのように低く命じた。剣の柄に触れるその手は震えていた。
(陛下……?)
「皇帝陛下!! わたくしが、皇后になるはずでしたのよ!! わたくしの方が、皇帝陛下に相応しいのに……!」
「アズール皇帝陛下!!」と悲愴な叫び声が響く。
泣きわめくローズ嬢を引きずるように、近衛騎士たちは皇城の外れへと姿を消した。
「エメロード、怖かっただろう……もう大丈夫だ」
陛下の手が私の頬に触れる。その指は、わずかに震えていた。
「陛下……お背中を……」
「大丈夫だ。この程度、何ともない」
薄く笑ってみせた陛下を、私は震えながら見上げる。頬を、いくつも涙が伝った。
大丈夫なはずがない。足元の白薔薇が一輪、燃え尽きてしまったかのように枯れているのに……。
「お前が無事なら、それだけで良い……もう、泣かないでくれ。私のエメロード……」
陛下は私の涙をそっと拭うと、額に口付けた。
しおれた白薔薇の花弁が、ひとひら風に舞う。
やがて下る裁きの気配を、誰より静かに告げるように──
物語は、季節が巡り、雪解けの季節を待つ最終章へ──
次回、第二十九話「断罪」
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読んでくださっている皆さま、ありがとうございます。
いよいよ最終章に入ります。
ぜひ、最後まで見届けていただけると嬉しいです!




