第二十六話 帰ってきた皇后と不穏な影(前編)
白薔薇の咲く皇城に──ようやく、彼女は帰ってきた。
コライユの街から戻る道中。
馬車の心地良い揺れと体を包む温もりに目覚めると、陛下の腕に抱かれていた。
窓の向こうには、皇都ディアマンの白い尖塔が覗いている。
視界に映るのは美しい煉瓦造の街並み。夕陽に染まる城壁が黄金に輝いている。
(……帰ってこられたのね……)
彼の胸の温もりとほのかな白薔薇の香りに、不安と恐怖に支配されていた時間が嘘のように感じられた。
震える指先を握ると、温かな手のひらに包まれる。
「エメロード、大丈夫だ……もう、心配はいらない」
陛下が、そっと囁いた。
優しく包みこんでくれるその声音は、氷を溶かすように柔らかかった。
私は溢れそうになった涙を隠すように、その温かな胸に頬を寄せた。
彼が、私の髪に口付けたのが感じられる。
(陛下……)
淡い白薔薇の香りに、私は再びまぶたを閉じた。
* * *
皇后エメロードの帰還は、皇城に安堵をもたらした。
だが、更に厳重になった城の警備に、空気は緊張感を帯びていた。
そして、アズールの瞳には、怒りと憎しみが静かに宿っていた。
「……トリフェーン王国王女アンブル、そして王妃アデルの仕業──間違いないのか?」
影の報告に、執務室の空気が凍る。
「はい。さらに……皇后殿下は幼少の頃から、王妃アデルにより度重なる暴行を受けていた可能性があります。『躾けと称して、夜ごと鞭の音が響いていた』と古い使用人たちから聞き出しました」
──エメロードは、幼い頃から……。
「そして、捕らえている男ですが……」
続けられた報告を聞いた瞬間、怒りに震えるアズールの拳が強く握り締められた。
(彼女を、娼館に売るように言われただと……)
「……あの者たちが、二度と私の皇后を害せぬようにしろ」
「御意」
いつになく低く発された命に、影は深く頭を下げる。
影の兵が姿を消すと、アズールは息を吐いた。
脳裏に浮かんだ、トリフェーンで独り耐えていたであろう彼女の姿が消えず、怒りに震える。
家族であったはずのあの者たちは、彼女を──
(許されるのならば、この手で……)
その衝動を抑えるように、アズールは強く手を握り締めた。
冷たい怒りの底にあるのは、たったひとりの少女を守れなかった悔恨だった。
* * *
(陛下は、隣にいらっしゃるのかしら……)
私は、執務室のある方の壁を見つめた。
淡い光に満ちた室内はひどく静かで、言い得ぬ不安が忍び寄ってくるように感じた。
窓辺を訪れる小鳥たちのさえずりに耳を澄ませていると、扉の向こうからかすかに話し声が聞こえる。
(誰かしら……?)
小さな音に視線を向ける。
静かに開いた扉から、陛下が顔を覗かせた。
「エメロード、起きていたのか……」
陛下は静かに入ってくると、寝台の傍らに屈んだ。
起き上がろうとすると、陛下の手がそっと肩に触れる。
「まだ起き上がってはいけない」
陛下は、そのまま寝台へと座った。
横たわったままで陛下を見つめると、淡く微笑まれる。
「陛下のお傍に、いたいのです……」
「……エメロード」
私の頬に陛下の手が伸ばされる。
アイスブルーの瞳を見上げると、陛下がそっと抱き起こしてくれた。
その腕の温もりと、柔らかな眼差しに何故か胸が締め付けられる。
(陛下のお傍にいられて、安心しているはずなのに……)
高鳴る胸に、私は小さく息を吐いた。
「エメロード、具合が悪いのか? すぐに医官を──」
「違うのです」
そう言うと、陛下は私を見つめた。
「その……陛下を見ていると、胸が苦しくなって……」
そう言ってから、自分の頬に熱が集まるのがわかった。
一拍置いて、彼の頬も赤く染まる。
(言ってしまったわ……)
恥ずかしくなって視線を逸らすと、陛下の腕に包まれた。
気遣うように触れる手は、ひどく優しかった。
(もっと強く、抱き締めてくださっても良いのに……)
ふいにそう思って、鼓動がうるさくなる。その想いを、口に出せるわけがなかった。
「エメロード……」
少し苦しげな声に顔を上げると、陛下のアイスブルーの瞳と視線が交わる。
熱を帯びた眼差しに捉えられたかのように、視線を逸らせなかった。
「陛下……」
瞳を揺らした彼は何かに耐えるように視線を伏せ、私の額に口付けると静かに立ち上がった。
離れてしまった温もりに伸ばしたくなった手をそっと握り締める。
「エメロード……紹介したい者がいる」
その言葉に私が顔を上げると、陛下は穏やかに微笑んだ。
「ルイーズ、入ってきてくれ」と陛下が声を掛けると、静かに扉が開かれた。
「新しくエメロードの身辺警護を任せることになった、近衛騎士隊のルイーズ卿だ」
「皇后殿下にご挨拶申し上げます。改めまして、ルイーズ・ブランシャールと申します」
そのすらりとした女性騎士は跪くと、わずかに固い表情でそう名乗った。
「この命を懸けて、皇后殿下をお守り致します」
凛々しい表情を崩さず頭を下げた彼女の赤毛が、さらりと肩から落ちる。
(この方は……)
アモリットで陛下に助けられた後、目覚めた宿で彼女に介抱されたことを思い出す。
「ゆうべはありがとう。頼りにしていますね」
そう言って微笑むと、彼女の榛色の瞳がほんのわずかに見開かれた。
「皇后殿下。……そのように仰っていただくなど、畏れ多きことにございます」
彼女は瞳を揺らし、頭を垂れた。
(とても真面目な方なのね……)
私が陛下を見つめると、柔らかく微笑まれた。
「彼女は帝国唯一の女性騎士だ。男性騎士に劣らぬほどに腕が立つ。安心して過ごしてくれ」
「この身に変えても、皇后殿下をお守り致します」
再び腰を折ったルイーズ。
その傍らで、私を見つめる陛下は淡く微笑んでいた。
次回、第二十六話「帰ってきた皇后と不穏な影(後編)」
※夕方の5時10分に投稿予定です。




