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第二十五話 奪われた夜の果てに

 海風が夜の港を吹き抜け、潮と油の混じった匂いが立ちこめていた。


 そこは帝国でもっとも忌まれた場所──アモリットの闇市。鎖の音、値踏みする男たちの声、怯えた嗚咽が交錯していた。


 薄闇の中、粗末な布をまとわされた女性たちは、無言で並ばされていた。皆暗い顔で俯き、中には泣きじゃくる少女たちの姿もある。

 その中に、一際目立つ淡い金の髪がかすかに揺れた。場違いな白いドレスが、薄暗い中で白薔薇のように淡く浮かび上がる。


(この、場所は……?)


 私は、視線だけであたりを見回していた。

 裸足の足裏に突き刺さるのは、冷たくざらついた石畳の感触。私は、手首に絡む錆びた鎖の重さにふらつきながら、震える唇を噛みしめた。


「その娘が欲しい」


 通りがかった若い男性の声に、背後の男性が私の髪を掴み上げた。

 恐怖に震える私は、痛みに声を上げることも出来なかった。


「この貴族娘は美しいが、背に傷があるぞ」

「構わない。──いくらでも積む」


 「だから、その娘を手荒に扱うな」と低く響いた男性の声に、私は震えながら顔を上げた。

 目深に被られた黒い外套の下から覗くのは、紅玉ルビーのように光る真っ直ぐな瞳だった。その赤い輝きが、闇の中で妖しく燃える。

 視線が合った瞬間、私は息を呑んだ。


(この赤い瞳……いつか、どこかで──)


 けれど、その思考を遮るように、突如、遠鐘と轟音が夜を裂いた。


「帝国軍だ!! 逃げろ!!」


 その大声に、人々が一斉に散る。

 銀に輝く鎧をまとった騎士や兵たちが、燃え盛る松明を掲げて雪崩れ込んできた。

 皆が逃げ惑う混乱の中で、求めていた白銀の輝きが目に留まる。


「──陛下……」


 その姿だけが浮かび上がって見えた。

 白銀の髪と、紺の外套が潮の香りをまとう夜風になびいている。

 焦燥に染まったアイスブルーの瞳が、私を捉えた。


「エメロード!!」


 叫ばれた名に、視界がにじんだ。

 足が震え、声にならない息が漏れる。

 次の瞬間、陛下が駆け寄り、私を抱き寄せた。


「陛下……」


 その胸元からかすかに香るのは、白薔薇の香。

 胸の奥から押し出されるように、涙がいくつも溢れる。


「陛下、夢では……」

「もう大丈夫だ……エメロード。私が、迎えに来た」


 掠れた囁きが落ちて、強く抱き締められた。

 少し息苦しくなるほどの力強さに、私は彼の胸に縋り付く。

 その温もりに安堵した私は、彼の腕の中で静かに意識を手放した。


 * * *


「エメロード……」


(どれほど、恐ろしかったか……)


 アズールは、腕の中の彼女をそっと抱き締める。

 騎士に保護された女たちが涙を流しながら鎖を引きずる姿を目にし、アズールは瞳を伏せる。


(このような場所、失くさなくては……)


 その背後で、紅い瞳の男が一瞬だけ足を止める。

 潮風に黒と紺の外套が揺れ、振り返ったアズールと視線が交わる。

 紅と蒼の瞳が交錯し──次の瞬間、男の姿は闇に溶けるように消えた。


(……あの男は……?)


 残されたのは、薄闇に光る紅い瞳の残像だけだった。


 気を失ったエメロードを自身の纏っていた紺の外套で包んで抱き上げたアズールは、そっと彼女を女性騎士に預けた。


「ルイーズ、皇后を女性の医官に診てもらってくれ。絶対に離すな」

「はっ!」


 ルイーズがエメロードを抱きかかえ、離れた場所に停められた馬車へと駆ける。高い位置で結われた赤毛が海風になびいた。

 彼女が馬車へ入るのを見届けてから、アズールは近衛騎士が捕らえた男に剣を抜いた。


「貴様……誰の指図でこれを?」

「し、知らねえ! 俺はただ、娘を受け取って運んだだけで──!」

「誰から受け取った」


 突き付けられた白銀の剣先に、男が息を呑む。


「女だ……甘い香りの──龍涎香を使ってる、若い貴族の女だよ! それ以外は何も知らねえよ!!」


 男が叫ぶように吐き出した。

 その言葉に、アズールの瞳が揺らいだ。


(……龍涎香、だと?)


 脳裏を過ぎったのは、謁見の間で感じた、あの甘く不快な香──第一王女アンブル。

 龍涎香はマルジャーン王国原産の希少な香で、このサードニクスでは流通していないはず──


(あの女……私のエメロードに……)


 握る剣の刃が震えた。

 不意に彼女の背の傷跡を思い出し、怒りが氷柱のように全身を貫く。


「影の部隊に伝えろ。トリフェーン王国王女アンブルの身辺を調べ尽くせ……その男も、牢に繋いでおけ」

「はっ!」


 命令を受けた影の兵が、闇に消えた。

 夜の港に残されたのは、鈍い鎖の音と、騎士たちに捕らえられる男たちの呻き声だった。


(必ず守る──もう二度と、失わない)


 アズールは懐に仕舞っていたアイスブルーダイヤを強く握り締めた。

 港の風が吹き抜け、波音の向こうで白い月が静かに揺れていた。


 * * *


 アモリットの北に位置する港町コライユの宿屋。

 アズールと近衛騎士団の一行は、この宿で一泊することにした。


「皇后は」

「御身にお変わりはないと……ただ、首筋や手首、お御足に傷が……」


 その報告に表情を翳らせたアズールに、ルイーズが遠慮がちに言葉を続ける。


「そして、少しお目覚めになられたときに、皇后殿下が……」


 ルイーズから、エメロードは“薔薇園で気を失ってから、闇市で目覚めた”ということを聞かされて、アズールの瞳が伏せられる。


(彼女は、何も知らない方が良い……)


 寝台に横たわり眠るエメロードは、侍女たちによって清められ、純白の寝衣に着替えさせられていた。

 その姿は、ほんの数刻前まであの醜悪な場所にいたとは思えない清らかさをまとっていたが、ルイーズの説明通り衣から覗く手首には包帯が巻かれていた。 


(闇市──あの男たちも、全て根絶やしにしてやる……)


 アズールは憎悪に燃える瞳を伏せると、寝台の傍らに静かに膝を付いた。

 エメロードの首筋の包帯を見ると、髪にそっと触れる。


「……守れず、すまなかった。エメロード……」


 そのかすれた小さな声は、彼女の寝息に紛れて消えた。


 * * *


 その頃、帝都ディアマンでは──


「お母様……!」

「大丈夫よ、アンブル」


 ディアマン随一と謳われる宿屋の一室に二人はいた。

 煌びやかなシャンデリアの下で、母親を見上げるアンブルの琥珀のような瞳からはいくつも涙がこぼれている。


「でも、皇帝陛下から、二度と皇城に来るなと言われてしまいましたわ!」


 目を赤く腫らしたアンブルが、椅子に腰掛けるアデルの膝にすがり付く。


(こんなにも美しい私の娘に目もくれないなんて、サードニクスの皇帝は見る目がないようね……)


 「心配はいらないわ……どうせエメロードは見つからないもの」と薄く笑ったアデルが、アンブルの髪をそっと撫でる。


(今頃、エメロードは……)


 蜂蜜色の髪の上で、紫に染められた長い爪が妖しく煌めく。


「マルジャーンから、良い香を取り寄せましょう……トリフェーンに戻ってから、あの商人を呼ばなくてはね」


「お母様……?」


「……氷の皇帝も、あなただけを見つめるようになるはずよ……可愛いアンブル」


 アデルの言葉にアンブルの紅い唇が弧を描き、二人は笑い合った。

 皇帝の影が迫っていることも知らずに──

次回、第二十六話「帰ってきた皇后と不穏な影」

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