第二十四話 甘き香の女
※少し長めのお話です。
夜が明けても、白薔薇は咲かなかった。
初夏が訪れたはずの皇城を霧のように冷たい風が包み、庭の花々は沈黙している。
和らいでいたはずの氷の瞳は冬の氷柱のように凍てつき、柔らかだった城の空気は一夜にして凍りついていた。
あの幸せで穏やかだった昨日までの日々が、幻であったかのように──
エメロードが姿を消した日の翌朝、執務室で夜を明かした私の前に影が現れた。
「皇帝陛下」
跪いた影に、私は立ち上がった。
「見つかったか?!」
「いえ……昨夜捕らえた男が、口を割りました。貴族の若い女に雇われたそうです」
頭を伏せたまま、影はそう告げた。
「貴族……帝国の者か?」
「貴族だとしかわからないようです。男は帝国の者のようですが……これ以上は、聞き出すことはできないかと」
(一体、誰がエメロードを……)
不意に、赤い瞳を思い出す。
──グロッシュラーの皇帝。
ルベライトの王城で会ったあの男は、エメロードを執拗に見つめていた。
『──鼠が一匹、忍び込んだようです』
浮かんだのは、エメロードが来た日の晩に、影から受けた報告──
(まさか、エメロードを狙って──)
「グロッシュラーの可能性は」
その問いに、影がわずかに顔を上げた。
「今回は、グロッシュラーが動いた形跡はありません。……あの国が得意とする魔術の類も、この城では一切使えませんので」
(では、あの時に密偵を送り込んできた目的は……?)
影に否定されても、胸のざわめきは増していく。
沈黙が落ち、影が深く頭を垂れた。
「……ご苦労だった。また、何かわかればすぐに知らせてくれ」
「御意」
姿を消した影に、私は窓辺を振り返った。
(エメロード、どこにいるんだ……)
私は窓から薔薇園を見下ろした。
見る度に、幸せを感じていたはずの景色──
彼女のいないその場所が、ひどく残酷なものに思えた。
* * *
その日の午後。
皇城の謁見の間に、甘く蠱惑的な香の匂いが漂った。
艶やかな薄紅色のドレスの裾を翻し現れたのは──トリフェーン王国第一王女、アンブルだった。
薔薇色の頬に紅い唇。結い上げた濃い蜂蜜色の髪には、柘榴石をあしらった黄金のティアラ。大きく開いた胸元からは、磨かれた白い肌が露わになっている。
(なんて素敵な御方……)
美しい微笑を浮かべた彼女は、アズールを熱く見つめるとドレスの裾をつまんで深々と一礼した。
「皇帝陛下……このような時にお目通りを許していただけるとは、光栄ですわ」
その鼻にかかった声音には、芝居がかった甘さが混じっていた。玉座の主を見上げる琥珀色の瞳は、熱く潤んでいる。
(この香りは確か──マルジャーンの龍涎香。……不快な匂いだ)
アズールは、以前会ったことのある沙漠の国の王族から漂った香りを思い出した。
──これが、エメロードの姉とは……。
アズールは玉座に座したまま、あからさまに眉をひそめると、冷たくアンブルを見下ろす。
「病に伏せっていると聞いていたが、随分と元気そうだな」
低く放たれた、皮肉を帯びた言葉。
アンブルの頬が一瞬引きつる。
「おかげさまで、快復いたしました。本日は、いなくなった妹が心配で……居ても立ってもいられずに参りましたの」
上目遣いに見上げる潤んだ瞳に、アズールのアイスブルーの瞳が冷ややかに光る。
「──どこから、その情報を得た?」
「え……?」
「箝口令を敷いているはずだが」
微笑を浮かべていたアンブルの顔から、一瞬で血の気が引いた。
その沈黙を、玉座から見下ろす氷のような眼差しが切り裂く。
(トリフェーン……何も出来ぬ小国かと思っていたが、この城に間諜でも仕込んでいるのか? エメロードを案じての行為なら構わないが──)
「皇帝陛下、誤解ですわ! わたくしはただ、妹を──」
「誤解とは、どういう意味だ」
冷たく言い放たれた言葉に、アンブルは唇を震わせた。
宝石の飾られた手でドレスを握り締める。
「……もう話はないようだな。帰ってもらおう」
アズールの声音には、氷の刃のような威圧が宿っていた。
侍従に囲まれたアンブルは、怯えたように一歩退き、アズールを見つめながら唇を噛む。
「アズール皇帝陛下──」
「気安く私の名を呼ぶな」
冷たい声と鋭い眼差しに、琥珀色の瞳が見開かれる。
「全てが不愉快だ……二度とこの皇城には立ち入るな」と吐き捨てるように言ったアズールに、アンブルが驚愕の表情を浮かべる。
屈辱に肩を震わせると、彼女は俯いた。
「……どうせ、いくら探しても戻りませんわよ」
歪んだ微笑みを浮かべたアンブルが、囁くように呟いた。だが、その言葉は彼の耳に届くことなく、甘い香に溶けた。
侍従に促され、アンブルは静かに玉座の間を後にする。
そのとき、入れ違いにエドモンが駆けてきた。
「皇帝陛下、報告がございます!」
「エメロードが見つかったのか?!」
立ち上がったアズールは、「いえ……違います」と小さく返ってきた声に落胆の表情を浮かべる。
その姿をちらりと見たアンブルの瞳が弧を描いた。侍従に促された彼女は、静かに皇城を後にした。
「皇后付きだった筆頭侍女、エリーズ・リヴィエールが見つかりました。現在、事情を聴取しております」
エドモンの報告に、アズールの瞳が一瞬だけ揺れた。
「そうか……彼女は皇后が慕っていた筆頭侍女だ。丁重に扱うように」
「はっ!」
エドモンが下がると、玉座の間に静寂が戻る。
──エリーズ・リヴィエール。
エメロードを笑顔にするために探させ、呼び戻すように命じた元筆頭侍女。
だが、エメロードはこの皇城にはいない。
(エメロード……)
アズールは深く玉座に座ると、天を仰いだ。
「どうか……無事でいてくれ……」
執務室の窓辺から見下ろした微笑みを思い出し、アズールはにじんだ目を片手で塞いだ。
* * *
(ここは、どこなの……)
目覚めると、私は暗い部屋に寝かされていた。
違和感のある手首には、何かがはめられている。
薄い絨毯の上でゆっくり起き上がると、じゃらりと耳障りな音が重く響く。体中が、軋むように痛かった。
(この、匂いは……?)
どこからか、潮の匂いが感じられる。遠く、幼い頃に嗅いだきりの海の匂い。
この小さな部屋には窓も家具もなく、埃っぽい部屋に、古びた木の扉がひとつあるだけだった。
──一体、何が……。
最後の記憶は、目の前でニーナが倒れる姿。
その後、何かに口元を塞がれて、私は意識が途切れた。
(ニーナは、大丈夫かしら……)
倒れ込むニーナの姿を思い出し、不安な気持ちが増す。
(陛下は……)
薔薇園から見上げた窓辺で、微かに微笑み返してくれた陛下の姿を思い出す。
「アズール、陛下……」
そう小さく呟くと、一層胸が苦しくなった。
彼にもう二度と会えないのではないかと、恐ろしくてたまらない。
私は、あの眼差しを求めるように胸元のネックレスに指を伸ばした──
だが、いつもあった感触がそこにはなかった。
(どこで失くしてしまったのかしら……陛下からいただいた、大切なものなのに……)
瞳がじわりとにじむ。
「──!!」
そのとき、扉の向こうから足音がして、体が竦んだ。
淡い光と粗野な男の影が、扉の隙間を切り裂くように差し込んだ。
* * *
──夕刻の玉座の奥。
青い石が敷き詰められた上に、白い羽をもつ聖鳥オパリオスが佇んでいた。
その瞳は紫水晶のように光り、まるで全てを見通すようだった。
エメロードを見つけ出すため、国中の港も国境も全て封鎖させ、全軍を動員して帝国中を探させているが、まだ何の手がかりも得られていなかった。
目覚めた皇后付きの侍女たちは皆泣きながら平伏し、近衛騎士の両名は極刑を望んできた。
だが、そんなことをしても彼女は帰ってこない。
(──皆、エメロードが慕っていた者たちだ……彼女が悲しむ顔は、見たくない)
「オパリオス……」
私はオパリオスの前で膝をつき、その瞳を見上げてから頭を垂れた。
「……私は、お前を憎んでいた。いなくなれば良いとさえ、願った……」
私は、顔を上げた。
「……私のことは、いくら罰してくれても構わない……だが、どうかエメロードを助けてほしい」
オパリオスは、ただ黙っていた。
澄んだ紫水晶の瞳が、こちらを見下ろしている。
「エメロードはお前が選んだ皇后だろう? どうか、彼女を──……私を、助けてくれ……」
掠れた声は、震えていた。
その瞬間、オパリオスはゆるやかに翼を広げ、一声、天をつくように鳴いた。
刹那、淡い虹色をまとう白い光が広がり──
脳裏に、鮮烈な幻が浮かび上がる。
暗い海の波音に、揺れる貿易船。
錆びた鉄の匂い。
そして──薄暗い中で鎖に繋がれた、彼女の姿。
「エメロード……!」
思わず手を伸ばした瞬間、その幻は水面のように揺らいだ。
(あの貿易船……アモリットの港の──闇市か……!)
息を呑む。
幻がかき消えると同時に、オパリオスはそのまぶたを閉じた。
「オパリオス、心から感謝する……」
──エメロード……必ず、助け出す。
玉座の間を出て行く私の背に、白い羽根がひとひら、静かに舞い落ちた。
次回、第二十五話「奪われた夜の果てに」




