第二十三話 消えた白薔薇
【第五章 夏の影を越えて】のあらすじ
新緑と白い花々が揺れる皇城で、想いを通わせ始めたアズールとエメロード。
だが、ふたりを引き裂こうと新たな影が忍び寄る──
* * * * *
※ 作品のイメージイラストです。
初夏の爽やかな風が皇城を包み、白薔薇の澄んだ香りがほのかに漂っていた。
かつてはひっそりとしていた皇城の庭園は、新たに植えられた花々が揺れ、陽光を浴びて色鮮やかに染まっていた。
「こちらだ、エメロード」
アズールはエメロードの手を取り、白薔薇の咲き誇る薔薇園へと歩みを進める。
花盛りの白い花びらが風に舞い、エメロードの淡い金の髪を彩った。
「……なんて、美しいのでしょう」
白薔薇のアーチをくぐり、翠玉の瞳を輝かせるエメロードを見つめながら、アズールは静かに微笑んだ。かつては冷たい眼差ししか見せなかったアイスブルーの瞳に、やわらかな光が宿っている。
「この庭は、すべてエメロードのために造らせた」
「私のために……?」
「白薔薇の香りが好きだと、言っていただろう……」
わずかに瞳を伏せてそう答えたアズールを、エメロードは頬を染めて見上げる。
彼女は胸にそっと手を当て、花が咲いたように微笑んだ。
「陛下……まるで、夢のようですわ」
「私は、夢であってほしくはないな」
そう言って目を細めたアズールの横顔は、初夏の陽射しに溶けて柔らかく輝いていた。
その日以降、エメロードは白薔薇の庭で過ごすようになった。
皇帝の執務室からは、その様子がよく見えた。
政務の合間、アズールは窓辺に立ち、白い花々の中で穏やかに過ごす彼女の姿を見つめるのが日課になっていた。
幸せそうに微笑むその姿は、彼にとって初めて得た安らぎそのものだった。
(このような気持ちになる日が来るとは……)
アズールは硝子にそっと触れた。そのアイスブルーの瞳は、何より愛しそうに彼女を見つめている。
その窓越しの光景は、彼の中に眠っていた何かを温かく溶かしていった。
* * *
よく晴れた日の昼下がり、私はいつものように庭園へとやってきた。
近衛騎士のオスカーと、侍女のニーナも付いてきてくれている。オスカーは離れた場所に立って辺りを警戒し、ニーナは明るい笑顔で紅茶を淹れてくれる。
ふと、皇城の三階の窓辺を見上げると、陛下と視線が合った。嬉しくなって微笑みかけると、陛下はかすかに微笑んで、すぐに窓辺から姿を消した。
(陛下……政務が、お忙しいのね)
少しだけ寂しい気持ちになりつつも、陛下が私のためだけに造ってくれた庭園で白薔薇の香りに包まれ、胸がいっぱいになる。
「こんなに美しい薔薇園を贈られるなんて……皇帝陛下は皇后殿下を深く寵愛されているのですね」
頬に手を添え、うっとりとした表情でそう言ったニーナに、私は頬が熱くなった。
けれど、もう否定する気持ちは起きなかった。
私は皇帝陛下に大切に想われている──彼の和らいだ眼差しやわずかに甘さを含んだ声音。優しく触れる手の温もり。私に与えられるすべてが、そう実感させた。
白いドレスの裾を軽く持ち上げると、薔薇の装飾が施された象牙色のベンチに腰掛ける。
(──本当に、幸せだわ……)
私は、こうして薔薇園で過ごすのが日課になっていた。
与えられた幸せを失うこと──それを恐れる不安な気持ちは、穏やかな眼差しの陛下と過ごすうちに少しずつ胸の片隅へと追いやられ、いつの間にか姿を消したように思えた。
(早く、鐘が鳴らないかしら……)
私は、皇城の敷地内にある鐘塔を見上げた。
鐘が三度鳴ったら、陛下が降りてきてくださる。私が、何より楽しみにしている時間だった。
「皇后殿下、紅茶をどうぞ」
「ありがとう」
ニーナの淹れてくれる紅茶は、温かくホッとする味がした。
けれど、ふとエリーズを思い出し、胸がちくりと痛んだ。
(エリーズ、元気に過ごしていると良いのだけど……)
小鳥たちの鳴き声に空を仰ぐと、突然吹いた強い風に白薔薇の茂みがざわりと揺れた。
「至急、皇帝陛下から……」
「──何?!」
離れた場所から、オスカーの声が上がった。
物々しい雰囲気に、傍らにいたニーナも顔を上げる。
(どうしたのかしら……)
ニーナと一緒に様子を見ていると、オスカーが慌てた様子でこちらへ駆けてくる。その後ろを、若い騎士が続いた。
「皇后殿下、申し訳ありません。急ぎ確認しなければならないことができ、少しの間、この騎士と交代させていただきます」
「わかったわ……」
「すぐに戻りますので」とオスカーは深く一礼すると、皇城に向かって駆けて行く。
その姿を見送った若い騎士が、ゆっくりとこちらを振り返った。
「皇后様、ご安心ください」
そう言った見覚えのない騎士は、薄く微笑んだ。騎士を現すマントの白銀の留め具が、わずかに歪んでいるように見える。
胸がざわつくような、嫌な風が吹いた。
* * *
その日の午後も、エメロードは庭にいたはずだった。
私は、窓越しに視線を交わしたときの、彼女の可憐な微笑みを思い出していた。
(もっと、見ておけば良かったな……)
あの時は、思わず合ってしまった視線に、すぐに窓辺から離れてしまった。
振り返ると、白薔薇の花弁が風に乗り、執務室の窓をくすぐるのが見える。
丁度そのとき、遠鐘が三度鳴った。
この時刻には、私も薔薇園に行き、彼女と一緒に休憩を取るようにしていた。
読み終えた書簡を置いて立ち上がると、外へと視線を向ける。
(エメロード……?)
──いない。
いつも同じ時間にそこにいたはずの彼女の姿が、どこにも見えなかった。
(侍女はどうした……近衛騎士は?)
胸の奥が、ひどくざわめく。
窓を開けて身を乗り出すと、見張りの近衛たちが慌てて駆け寄ってきた。
「皇帝陛下、どうされました!」
「皇后がいない!」
「皇后付きの近衛は何をしている?!」と大声を張り上げると、兵たちは顔色を一変させた。
「直ちに確認致します!」
「早く探し出せ!!」
執務室を出て、すぐ隣の皇后の居室へ──
(何故、近衛がいない?!)
心臓が嫌な音を立てた。
皇后の居室の前にいるはずの近衛騎士の姿がなかったのだ。
扉を開けると、そこには眠るように倒れている近衛騎士と侍女たちの姿があった。
「エメロード!!」
私は、すぐに皇城を飛び出し薔薇園を駆けた。あたりを見回しながら、彼女の名を何度も叫ぶ。
いつも彼女がいた穏やかな薔薇園は、ひんやりとした風にざわめいていた。
──『皇帝陛下……』
あの夜のワルツ──淡く微笑んで見上げてきた、翠玉の瞳を思い出す。
(必ず守ると、約束したのに……)
「皇帝陛下! 侍女が見つかりました!」
「どこにいたんだ?! エメロードは見つかったのか?!」
「侍女は薔薇園の茂みに倒れていました! 何か嗅がされたのか、目覚めません!」
「エメロードは?!」
「これが──」
近衛兵の震える手で差し出されたのは、アイスブルーダイヤのネックレスだった。
「エメロード……」
輝く薄青の宝石に、再び千切れている白銀の鎖。
目の前が、真っ暗になった。
* * *
「帝都を封鎖しろ!!」
執務室に、雷鳴のような怒声が響いた。
書簡や地図が執務机から床へ散らばり、アズールの足元を覆った。
「門も港も、全て閉じよ! 国から一人たりとも出すな!!」
その姿は、もはや“氷の皇帝”ではなかった。
ただ一人の少女を探すために、帝国は一瞬で非常態勢へと変わった。
鐘塔の鐘が連なって鳴り響き、騎士や兵士たちが一斉に走り出す。
白薔薇の庭を抜け、帝都を越えて帝国の全域に緊急の号令が走る。
だが、日が暮れても、わずかな足取りさえ見つからなかった。
* * *
エメロードが消えた晩。
暗幕に包まれた古びた荷馬車が、夜の街道の脇に停まっていた。その傍らには、金細工の施された豪奢な馬車が停められている。
淡い月明かりが差し込む薄汚れた荷台には、小さな寝息を立てる一人の少女が横たわっていた。
上質な絹で作られた白いドレスの裾はうっすらと土に汚れ、首元にはかすかな擦り傷がにじんでいる。
「この娘を差し上げるわ。その代わり、出来るだけ卑しい──老いた男に売ってちょうだい」
黒衣をまとう若い女の声が、荷馬車の外から響く。目深に被られた外套に、その顔は見えない。
「そんな……これほど美しい娘、競りに出せば一体いくらの値がつくか」
荷台に転がされた少女の寝顔と煌めく淡い金の髪を見て、商人が喉を鳴らした。
「その娘の背中には、傷跡がたくさんありますのよ。どうせ高くは売れませんわ」
闇が声を呑み込むように、二人の言葉が交錯した。
「……何なら、花を売る店でも構いませんことよ」
囁くようにそう付け加えて、重そうな皮袋を差し出した女が赤い唇で笑んだ。
商人は差し出された革袋を受け取り、中に詰められた金貨の輝きを見て息を呑む。
「わかりました。では……手早く片づけましょう」
舌なめずりした商人は、革袋を懐の奥へと仕舞い込んだ。そのとき、甘く蠱惑的な香がふわりと彼の鼻先をくすぐった。
(この匂いは、マルジャーンの……)
「くれぐれも、頼みましたわよ」
「も、勿論……任せてください」
商人は暗幕を下ろし、女に頭を下げると荷馬車を走らせ始める。
遠くなる荷馬車を見送る女の赤い唇が、妖しく弧を描いた。
粗末な車輪が軋む音が、夜を裂く。
荷台に揺らされて、気を失った少女の淡い金の髪から、ひとひらの白い花弁が落ちた。
それは皇帝が贈った、彼女のためだけに咲いた白い薔薇。
彼女はかすかな月明かりを受けて、ひっそりと輝きながら、闇の中へと消えていった。
その頃、皇城の薔薇園では、夜風に揺れる白薔薇が静かに花弁を散らしていた。
「エメロード……」
アズールは、手の中のアイスブルーダイヤを強く握り締める。
一人立ち尽くす闇の中、澄んだ甘い香りだけが彼を包み込んだ。
次回、第二十四話「甘き香の女」




