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第二十一話 溶けた眼差しと変わっていく皇城(前編)

※少し長めのお話です。

 部屋に飾られた春色の花々が、窓辺から入った風にやさしく揺れていた。

 目を覚ました日から、私の心にまで春が訪れたような暖かさに包まれた。


 私の部屋は、皇帝陛下の執務室の隣に移された。

 医官と皇帝陛下の指示の元、しばらく安静に過ごすことになった私は、ベッドの上に座っていた。


「もう、冷めたようだ」


 そう言った皇帝陛下がボウルを手にすると、一匙のスープを差し出した。


「エメロード、ほら……」


(もう子どもじゃないのに、恥ずかしいわ……)


「もっと口を開けてくれ」


「……自分でいただけますわ」


「安静にするよう言われただろう。──さぁ」


 真っ直ぐな、アイスブルーの瞳。

 私は諦めて口を開くと、彼が運んだスプーンを口に含んだ。

 とろりとしたスープには、刻んで煮込まれた野菜が溶け込んでいた。不思議と甘く感じられたそれは、心まで温まるような味がした。


「……食べられそうか?」


「とても美味しいですわ」


「良かった……たくさん食べてくれ」


 淡く微笑んだ皇帝陛下は、またスープをすくう。


(まだ続くの……?)


 心の中でため息を吐いた私は、熱くなる頬をそっと押さえた。


「エメロード? 熱でもあるのではないか──」


 ボウルを置いた皇帝陛下の大きな手が、私の額にそっと触れた。 


「皇帝陛下?」


 「これでは、よくわからないな」と呟いた彼が、顔を近づけてくる。

 私は思わず息を止めた。


 ──その時、ノックの音が響く。


「皇后殿下、失礼いたします。皇帝陛下、おいででしょうか」


 開かれた扉から、侍従官のエドモンが現れて一礼した。


(助かったわ……)


 エドモンを見ると、彼が瞳だけでかすかに笑んだ。


「……エドモン。何の用だ」


「急ぎ、皇帝陛下に決裁していただきたい書類がございまして……」


「今はエメロードの食事中だ。後では駄目なのか」


「今、お願い致します」


 エドモンの言葉に、皇帝陛下は静かに立ち上がった。


「エメロード、途中なのにすまない」


 「決裁が終わったら、またすぐに戻る……医官も呼ぶから、ゆっくり休んでいてくれ」と淡く微笑むと、皇帝陛下は隣の執務室へと向かった。


(皇帝陛下は随分心配性なのね……傍にいてくださるのも、嬉しいけれど……)


 私は、熱いままの頬をそっと両手で押さえた。


 * * *


 あれから一週間程が経って体も回復し、私は少しずつ以前のように過ごし始めた。


(皇帝陛下は、まだ政務に励んでおられるのね……)


 夜遅く、隣の執務室からは、紙をめくる音やペンの走るかすかな気配が聞こえる。

 この部屋は、以前の寂しい部屋とは違い、静けさの中に温もりと安堵が混じる場所だった。かつては、孤独を噛みしめるだけだった夜の静けさも、今は心を和らげてくれる。


(本当に、夢のようだわ……)


 目覚めると、薔薇色の絨毯には朝日が差し込み、柔らかな光が壁を撫でていく。

 新たにあつらえられた象牙色の家具や淡い薔薇色のカーテンの縁には、白銀の装飾や刺繍が施されていた。

 まるで氷の城に、春の息吹が訪れたようだった。


(これも全て、皇帝陛下が……?)


 広いクロゼットには、新しくあつらえられた淡い色のドレスが溢れるほどに並んでいた。

 皇帝陛下から贈られた大きな宝石箱の中には、色とりどりの宝飾品が整然と並び、その中央には──鎖が修復された、あのアイスブルーダイヤのネックレスが収められていた。


 私は、ネックレスを贈られたあの日を思い出し、薄青の宝石をそっと手に取る。

 繊細に繋ぎ直された白銀の鎖は、今までは信じられなかった絆をそっと紡いだように見えた。


(この、香りは──)


 不意に、ふわりと香った白薔薇の香りに指先が震え、胸の奥が熱を帯びる。


(やはり、同じ香水を……?)


「皇帝陛下……」


 呟いた声は、涙とともに揺れた。

 透明な雫が宝石の上に落ちて、静かに煌めいた。


(でも……これは、本当に現実なのかしら……)


 アイスブルーダイヤのネックレスをそっと握り締めると、ひんやりとした感触がじわりと伝わる。

 皇帝陛下からの関心と、与えられた美しい部屋にドレスや宝飾品の数々──それら全てを、また奪われてしまうのではと不安が静かに湧き上がった。


 * * *


「皇后殿下、本日のドレスはどれをお召しになりますか?」


 カーテンを開けてくれたニーナの明るい声が響く。

 彼女は、私が目覚めてから身の回りの世話をしてくれている若い侍女だ。いつも明るい笑顔で接してくれる彼女の気さくな姿に、傷ついてきた心が少しずつ癒されていくのを感じた。


 皇后付きだった五名の侍女たちは、皇帝陛下の命によって全て一新された。


『以前の者たちは皆皇城を出たから、何も心配する必要はない』


 皇帝陛下は微笑んで、そう仰った。

 おそらくは、彼女たちの勤務地を変えてくださったのだろうと思う。


(きっと、食事が運ばれていなかったことをご存知になったのね……)


 皇后として恥ずかしい気持ちもあったけれど、皇帝陛下のお心遣いに胸が苦しくなる程だった。


 けれど──


「皇后殿下、本当にお一人で入られるのですか……?」


「ええ……」


「私はここにおりますので、いつでもお声掛けくださいね」


 笑顔のニーナに微笑み返すと、私はそっと扉を閉めた。

 湯船からは、良い香りの湯気が立ち上っている。

 部屋が移されて新しい侍女たちが配されても、湯浴みは一人だった。

 ニーナには──もう誰にも、この背中を見せたくはなかった。


(皇帝陛下には、絶対に見られたくない……)


 私は、花びらの浮かぶ湯に浸かると、自分の体を抱き締めた。


 * * *


 そして、私には二人の近衛騎士が配された。


「ロジェ・オーブリーと申します。これから、私たちが皇后殿下をお守り致します」


 そう言って優雅に一礼したのは、すらりとした騎士だった。波打つ黒髪は、後ろで一つに結われている。


「オスカー・ゴーダンです。扉の外におりますので、いつでもお声掛けください」


 隣に立つ大柄な騎士は、力強く一礼した。赤茶色の短髪が一層精悍さを増しているように見える。


「ありがとう。これからよろしくお願いしますね」


 部屋の扉の外では、常にオスカーとロジェが無言で見張りに立って目を光らせ、私が出歩く時はどちらかが護衛となった。


 あの冷たかった皇城が、変わっていく──


 漠然とした不安を胸の奥底に抱えながら、廊下に響く足音のひとつひとつが、優しさをまとうように感じられた。


 * * *


 私が回復してから、朝夕の食事を皇帝陛下と共にいただくようになった。


「エメロード、食事は口に合うか」


「ええ、とても美味しいですわ」


 私がそう返すと、皇帝陛下の瞳が安堵したように和らいだ。

 温かいスープと柔らかな白パンをいただいてから、硝子の器に盛られた苺に銀のフォークをそっと差す。

 赤い宝石のように輝く苺を切ってひと口含むと、甘い果汁が口いっぱいに広がった。


(甘くて、美味しいわ……)


「……苺が好きか」


 顔を上げると、皇帝陛下がこちらをじっと見つめていた。

 澄んだアイスブルーの瞳に捉えられたかのように、私は視線を逸らせなかった。


 「ええ……」と小さく頷くと、皇帝陛下が「そうか」と呟いた。

 わずかに伏せられた視線に、私は再び苺を口にした。

 口いっぱいに広がる甘さを味わいながら、私は窓の外へと視線を移した。

 若葉色の庭園には、小鳥たちが遊び、柔らかな風が木々をそっと揺らしていた。


 * * *


 午前の執務室──


「何がおかしい」


 私が見やると、薄く笑っていたエドモンが咳払いをして居住まいを正した。


「いえ。ご所望の品は、皇后殿下のご昼食にお出しするよう手配致しました」


「そうか……」


 朝食で、美味しそうに苺を口にしていた彼女を思い出す。

 

「ルベライト産の果物を取り寄せろ。皇后が好みそうなものを全て」


 「かしこまりました」とエドモンが一礼し、再びこちらをうかがうように見つめてくる。


「まだ、何かあるのか」

「恐れながら……例の、階段から転落された件について、皇后殿下には──」

「思い出させたくはない……引き続き、そちらの方で調べを進めてくれ」


 そう返すと、エドモンがわずかに目を見開いた。深く一礼すると、静かに執務室を後にする。


(エメロード……)


 目覚めた彼女に転落したことについて尋ねたときに、一瞬だけこわばった表情を思い出す。


『私が足を滑らせてしまったのです……事故ですわ』


 彼女は澄んだ瞳で私を見上げ、そう答えたのだ。

 

 私は、再び報告書に視線を戻すも、彼女のことばかりが浮かんでいた。


(エメロードを、幸せにしたい……)


 今まで彼女が傷付いてきたこと──いくら後悔し許しを乞うたところで、私が傷付けてしまった事実を消し去ることなどできはしない。

 だからこそ、彼女にはいつも微笑んでいてほしい。心からの笑みで──そう願わずにはいられなかった。


 * * *


「皇后殿下、すごい量の苺ですね……」


 その日の昼食のテーブルには、苺が盛られた硝子の器がいくつも並んだ。目を丸くしているニーナの隣で、私は笑った。


「一緒にいただきましょう」


 一人ではとても食べ切れず、私は侍女たちと分け合った。

 その苺は、今朝口にした苺よりも、とても甘く美味しかった。


 そして皇帝陛下は、執務の合間にも休憩と称してしばしば顔を見せてくださるようになっていた。

 かすかに微笑みかけてくれるその瞳は、かつての氷のような冷たさを失い、やわらかな光を帯びていた。


 そんな変化は、瞬く間に城中へと広がった。

 侍女たちの態度が変わり、騎士や兵士たちは一層敬意を込めるかのように頭を垂れる。


 『皇帝陛下が皇后殿下を寵愛されている』──

 その噂は、光のように皇城を駆け抜けた。

次回、第二十一話「溶けた眼差しと変わっていく皇城(後編)」


※午後5時過ぎに投稿予定です。

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