第二十話 初めての温もり
夜が明け陽が沈んでも、雨はまだ降り続いていた──
皇城へ戻った私は、エメロードを執務室の隣の部屋へと寝かせた。
彼女はもう二日間、目を覚ましていなかった。
(エメロード……)
寝台で眠り続ける彼女の手を、私はそっと握っていた。
「皇帝陛下、少しは召し上がってください」
小さなノックの音とともに、アガタが入ってきた。その手には、スープと軽食の乗ったトレイがあった。
(喉を通りそうもない……)
食事どころか、私は政務にも手がつけられていなかった。
「……すまない。執務室へ頼む」
「皇帝陛下……」
アガタは眉を下げてかすかに微笑んだ。
「あまりご無理をなさると、皇后殿下もきっとご心配なさいますよ」
「……ああ」
アガタが去った部屋に、静寂が戻る。
窓の外の雨音と、彼女の小さな寝息だけがかすかに響いていた。
* * *
月が昇る頃、エドモンとアガタに命じ、彼女の周囲を調べさせた結果が届いた。
(私は何故、こうなるまで気が付かなかった……)
報告書を読み進めるうちに、胸の奥が冷たく締め付けられ、怒りに手が震えた。
彼女のクロゼットには、輿入れの際に持ち込んだらしいケープとドレスが数点しか入っていなかった。ケープには、修復された跡があった。
そして、部屋の奥にしまわれた衣装箱の中からは──切り刻まれ、修復された痕跡のあるドレスがいくつも見つかった。
丁寧に畳まれていたそのどれもが、私が彼女に贈ったものだった。
更に、ドレスと共に贈った宝飾品はひとつ残らず姿を消し、宝石箱は空だった。
(──エメロード……独りで、耐えていたのか?)
それらの、並べられた証拠の数々に私は立ち尽くした。押し寄せる感情を、もはや言葉にすることはできなかった。
寝台の脇の、机の上に置いていた一通の封書を取る。それは、開くことが出来ないでいた、彼女からの書簡だった。
震える指で封を切ると、繊細でやわらかな文字が並んでいた。
丁寧に綴られていたのは、贈り物への礼と、返事が遅れたことへの謝罪。
そして──
『皇帝陛下からの贈り物はあまりに勿体なく、大切にしまってあるのです』
視界がにじんだ──
その時、ほのかに漂ったのは甘く澄んだ香りだった。
ドレッサーの奥にしまわれていたという、白いレースのハンカチを開く。
包まれていたのは、割れた白薔薇の香水瓶だった。
(これも……壊されたのか……?)
浅くなった呼吸に、胸が苦しくなる。
割れた香水瓶をハンカチに包もうとしたとき、何かが転がり落ちた。
(これは、私が贈った──)
それは、小さなアクアマリンの欠片だった。
彼女に似合うだろうと選んだ、花と雫の形のネックレスとイヤリングを思い出す。アクアマリンで作られたそれは、水色のドレスに合わせて贈ったはずだった。
アウルムで仕立てさせたばかりのドレスによく似た、水色の──
『この生地を……リボンも、同じ色で』
『……あの色が、好きなのですわ』
アウルムでドレスを仕立てた日に見た、彼女の淡い微笑みが浮かんだ。
(気に入って、くれていたのか……)
「……エメロード」
掠れた声が、静まり返った寝室に落ちる。
(彼女は壊されても、大切に持っていてくれた……私は、全てを誤解していた……)
エドモンとアガタの報告書は続く。
五名の皇后付きの侍女たちは職務を怠り、食事もろくに世話していなかったという。
さらに、筆頭侍女を務めていたはずのエリーズ・リヴィエールが、密かに罷免させられていたことが判明した。
──『筆頭侍女の、エリーズが……』
ルベライトへ向かう道中、消えそうな声で彼女がそう言っていたことを思い出す。
エリーズ──彼女なら、エメロードの味方であったはず。
あの時、すぐに調べるべきだった。
(誰がドレスを切り刻んだ? 宝石を盗んだのも、同じ者か……?)
──すべては、私の咎だ。
これからは、私の出来うる限りで彼女を守ってみせる……。
「エドモン」
「お呼びでしょうか」
部屋の外から、エドモンが入ってくる。
彼はエメロードに一瞬だけ視線を向けると、瞳をわずかに伏せた。
「皇后付きの侍女をすべて集めろ」
発した声に、エドモンの肩がわずかに揺れた。
「……そして、エリーズ・リヴィエールが罷免された経緯を調べ、直ちに呼び戻せ」
「はっ!」
エドモンが静かに部屋を出て行く。
蝋燭の灯が揺れ、寝台の上のエメロードの顔を淡く照らす。
「エメロード……」
彼女の細い手にそっと触れる。まだひんやりとしているその手に、胸の奥がざわめいた。
──エメロードは、本当に目覚めるのか……?
その不安が、頭をよぎる。
もし、彼女が、このまま目覚めなかったら──
浮かんだのは、彼女の微笑みだった。
(……嫌だ……絶対に、失いたくない……)
「目を、開けてくれ……エメロード」
* * *
「エメロード……」
聞き覚えのある低い声が、遠い水面のように揺れていた。
「皇帝陛下……?」
そんなはずはない。
あの方は、私を『皇后』と呼んでいる。
(これは夢ね……私の、望む……)
それでも、私の心は暖かくなった。
「エメロード、目を開けてくれ……」
「皇帝陛下? 私はここにおりますわ!」
真っ白な中、私はあたりを見回す。
「全て、私が悪かったんだ……一生許さなくて構わない。お前が望むのなら、私は何でもする……」
私は、その言葉に立ち尽くした。
「頼むから、目を開けてくれ……」
泣きそうに紡がれたその声に、胸がひどく締め付けられる。
「皇帝陛下……」
どうか、泣かないで──
私は、声のする方へ向かって駆け出した。
* * *
右手を包む、温かな感触。
薄く目を開くと、美しい文様が淡く描かれた象牙色の天井が目に入る。見覚えのない天井だった。
(この、部屋は……?)
かすかな雨音が聞こえる。
ふと左を向くと、カーテンの隙間から淡い光が漏れていた。
(朝……なの? 暖かい……)
右手を包む温もりに、視線を向ける。
「皇帝陛下……?」
──まだ、夢の中なの……?
目を疑うような光景に、言葉を失う。
寝台の上にもたれ掛かり、私の右手を包んでいたのは皇帝陛下の手だった。
その顔は、どこかやつれて見えた。閉じられた白いまぶたに、白銀の髪が掛かっている。
──確か、私は階段から落ちて……。
(私は、どのくらい眠っていたの? ……まさか、皇帝陛下がずっとお傍に……)
そんなはずはないと思いながらも、握られた右手は熱くなった。
私は皇帝陛下を起こさぬよう、静かに上体を起こす──けれど、腕だけでなく全身に力が入らなかった。
「ん……」
私は、息を呑んだ。
皇帝陛下の淡い唇から小さな声が漏れ、長いまつ毛が震える。
見つめていると、ゆっくりとまぶたが開き──宝石のようなアイスブルーの瞳と、視線が交わった。
「──エメロード!」
気付けば、皇帝陛下の腕に包まれていた。強くはない──けれど離すまいとするかのような、力強く温かな腕。
(私の、名前を……)
初めて抱き締められ、呼ばれた名──心臓が早鐘を打ち、息が止まりそうになる。
(この香りは……皇帝陛下が、くださった……)
その胸元からかすかに香ったのは、覚えのある澄んだ白薔薇の香りだった。
広い胸板の感触と、気遣うように触れる手の温もりに、心臓がどうにかなってしまいそうだった。
「皇帝、陛下……」
「私がわかるか? エメロード……」
両頬にそっと触れたのは、大きく温かな手。
私が小さく頷くと、皇帝陛下は「本当に、良かった……」と絞り出すように呟いた。
再びその腕に包まれて、じわりと熱くなった胸が苦しくなる。
「──っ……すまない……痛かっただろうか」
体を離した皇帝陛下が、心配そうにこちらを見つめている。
アイスブルーの瞳に初めて真っ直ぐに見つめられ、私は声が出せなかった。
「すぐに医官を呼ぶ。食事も準備させよう。……エメロード、何が食べたい? 食べられそうなものを──」
そこで、皇帝陛下の言葉は止まった。
「いや……まずは、医官に確認してからが良いか……」
(まだ、夢を見ているのかしら……)
以前は氷のように感じられたその瞳は、やわらかな光を宿していた。逸らされてばかりだった視線は、私を真っ直ぐに見つめている。
私は、夢のようなその光景を、ただ見つめることしか出来なかった。
カーテンの外、雨上がりの空には淡い虹が架かっていた。
そして、目覚めたその日から、凍てついていた私の世界は暖かな色に染まり始めた──
次回、第二十一話「溶けた眼差しと変わっていく皇城(前編)」
※第二十一話は、前編・後編に分かれています。
1/19(月)の朝夕に投稿します。
読んでくださってありがとうございます!
ここから、ふたりの関係は大きく変わっていきます。
ぜひ、楽しんでいただけると嬉しいです。




