第十九話 失いたくないもの(後編)
※流血描写を含みます。
私とエメロードを乗せた馬車は、城下にある神殿へと走っていた。
腕の中の彼女の体温が失われていくようで、彼女を温めるように抱き締める。
「エメロード……」
彼女は、私の腕の中でぐったりとまぶたを閉じていた。頭に巻かれたばかりの包帯が、赤く染まっていく。
──あの鳥さえ、いなければ……。
浮かんだのは、玉座の間の奥に座する白い鳥の姿。
無意識に、噛み締めた奥歯が軋んだ。
サードニクスの皇城内では、治癒だけでなく、すべての魔術が使えなかった。それは、聖鳥オパリオスの聖なる結界の影響だと古くから云われていた。
包帯の赤が広がるにつれ、彼女の顔が青ざめていく。
「エメロード、もう少しだ。すぐに着くから……」
彼女を抱く手が震えた。
城内で治癒ができれば、もっと早く彼女を助けられたはずなのに──
(何が、帝国を守る聖鳥だ……)
窓の外を、城下の景色が流れていく。
民たちは皆明るい表情で春の陽射しを浴びているが、私の焦燥は募るばかりだった。
「まだ着かないのか……」
すぐに着くはずのその道のりが、永遠のように感じられた。
* * *
エメロードを神殿の治癒師に託し、私は控えの間で一人待っていた。
かすかな足音に、卓上で焚かれた香が揺れる。
「エドモンか……」
彼は、いつもの穏やかな表情を崩さず傍らに立った。だが、その丸眼鏡の奥の瞳は曇っている。
「エメロードは、大丈夫だろうか……」
囁くように呟いた言葉。
エドモンはかすかに息を詰まらせ、閉められた扉に視線を向けた。
「……あの御方は、聖鳥の皇后殿下ですから」
エドモンは、そう言ってかすかに微笑んだ。『きっと大丈夫』だと私に伝えたいのだろう。
“聖鳥の皇后”ならば、何故聖鳥は彼女を救わない?
皇城に治癒師がいないのは、あの鳥のせいだ。今の私は、あの聖鳥が憎くてたまらなかった。
だが、どこかに信じたい気持ちもあった。どうか、彼女を救ってほしいと──
「──!」
扉が開かれる音に、私は立ち上がった。
「皇帝陛下。皇后殿下を治癒させていただきました」
扉から出てきたのは、女性の治癒師だった。
案内された部屋の中、寝台の上でエメロードは静かに眠っていた。
蝋燭の光がその顔を淡く照らした。雪のように白い顔に、淡い薔薇の花びらのようだった唇は色を失くしている。
(エメロード……)
「傷はすべて治癒いたしました……ですが、出血が多かったご様子で、いつお目覚めになるかは……」
彼女の白い頬に触れようとした手を、思わず握り締めた。
「……皇后を救ってくれて、感謝する」
「恐れ多いことでございます」
治癒師は、深々と頭を下げた。
「それと──」
治癒師は一度、言葉を濁した。その視線が、わずかに伏せられる。
「その……傷は全て癒すことができましたが、お背中の傷跡は残っております……」
(傷跡……?)
顔を向けた私に、治癒師は戸惑うように視線を落とした。
「……残った傷は……どの程度だ」
「お背中の──その……鞭で打たれたような跡は、全て残っております……古傷のようで、治癒できませんでした」
静まり返る室内に、蝋燭が一つ、ぱちりと音を立てた。
(……鞭だと?)
胸の奥で、何かが凍り付いた。
何故彼女の体に、そんな跡が──
治癒師は、静かに続けた。
「そして、恐れながら……皇后殿下は随分お痩せになっておいでです。……滋養のつくものを、しっかりと召し上がっていただくべきかと」
(心配される程に、痩せていたのか……)
私は、何も返せなかった。
耳に届く言葉の一つひとつが、胸を重く打った。
(……鞭の痕。誰が、なぜ……この穏やかな彼女に──)
「……このことは、他言無用で頼む」
そう低く告げると、治癒師は深く頭を下げ、部屋を後にした。
(初夜を共にしていれば、もっと早くに傷跡に気付くことができたはずだ……それに、彼女が城の者たちに侮られることもなかったはず……)
エドモンの話では、皇后が倒れていたにも関わらず、誰も医官を呼んでいなかったという。
使用人たちに囲まれ、血を流しながら倒れていた彼女の姿を思い出し、怒りに手が震えた。だが、その怒りが彼らに対するものなのか、私自身への憤りなのかはわからなかった。
──何故、エメロードは階段から落ちた? 傷跡は、いつのものだ……?
不意に、ルベライト訪問の際に随行していた黒髪の侍女の姿が浮かぶ。あの時、エメロードは耳の後ろの傷を隠そうとしていた。
(傷跡についてエメロードに尋ねるわけにはいかない……思い出すのは、辛いはずだ)
私は、部屋の外に控えていたエドモンを呼んだ。
「皇后の周囲を──皇后付きの侍女たちを全て探れ。今まで誰が何をしていたか、全てだ。アガタにも伝えろ……それと、皇后が転落した時に周りにいた者たちを全て、一人残らず調べろ」
「はっ」
エドモンが出ていくと、部屋に静けさだけが残った。
私はただ、眠る彼女の顔を見つめていた。
青ざめた白い頬。
知らなかった、その背に負っていた傷跡。
──『皇后殿下の傍に、必ず近衛騎士を置いてください!』
冬の終わりに、カミーユが叫んだ言葉が脳裏に響く。
あの男は、ただ皇后の身を案じて──
「私の、せいで……」
小さく漏らした声は、静寂に溶けて消えた。
初めてエメロードが来たあの日から、私は彼女から目を逸らし続けてきた。
その結果が、これだ──
(エメロード……)
人形のように横たわる彼女の姿に、目の奥が熱くなる。
その金の髪に伸ばした指が震えた。
触れることもできないまま、私は手を握り締めた。
「……すまない……」
その掠れた声は、自分でも聞き取れないほどに小さかった。
凍りつき、ひび割れた胸の奥──何かが溶けていくようだった。
私は、懐から一通の書簡を取り出した。
執務机の引き出しにしまったままだった、あの日、彼女から送られた書簡。
窓の外では、雨が静かに降り始めていた。
降り注ぐそれが──大声で泣くこともできない、愚かな自分の涙のように思えた。
その雨音の向こうで、春の風がひとひらの淡い花弁を揺らしていた。
次回、第二十話「初めての温もり」
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