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第十九話 失いたくないもの(前編)

※流血描写を含みます。

 ルベライトでの外交から戻って一週間程が経ち、帝都はすっかり暖かくなった。

 春を告げる風が、皇城の庭園を彩る淡い色の花々をやさしく揺らしていた。


(もう、ほとんど治ってきたみたいだわ……)


 ドレッサーの前で、耳の後ろの傷に軟膏を薄く塗る。もう痛みはなく、触れた違和感も小さくなっていた。

 白磁の蓋を閉めると、そっと手のひらに乗せて指先で触れる。


『困ったことがあれば、いつでも言ってほしい。……どんな小さなことでも良いから』


 アウルムの街で、皇帝陛下がかけてくださった言葉。思い出す度に、胸が暖かくなる。


(でも、何と申し上げれば良いの……? 皇帝陛下は、どう思われるかしら……)


 皇后であるはずの私の侍女たちは、部屋に来ることはほとんどなくなっていた。彼女たちは、たまに食事を持ってきたかと思うと、視線も合わせずに部屋を去っていく。

 何故か、このことを皇帝陛下に知られたくはなかった。


(こうして気に掛けていただいた……それだけで十分よ)


 引き出しを開けると、ハンカチに包んだ香水瓶の隣に、白磁の器をそっと置いた。


 * * *


 私は、皇帝陛下の勧めもあって北棟の図書室に通うようになっていた。


(また、お会いできるかしら……)


 昨日の午後は偶然に皇帝陛下もお見えになって、とても驚いた。城に戻ってからは滅多に会えないだろうと考えていたから、とても嬉しかった。


 そう考えていたとき、巡回している近衛兵に一礼され、私は微笑んだ。

 どこか寂しく感じられる西棟と違って、この北棟は何故か明るく感じられた。


 廊下を歩いている途中、壁の絵画に目が留まる。それは、ネモフィラの花畑のようだった。傍らに置かれた花瓶には、淡い青色の花々が飾られている。


(素敵な絵だわ……皇帝陛下がお選びになったのかしら)


 北棟は淡い色に彩られていた。まるで、この新しい季節を祝福するかのように感じられた。


 まとうドレスが、その色に合わせたかのようで、少し気恥ずかしくなる。けれど、水色の裾が揺れるたびに、不思議と胸が高鳴った。

 アウルムの街で、皇帝陛下が仕立ててくださったドレス──それに袖を通したのは、今日が初めてだった。


 廊下の鏡に自分の姿が映り、ふと立ち止まる。


(やっぱり……冬に贈ってくださったドレスに、よく似ているわ……)


 ──あの日切り裂かれ、着ることのできなかったドレス。それらはすべて、部屋の奥の衣装箱の中に眠っている。


(皇帝陛下からいただいたものは、すべて宝物だわ……)


 私は、新しいドレスの胸元に飾られたリボンにそっと触れた。

 胸元に揺れるアイスブルーダイヤが、窓から差し込む光を受けて煌めいている。 


 ──『……よく、似合っている』


 そう言ってかすかに微笑んだ皇帝陛下を思い出し、そっと薄青の宝石に触れた。

 ひんやりとしたその冷たさが、不思議と温かく感じられる。


(これは、一番の宝物……)


 微笑んだ私はそっと宝石を握り、再び歩き出した。

 そのとき、階下からヒールの音が響いた。

 顔を向けた瞬間、階段を上ってきた令嬢と視線がぶつかる。


 ローズ・サーペンタイン──華やかな装いの彼女は、まるで息を潜める獣のように黙ってこちらを見つめていた。

 その視線が、私の胸元に落ちる。


「……それは、わたくしのものよ」


 囁くように何かを呟いた彼女に、私は息を呑んだ。

 その異様な雰囲気に思わず後ずさると、彼女は勢い良く手を伸ばしてきた。その手が一瞬の内に宝石を掴み、鎖が引き千切られた。


「何をなさるの?!」

「これは、あなたには相応しくありませんわ」


 笑いながらぶつけられた言葉は、胸に突き刺さるようだった。

 だが、彼女の瞳には怒りよりも、何かを失った者のような焦燥が宿っていた。


(この方には関係ないわ……皇帝陛下からいただいた、大切なものだもの──)


 「返してください!」と私は彼女に引き千切られたネックレスを取り返した。

 再び伸ばされた手から、奪われないように宝石を必死に握り締める。


 そのとき、一瞬時間が止まった気がした。


「あっ……」


 次の瞬間──足元がふいに浮いた。


 掴もうとした手すりを指がかすめ、視界が階段を映す。


(──あぁ、落ちる……)


 見開かれた煉瓦色の瞳。

 握り締めていたアイスブルーダイヤの白銀の鎖が、光の粒となって視界をかすめた。


(皇帝陛下──)


 かすかに微笑んだ、あの瞳が浮かんだ──


 全身を衝撃と痛みが襲い、響く甲高い悲鳴の中で世界は音を失い、暗闇に沈んだ。


 * * *


 馬車を降りた私は、西棟の二階を見上げた。


(──彼女は、喜んでくれるだろうか……)


 ネックレスを贈ったときの、可憐な微笑みを思い出す。


 ルベライトから戻ってすぐ、北棟の模様替えをさせた。淡い色を好む彼女のために──いや、彼女の喜ぶ顔が見たかったからだ。


(今は、どこで過ごしているのか──)


 昨日、図書室で会った彼女を思い出す。

 私が姿を見せたとき、目を丸くしていた。


(──あの表情も、可愛らしかったな……)


 思わず笑みがこぼれたとき、扉の前にいた兵と目が合った。


「失礼致しました!」


 そう言って一礼され、顔がわずかに熱くなる。


(また、図書室にいるかもしれない……先に覗いてみるか)


 外出先で求めた菓子の入った包みと花束を手に、兵に開かれた皇城の扉をくぐった。


(何だ……?)


 城に入ると、異様な光景が広がっていた。ホール中央の階段を囲むように、大勢の侍女や使用人たちが集まっていたのだ。


「一体、何があった」


 近付いた私に、集まっている者たちが視線を伏せながら慌てて道を開ける。

 衣擦れの音や息遣いが入り混じり、空気が凍り付いた。


「っ……」


 花束と包みが落ち、淡い花びらと飴菓子が散らばった。


 そこには、彼女が倒れていた。

 淡い金の髪と、アウルムの街で仕立てさせたばかりの水色のドレスの裾が青い絨毯に広がっている。


「エメロード……?」


 初めて呼んだその名が、喉の奥からこぼれた。それは、自分でも驚くほどにかすれ、震えていた。


「エメロード、どうしたんだ」


 落とした花束を拾うことも忘れ、彼女へと近付く。

 淡い薔薇色だったはずのその頬は、雪のように白かった。


(貧血でも、起こしたのか……?)


 だが、声を掛けて触れても、彼女の閉じられた白いまぶたは、わずかにも動かなかった。


 ──何故、動かない? ……まさか──


 私は階段を見上げた。

 だが、もしそうであれば、皆もっと騒いでいるはずだ。


「医官は来ないのか? 何故皇后は倒れている!」 


 周りを囲む者たちはうろたえて視線をさまよわせるばかりで、何も答えなかった。

 その時、握られた彼女の手からこぼれるように、白銀の鎖が光っているのに気付く。


(これは……)


 細い手で固く握り締められていたのは、アイスブルーダイヤだった。それが、自分の贈ったものだと気付いた瞬間、胸の奥に、言葉にならない痛みが走った。


(ネックレスを奪われそうになったのか? どうして、倒れているんだ……)


 心臓が早鐘を打った。

 震える腕で彼女を抱き起こすと、ぐったりと下がった頭から金の髪が流れた。

 その光景に、息が止まった。


 青い絨毯は、血に染まっていた──


「エメロード!」


 返事はない。それでも、その名を呼ばずにはいられなかった。


(医官は──いや、それでは間に合わない……!)


「皇帝陛下?」


 掛けられた声に振り返ると、そこにはエドモンが立ち尽くしていた。


「皇后殿下?! 一体、何が……」

「馬車を手配しろ! 今すぐに!!」


 全力で駆け出したエドモンの背中を見送り、彼女の体を守るように抱き寄せる。想像よりも細く軽い体は、まるで人形のようだった。


(……私はまだ、何も伝えられていない──)


「エメロード、目を開けてくれ……」


 かすれた小さな声に、返事はなかった。

次回、第十九話「失いたくないもの(後編)」

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