第十八話 瞳の色の宝石(後編)
※長めのお話です。
宝飾店の前、停められたままの馬車の中。
皇帝陛下が小箱から取り出した白磁の器をそっと開けた。中に入っていたのは、白い軟膏だった。
「神殿で作られたものだ。これで、良くなるはず……」
皇帝陛下は手袋を抜き取ると、軟膏を指に取った。
「皇帝陛下が、塗ってくださるのですか?」
私は思わず、そう言っていた。
「ああ。他に誰が塗るんだ」
当然のように、そう仰った皇帝陛下。
アイスブルーの瞳を見つめると、合った視線は少しだけ伏せられた。
「……傷を見せてくれ」
「はい……」
私は、傷が見えるように皇帝陛下から顔を逸らした。
けれど、沈黙だけが流れる。
「皇帝陛下……?」
「あ……すまない、その……傷を、確認していた」
「ありがとうございます」
耳の後ろに、指がそっと触れた。
「痛くはないか」
「はい……」
(嬉しい……こんなにも、気遣ってくださるなんて)
胸が高鳴り、私は重ねた自分の手をそっと握った。
感じるのは、恥ずかしいようなくすぐったさと、暖かな心地良さ。サードニクスに来て──いや、生まれてから初めて感じる、不思議な気持ちだった。
(この気持ちは、何というのかしら……)
白磁の蓋が閉められる、小さな音が響いた。
「これで良い。……城に戻ってから、医官に見せよう」
「ありがとうございます。ですが、もう大丈夫ですわ」
「だが……」
「きっと、すぐに良くなります」
そう言って微笑むと、皇帝陛下の頬がわずかに赤くなった。
「そうか……では、これを──皇后に、渡しておこう」
「困ったことがあれば、いつでも言ってほしい。……どんな小さなことでも構わないから」
そう言って差し出された白磁の小さな器。
手のひらに乗せられたそれはひんやりと冷たいのに、私の心はとても暖かかった。
* * *
動き出した馬車。窓越しに流れるのは、賑やかなアウルムの街並み。
程なくして、王都一だと評判の仕立屋の前で馬車は停まった。
「ようこそおいでくださいました」
ずらりと並んでいたのは、同じ黒の衣装を身に着けた店員たち。
案内された店内には象牙色の絨毯が敷かれ、美しいドレスが並んでいた。棚に納められた、色とりどりの生地やリボンに胸がときめく。
「どのドレスが良い?」
皇帝陛下に促されて、私は並ぶドレスの前へと進み出た。
(こうしてドレスを仕立ててもらうなんて、初めてだわ……)
どれも、素敵なドレスばかりだった。
手をそっと握り締めた私は、一着のドレスに目を留めた。
(この、ドレスは……)
その青色のドレスは、冬に皇帝陛下が贈ってくださった水色のドレスによく似たデザインだった。胸元と袖元、裾にも細いリボンがあしらわれている。
「……それが、気に入ったのか」
「はい」
「そのドレスを」
「かしこまりました」と微笑んだ店員の女性が色とりどりの生地を並べる。
「どの生地でお仕立ていたしましょうか」
(この色だわ……)
あのドレスと、よく似た色の生地を見つけた。
「この生地を……リボンも、同じ色で」
「かしこまりました」
店員が、私の選んだ生地とリボンを店の奥へと運んでいく。
振り返ると、皇帝陛下は私の選んだドレスをじっと見つめていた。
(似たようなドレスを選んで、おかしく思われたかしら……)
私は、小さく息を呑んだ。
「皇帝陛下……?」
「ああ……次は、どれが良い?」
私は、皇帝陛下を見上げた。
「まだ、一着しか選んでいないが」
その言葉に、胸が苦しくなる。
「一着で良いのです……十分ですわ」
私は、皇帝陛下にお礼を言った。
皇帝陛下から新しく仕立てていただいても、またあのときのように着られなくなるかもしれない──
私は、それが恐ろしかった。
* * *
ドレスの仕立てを依頼した後、私たちは帰国する前にアウルムの中心街にある宿で休憩を取ることになった。
貸切のラウンジには優美な弦楽が流れ、ほのかな紅茶の香りが漂っていた。
案内された丸いテーブルには、珊瑚色のクロスが掛かっている。私が皇帝陛下の向かいの席に腰掛けると、ティーセットや焼き菓子が並べられた。
視線の先。紅茶のカップにかけられたその長い指に、馬車の中で耳に触れた指先の温かさを思い出す。
(とても、お優しい方……)
思い出すだけで、胸の奥がじわりと暖かくなる。
(でも……どうして初めてお会いした時も、婚礼の儀でも……目を合わせてはくださらなかったのかしら……)
──初夜も、その後も、皇帝陛下は会いに来てはくださらなかった。
こんなに気遣ってくださるお優しい方なのに、何故……。
そんな、聞けるはずもない疑問が頭の中で螺旋のように巡る。
「……あのドレスで、良かったのか」
不意に落とされた低い声。
皇帝陛下からの問いかけに視線を向けると、アイスブルーの瞳がわずかに伏せられた。
「ええ。……あの色が、好きなのですわ」
「だが……今着ているドレスも、似たような色だろう」
低く落とされた言葉に、胸にかすかに靄が掛かる。
「……似合わないでしょうか」
小さく問うと、皇帝陛下が顔を上げた。
「そんなことはない。とてもよく似合うはずだ……今着ているドレスも、似合っているから」
「皇帝陛下……」
どこか恥ずかしいような、嬉しい気持ち──私は少しだけ、胸が苦しくなった。
微笑みかけると、皇帝陛下は再び俯いて紅茶を口にした。
「……甘いものは好きか」
「ええ。好きですわ」と頷いた私の前に、焼き菓子の並んだ器がそっと差し出される。
「好きなだけ食べると良い」
「こんなにいただけませんわ……ですが、ありがとうございます」
焼き菓子の一つを口にすると、皇帝陛下が再び紅茶のカップを取った。
侍従が、新たな紅茶を皇帝陛下の前に並べる。
(皇帝陛下は、紅茶がお好きなのね……甘いものは、あまりお好きではないのかしら)
焼き菓子にはほとんど手を付けずに、紅茶ばかりを口にされる皇帝陛下を、私はそっと見つめた。
アイスブルーの瞳がこちらをちらりと見て、私は少しだけ恥ずかしくなった。
「その……普段は、何をして過ごしている」
「本を読んでおりますわ」
「そうか……」
皇帝陛下は新しい紅茶を手にした。
侍従の手で、空になったカップが下げられる。
「北棟の図書室には来ないのか」
「えっ……?」
「いや……北棟の方が、蔵書も多く……」
「……私が、行っても良いのでしょうか」
そう問いかけると、少しだけ沈黙が流れた。
「勿論だ。皇城の中で、皇后の行けぬ場所はほとんどない」
その言葉に、私は何と返してよいか分からなかった。
「その……いつでも、好きな時に行くと良い」
「ありがとうございます」
「場所がわからないだろう。侍女に──いや、私の侍従に案内させよう」
「皇帝陛下のお心遣いに、感謝いたします」
静かで、いつになく穏やかな時間が流れる。
(もう、過去のことを考えるのはやめましょう。……こうして、お話できるようになって嬉しいもの)
私の胸は、暖かさに包まれていた。
心を凍らせたあの日のことは、もう思い出したくはない──
けれど、この胸の奥で、どうしても引っかかっていることがあった。
ふと視線を上げると、店内に張られている大きな鏡が目に入る。それには、店内が広く映し出されていた。勿論、皇帝陛下と私の姿も──
『ご自身でも分かっていらっしゃるでしょう? 相応しくないと』
あの日、サーペンタイン公爵家の令嬢から言われた言葉を思い出す。それは、胸の奥深くに棘のように残っていた。
私は、小さく息を吐いた。
窓の外に視線を向けると、居並ぶ騎士たちの向こうに賑やかな繁華の通りが目に入る。笑顔と活気に満ちたアウルムの街に、心が少しだけ奮い立つように感じた。
私は、胸の内に抱え続けていた一つの疑問を口にすることにした。
「あの、皇帝陛下……」
「どうした」と視線を向けてきた皇帝陛下を、そっと見つめ返す。
「……皇帝陛下は、サーペンタイン家のご令嬢とは、その……」
私の言葉に顔を上げた皇帝陛下の顔は少し険しく、瞳は鋭さを帯びていた。
紅茶のカップが置かれ、かすかな音が響く。
「サーペンタイン家の令嬢がどうした。……まさか、何かあったのか」
その言葉に、胸がちくりと痛んだ。
(やはり、お二人には何か……)
私は、震えそうな唇を開いた。
「皇帝陛下は……サーペンタイン家のご令嬢を、皇后に望まれていたのですか」
小さく問いかけた言葉。私は、震える手をそっと握りしめた。
返ってこない返答に顔を上げると、皇帝陛下の揺れる瞳がこちらを見つめていた。
「まさか……私は、皇后を望んだことなどない。サーペンタイン公爵の娘は皇后候補だっただけで、何の関わりもない。何か、誤解をしているようだが……」
弦楽の音が遠くなった。
──『皇后を望んだことなどない』
耳に残る、皇帝陛下の言葉。
返す言葉を失くした私は、ただ俯くことしかできなかった。
「皇后……?」
(サーペンタイン家のご令嬢は、皇后として望まれていなかった……けれど、それは私も……)
あの令嬢が皇帝陛下に望まれていなかった事実に安堵しながらも、新たに胸の内に掛かった靄に胸が重く沈む。
遠く、美しい弦楽の調べだけが、私たちの間を流れていく。
(聞かないほうが、良かったわ……)
胸がひどく苦しかった。
私は顔を上げることができないまま、カップの中でかすかに揺れる紅茶を見つめていた。
「皇后、私の言い方が悪かった」
焦ったような響きの、皇帝陛下の声。
「私は、皇后を迎えたことを……良かったと思っている」
「──その……信じてはもらえないかもしれないが……」と小さく紡がれた言葉に、こわばっていた心が少しずつほどけていくのを感じた。
「皇后……」
皇帝陛下の声に視線を上げると、不安げに揺れる瞳がこちらを見つめていた。
「皇帝陛下のお言葉を、信じますわ」
そう言って微笑むと、揺れていたアイスブルーの瞳に柔らかな光が差し込んだように見えた。
* * *
帰りの馬車の中、窓の外に流れるアウルムの街並みは柔らかな夕陽に照らされ薄紅に色づいていた。
エメロードは胸元のアイスブルーダイヤにそっと触れながら、静かに外の景色を眺めていた。その淡い薔薇のような唇には、かすかな笑みが浮かんでいる。
(皇后は、宝石もドレスも一つしか望まなかった……何故だ?)
アズールの胸の内では、湧き上がる疑問が渦巻いていた。
(選んだドレスは、私が前に贈ったものによく似ていた……それも、同じような色で仕立てを──)
──ならば何故、あのドレスを着てくれないのだろうか……。
対面に座るアズールは黙していたが、不意に口を開く。
「以前、私が贈ったドレスは……気に入らなかったか」
その言葉に、エメロードの手がぴくりと震えた。彼女は俯き、ほんのわずかに唇を噛んだ。
その沈黙を、アズールは後悔とともに受け取った。
「……いえ、そのようなことは」
「では、なぜ──」
アズールは言いかけた言葉を飲み込む。
今朝と同じように、こわばってしまった彼女の表情。
なぜ、自分は彼女の笑顔を失うことをこんなにも恐れているのか──だが、先ほどまで淡く浮かんでいた幸せそうな微笑みが消えてしまったことに、胸がひどく苦しかった。
(聞くべきでは、なかった……私は何をやっているんだ……)
アズールは膝の上の手を握り締めた。
ふたりの間に、沈黙が落ちる。ただ、馬車の車輪の音だけが響いていた。
(皇后は、何故あんなにも悲しそうな顔を……)
その問いが、胸を離れなかった。
アズールの胸の奥に、得体の知れない痛みが残った。
──揺れる馬車の中。彼女の胸元で淡い青の宝石が、夕陽を受けて静かに煌めいていた。
それは、氷の皇帝の心に知らぬ間に灯った、暖かな光でもあった。
静かなひと時に、近づき始めた二人の距離──
やがて訪れる想像もつかぬ出来事が、彼の胸を深く揺さぶることを、まだ誰も知らなかった。
次回、第十九話「失いたくないもの(前編)」
※第十九話は、前編・後編に分かれています。
1/14(水)の朝晩に投稿します。




