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第十八話 瞳の色の宝石(前編)

※少し長めのお話です。

 翌朝。目を覚ますと、まだ部屋は薄暗かった。


(皇帝陛下は、まだお休みかしら……)


 私はそっと起き上がると、まだ暗い窓辺を見つめた。


(せっかく早く休んだのに……あまりよく眠れなかったわ……)


 今日の外交の席に備えて、昨夜は早く休んだが、夜中過ぎに目を覚ましてからは中々眠れなかった。


(緊張のせい、かしら……それとも──)


 昨日のことを思い返す。


『疲れてはいないか』


 馬車の中、初めて掛けられた言葉。

 その声は硬かったけれど、気遣っていただけたことがとても嬉しかった。


(今日はもっと、お話できるかしら……)


 アジュリットの湖畔で見た、アイスブルーの瞳──

 初めて視線が合ったとき、私は息をすることも忘れそうだった。


(皇帝陛下……)

 

 その時、小鳥たちのさえずりが響いた。


(いけない……早く支度をしないと)


 同行している侍女は、ノワールだけだ。

 静かに立ち上がると、私はクロゼットを開ける。中から、淡い光沢が美しい薄青のドレスをそっと取り出した。唯一私の手に残された、皇帝陛下からの贈り物──


(これだけは、絶対に失いたくないもの……)


 ノワールには、絶対に触れさせたくない。

 何故か、強くそう思った。


 * * *


 私が目を覚ますと、皇后は既に支度を済ませていた。

 昨日とは違う──薄青の絹のドレスが、朝の光を受けてほのかに輝いている。春が来る前に贈ったそのドレスの色は、私の瞳の色に似ていた。


(……着てくれたのか。いや、私と行動を共にするから、仕方なくか)


 そんな理屈を心の中で並べながらも、胸の奥ではかすかな喜びがにじんでいた。

 それを打ち消すように、私は彼女に尋ねた。


「……耳の傷は、痛まないのか」


 皇后は一瞬、驚いたように目を見開き、すぐに俯いた。細い指先が、髪で隠すかのように左耳の後ろへ触れる。


「これは……自分で、引っ掻いてしまって……」


 囁くような、小さな声。


「侍女に手当てをさせよう」

「お待ちください!」


 焦ったように声を上げた彼女の肩は、小さく震えていた。

 その声には、恐れにも似た響きが感じられた。


「……私は、大丈夫ですから」


 彼女は小さく微笑んだ。それは、痛々しいほどの淡い笑みだった。

 再び逸らされた視線に、何故か胸が締め付けられる。


 そのとき、ノックの音が響き、彼女の肩が小さく跳ねた。


(皇后……?)


 扉の向こうから、侍女の淡々とした声が届く。


「お支度のために上がったのですが……私は必要ないようですね」


 開かれた扉から現れた黒髪の侍女に、皇后はかすかに微笑む。


「ええ……いつも、ありがとう」


 ぎこちなく発されたその言葉に、侍女の黒い瞳がわずかに細められた。


(皇后は……まさか、一人で支度を?)


 言葉が喉まで出かかったが、飲み込んだ。

 何故だか、その先を問えば彼女の微笑みが消えてしまう気がした。


「……名は、何という」


「え……?」


「名乗れ、と言っている」


「あ……大変失礼を致しました。私はノワール・ブリュネと申します」


 黒髪の侍女はそう名乗ると、深く頭を下げた。

 その体は、わずかに震えている。


(この侍女……私と皇后ではあまりに態度が違いすぎる)


 感じた違和感に、胸がざわめいた。


「もう下がって良い」

「は、はい……」


 侍女が立ち去った部屋は、ひどく静かだった。


「皇帝陛下……」


 小さく囁くように呼ばれ、私は振り返った。

 翠玉の澄んだ瞳が私を見上げていた。だが、昨日とは違って、どこかすがるような弱々しさが感じられる。


「大丈夫か」


「……はい」


 彼女はそう言うと、視線を落とした。


「……あの侍女は、辞めさせるか」


「え……?」


 彼女が顔を上げた。


「あれは……皇后付きには向いていないようだ。新しい侍女と入れ替えよう」


 彼女は瞳を揺らすと、考え込むように視線だけを落とした。


「皇后……?」


「皇帝陛下のお心遣いに、感謝いたします」


「ああ。城に戻ってからになるが、構わないか」


 彼女は、「はい」と小さく頷いた。

 だが、それから彼女は黙ったまま、考え込んでいる様子だった。


「あの、皇帝陛下……」


「どうした」


「その……侍女はそのままで、大丈夫ですわ」


 その声は、かすかに震えていた。

 俯いた彼女の瞳は、もう見ることができない──


(何故だ? ……私は、どうすれば良い──)


 『体調は平気か? 外交の席は控えたほうが良いだろうか』──昨夜から考えていたその問い掛けは、ついにできなかった。


 * * *


 ルベライト王国の首都アウルムの石造りの街並みは、陽光を反射して白く眩しかった。

 ルベライトの王城。各国の代表たちが集う広間で、アズールは冷徹な面持ちで座に並んでいた。


 隣に座るエメロードは一言も発しなかったが、控えめな微笑みを絶やさず、彼女の穏やかな所作が張り詰めていたはずの場の空気を柔らげていた。

 多くの視線が注がれたときも、彼女は静かな品位を保っていた。だが、その細い指先はわずかに震えていた。


(緊張しているのか……負担をかけてしまったな)


 その姿を横目で見たアズールは、どこか胸の奥が締めつけられるような感覚を覚えた。


(今朝も元気がなかった──帰りに、姫君の好みそうな場所へ……いや、先に休憩をさせるべきか……)


「皇帝陛下……」


 エメロードの囁き声に、アズールは我に返る。


(……まずい。つい考え事を──)


「遅れてしまい、失礼を……」


 向かい側から、低い声が響いた。

 視線を上げた先で、新たに席に着いた男と目が合う。薄く微笑んでいたのは、白金の髪に赤い瞳の男だった。


(グロッシュラーの皇帝か……)


 その瞳が、自分ではなくエメロードを捉えていると気づいた瞬間――アズールは、無意識にエメロードの背に手を添えていた。


 ──外交の席は、控えさせるべきだった……。


 胸の奥で渦巻く不快なざわめきに、何故か彼はそう感じていた。


 * * *


 外交の席を終えてから、二人はアウルムの街の中央通りに並ぶ宝飾店に立ち寄った。

 赤い絨毯が敷かれ、至る所に金の装飾が施された美しい店内には、数多の宝石が光を散らしている。


「皇后。好きなものを選ぶといい」


「ですが……」


「どれでも良い。いくつでも構わない」


 アズールの言葉に、エメロードは翠玉の瞳を揺らした。

 静かに見つめるアイスブルーの瞳に、彼女は戸惑いながらもガラス越しに並ぶ宝石に視線を滑らせる。


 翠玉の瞳に映ったのは、氷のように澄んだ薄青の宝石──アイスブルーダイヤのネックレスだった。雫をかたどったその美しい宝石は、他のどの宝石よりも輝いて見えた。


(とても綺麗な宝石……皇帝陛下の瞳の色に似ているわ……)


「……これを」


 彼女が小さく指を差した瞬間、店主の目が輝いた。


「こちらは、希少なアイスブルーダイヤでございます。皇后殿下は、皇帝陛下の瞳の色をお選びに……」


 その言葉に、瞳を伏せたエメロードの頬が淡く染まる。

 アズールは短く息を呑み、すぐに視線を逸らした。


(偶然だ……彼女が、私の瞳の色など気にするはずがない)


 そう思いながらも、胸の奥に熱が灯る。


「お包みいたしますね」

「いや、ここで付けよう」


 店員からネックレスを受け取ったアズールは、戸惑いの眼差しで見上げるエメロードの背後に立った。

 彼女の付けていたサファイアのネックレスをそっと外すと、求めたばかりのネックレスを付ける。金の髪から覗く雪のように白く細い首筋に、思わず息を止めた。


「皇帝陛下、ありがとうございます……」


 振り返ってはにかんだエメロードに、アズールの瞳がわずかに見開かれる。

 見上げてきた、翠玉の澄んだ瞳。

 アズールは一瞬見惚れると、視線を落とした。


「……よく、似合っている」


 自分の贈ったドレスの胸元に、大粒のアイスブルーダイヤが煌めいている。

 先程掛けられた店員の言葉と、彼女の染まった頬を思い出し、アズールの胸には知らない感情が湧き上がった。


 ──もっと、彼女の喜ぶ顔が見たい。


「他に、欲しい宝石はないか? 遠慮せずに言ってほしい」


 その言葉に、エメロードは瞳を揺らした。


「いえ……他に欲しいものは、ありませんわ」


 その儚げな笑みに、アズールはわずかに息を詰まらせた。


「そうか……それでは、ドレスを仕立てに行こうか。皇后の気に入るものを」


「皇帝陛下……感謝いたします」


 微笑んだエメロードに、アズールは瞳を揺らすと視線を落とした。


(ここへ連れてきて、良かった……)


 笑顔を見せたエメロードに、アズールは心から安堵した。

 彼女の背にそっと手を添えると、宝飾店を後にする。


 アズールが外に出ると、待っていた侍従が一人進み出た。その手から、白い小箱が差し出される。


「皇帝陛下、ご所望の品をお持ちいたしました」

「ああ……ご苦労だった」


 侍従が下がると、アズールがエメロードに近付いた。


(皇帝陛下……?)


「皇后、手当てがまだだったろう。遅くなってすまなかった」


 低く囁かれた言葉に、エメロードは顔を上げた。

 揺れる翠玉の瞳が、アズールを見上げる。


「すぐに塗った方が良い。……馬車の中でも良いだろうか」


「……皇帝陛下、ありがとうございます」


 エメロードは、淡く微笑んだ。すぐに伏せられたその瞳は、潤んでいた。

 アズールに手を取られ、エメロードは馬車へと乗った。二人が乗り込んだ馬車の扉が、侍従の手でそっと閉められる。


 その様子を、ノワールが冷たい瞳で見つめていた。

次回、第十八話「瞳の色の宝石(後編)」


※夜8時過ぎに投稿予定です。

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