第十七話 初めて交わす視線
──春を告げる風が、遠い丘を渡っていた。
サードニクス帝国の南方に位置するルベライト王国の首都アウルムへ向かう皇帝一行の馬車が、ゆるやかな坂道を進んでいく。
皇帝アズールを載せる馬車には、皇后であるエメロードも同乗していた。
外交のためとはいえ、サードニクスにおいて皇后が同行するのは異例のことだった。しかし今回は、アズール自らが皇后も同行させることを決めた。
外聞のためか、それとも別の理由かエメロードには分からなかった。
だが、これは先日皇帝に宛てた書簡を見てくれた結果なのかもしれないとエメロードは思った。
濃紺に銀糸で縁取られた豪奢な馬車の中は、静寂に包まれていた。
アズールは書簡を読んでいたが、視線は紙面に落ちていない。
向かいに座るエメロードは、窓辺のレースを指でそっとなぞりながら外の景色を眺めている。
その横顔に、淡い光が差していた。
(──こんなにも、静かな姫君だったのか……)
ふと視線を上げたアズールは、自分の胸の奥にわずかな痛みを覚える。
あの雪の日に窓辺から見た、子どもに向けられた温かな笑顔。あれが夢だったのかと思うほどに、今の彼女の顔は物言わぬ人形のようだった。
初めて共に過ごす時間。
けれど、彼女はどんな臣下よりも遠く感じられた。
「……疲れてはいないか」
長い沈黙を破って、低い声が落ちる。
エメロードは小さく肩を震わせ、はっと顔を上げた。
「い、いえ……皇帝陛下こそ、お疲れでは……」
控えめな声が車内に溶けて消える。
「……私は慣れている」
アズールは短く息を吐き、視線を逸らしたまま書簡を読み始めた。
言葉を交わしたのは、それだけだった。
それが二人にとって、初めての会話だった。
* * *
軋むような車輪の音が、砂利道に小さく響く。
その音を聞いたとき、遠くの馬車に乗る黒髪の侍女──ノワールの姿が浮かんだ。
彼女は、ルベライトへの同行が決まった途端、再び私の部屋を訪れるようになった。
今朝の支度で彼女に髪をとかれたとき、左耳の後ろをかすった痛みを思い出し、私はわずかに身を固くした。彼女は謝りもせず、その黒い瞳は鏡越しに私を冷たく見つめていた。
(よりによって、あのノワールがついてくるなんて……)
ノワールは、初夜を独りで過ごした私を、皇帝陛下の御心に入れていない皇后だと嘲笑った侍女だ。
あのときに庇ってくれ、ずっと寄り添ってくれていたエリーズを思い出し、膝の上で手を握り締める。
その小さな動きに気づいたのか、皇帝陛下が一瞬だけ眉を寄せた。
「……どうかしたのか」
「あ……いえ、筆頭侍女の、エリーズが……」
「筆頭侍女がどうした」
私は思わず口ごもる。それ以上、何と言えば良いのかわからなかった。
「いえ……何でもありませんの」
そう言って俯く。
皇帝陛下の視線を感じたが、私は顔を上げることができなかった。
* * *
昼下がり、一行はサードニクス南方の湖の畔で休息を取った。
アジュリット湖と呼ばれるその湖には、澄んだ青が広がっていた。
馬車から降りたエメロードは、美しい湖面を見つめている。若葉色のドレスの裾を少しだけ持ち上げて、湖に静かに歩み寄った。
(何て美しい湖なの……夢のような景色だわ)
湖の向こうには、つたに覆われた古びた塔のような古城が見えた。
かつては誰かの居城だったのか、いまは静かな廃墟となっているように見える。
それでも、陽に照らされた石壁がどこか懐かしく感じられ、エメロードは思わず見惚れていた。
(素敵……まるで、おとぎ話に出てくるお城のよう)
春の陽射しが水面を撫で、二羽の白鳥が羽を寄せ合っていた。
風がエメロードの髪を揺らし、淡い金の髪が光に透ける。
──その姿を、アズールは無言で見ていた。
視線の先で、春風の中ただひとり微笑むエメロードの姿が、凍りついた心の奥に柔らかな波紋を描いた。
「皇帝陛下?」
エメロードに呼ばれて、彼はようやく我に返る。
翠玉の瞳と、氷の瞳が真っ直ぐに重なった。
ほんの一瞬。
けれど、その一瞬が、二人の間に流れていた長い沈黙を変えた。
春の陽射しが水面を撫で、白鳥の羽に反射するように淡い光が二人を包む──そのとき、世界は一度止まったかのように感じられた。
「……皇后、そろそろ出発を──いや……もう少し、ゆっくりするか」
視線を逸らしながら発されたその声は、わずかにかすれていた。
エメロードはそんなアズールを見て、小さく笑った。
嬉しそうな、可憐な微笑み──
その微笑みを見たとき、アズールの胸に生まれた小さな痛みと淡い熱。
彼自身はまだ、それを何と呼ぶのか知らなかった。
エメロードを見つめるアイスブルーの瞳が、わずかに溶けるように揺らめいている。
──穏やかな春の風が、ふたりの間を通り抜けていった。
* * *
その夜、エドモンが手配した宿に到着すると、皇后は早くに寝室へと入っていった。皇城と同様に、寝室は分かれている。
隣室で報告書を読んでいた私は、ふと、扉の隙間から灯りが消えるのを見て再び視線を落とした。
(皇后は、私の瞳を──恐れても、不快に思ってもいないようだった……)
アジュリットの湖畔で、初めて合った視線。
私を見つめた、翠玉のような瞳が浮かぶ。
彼女の瞳はただ、清らかだった。
何の期待も、わずかな欲さえも感じられない澄んだ眼差し。夜会や皇后選定の儀で感じた令嬢たちの視線とは、まるで違っていた。
そして、初めて間近で見た微笑みは、まるで花がほころんだようだった──あの姿を思い出すと、何故だか胸が苦しくなる。
小さくため息を吐くと、再び報告書に視線を滑らせる。几帳面な文字が並ぶそれは、エドモンが作成したものだった。
『今回の外交に皇后殿下を、ですか?』
皇后をルベライトでの外交に同行させると告げたとき、目を丸くしてエドモンはそう言った。だが、あの男は直ちに準備を進めた。
自分でも、何故彼女を同行させたのかはよくわからなかった。ただ、皇后を連れて行きたい──そう思った。
私は、再び皇后の眠る部屋の扉に視線を向けた。
(静かに過ごしてきた姫君だ。疲れたんだろう……明日は、大丈夫だろうか)
明日の外交の席は休ませるべきか……そう考えながら、少し経ったとき──
小さな呻き声が、扉の向こうからかすかに聞こえた気がした。
(皇后……?)
反射的に立ち上がると、静かに寝室の扉を開ける。
月明かりに照らされた寝台の上、彼女の淡い金の髪の隙間から、かすかに赤色が覗いていた。
一瞬、息を止める。
私は思わず、その金の髪に触れていた。
初めて触れる柔らかな髪。そっと指先で分けると、小さな白い左耳が覗いた。
(これは……)
耳の後ろに、血の滲んだ小さな傷が出来ているのが目に入る。
まるで何かでかすめ取られたような、真新しい小さな傷だった。傷の周りは赤く腫れ、手当てもなされていない様子に見える。
「……こんな、どうして……」
小さく呟いた声は、月明かりの中で彼女の小さな寝息に吸い込まれるように消えた。
私はそっと彼女に布団をかけ直す。その細い肩を温めるように。
だが、指先が震えていることに、自分でも気づいていた。
(明日の朝に確認をして──すぐに手当てをさせよう……)
私は小さく息を吐き、寝室を出た。
胸の奥が、知らぬ痛みにざわめいていた。
次回、第十八話「瞳の色の宝石(前編)」
※第十八話は、前編・後編に分かれています。
1/12(月)の朝晩に投稿予定です。




