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第十六話 いなくなった二人

 私はその日、いつも傍らにあった優しい光を失った──


 切り裂かれたドレスの修繕が終わった日の翌日。

 毎朝カーテンを開けてくれる、エリーズの姿が見えない。


(何かあったのかしら……)


 エリーズは、私のために全てのことをしてくれていた。他の五名の侍女たちの仕事ぶりを見かねて、彼女が全て担うようになっていたからだ。


 エリーズは体調を崩しているのかもしれない……私はそう思って、確認するために部屋を出た。


 ──だが……。


()()()()()()()エリーズ・リヴィエールは皇城勤めを辞め、実家に帰ったそうです」


 ──若い侍女が小声で告げた。


(そんな……エリーズが黙って辞めるなんて……)


 聞いた理由は、“家の事情”だと言う。

 けれど、侍女の多くは、皆どこか貼り付いたような笑みを浮かべていた。

 そして、近衛騎士隊のカミーユ卿が湾岸の砦に異動になったことも耳にする。


『皇后殿下の安全のために、身辺警護を配していただくようお伝えします』


 ドレスを切り裂かれ泣いていたあの日、力強くそう言ってくれた彼の姿を思い出す。


(皆、いなくなってしまうの……?)


 廊下を戻る際、すれ違う侍女たちが私を避けるように早足で姿を消す。侍女たちは私と目が合うたびに、互いに短く目配せして、音を立てぬよう裾だけを急がせた。


(エリーズ……)


 唯一頼りにしていた彼女は、もういない。

 心細さに涙がにじみ、俯いた私の頬を暖かくなり始めた風が撫でた。


 開けられた窓からは、庭の景色が見える。

 白く染まっていた庭は、いつの間にか若葉色に芽吹き、春の訪れを告げていた。春風に木々が優しく揺れ、愛らしい小鳥たちのさえずりが響いている。


「もう、春が来たのね……」


 大好きな季節のはずなのに、私の心は暗いままだった。


 そして噂は、あっという間に広がる。

 ──『皇后に関わった者は、消える』と……。


 * * *


 私はまず、修繕してもらったドレスを畳んだ。袖を通すこともできなかった、皇帝陛下からの贈り物──こらえようとした涙は、いくつもこぼれ落ちた。


(これは、トリフェーンの……)


 皇帝陛下がくださった、白薔薇の香水瓶──割られてしまったそれは、青い小箱に閉じ込めるようにしまっていた。

 そっと取り出すと、澄んだ甘い香がほのかに漂う。


(甘く優しい、香りだわ……)


 不思議と思い出したのは、贈り物を奪われたあの日ではなく、贈り物を受け取ったあの幸せな瞬間だった。

 私は、香水瓶に刻まれた白薔薇の意匠をそっと指で撫でた。

 宝石箱に唯一残されていたアクアマリンの欠片と一緒にレースのハンカチに包んで、引き出しの奥へとしまった。


 エリーズ以外に五名いた皇后付きの侍女たちは、彼女がいた頃と変わらず何もしてはくれなかった。

 冷めた食事だけは運ばれてきたが、忘れられることもしばしばあった。


 忘れられているわけではなく、運ばれていないのかもしれない。けれど、()()()食事の催促をする──その惨めさに、喉が固くなった。


 それからの私は、泣かなかった。

 あの日のように泣けば、また誰かがいなくなってしまう気がした。それに、涙をこぼしても、寄り添ってくれる人は誰もいない。


 代わりに、ドレスや髪を自分の手で整え、割られた花瓶の代わりに、庭の花を小さな器に挿した。エリーズがしてくれていたことを、一つひとつ思い出しながら。

 小さな器に挿した庭の花は、水を替えるたびに少しずつ顔を上げた。──私も、そうありたいと思った。


 そして、私は皇帝陛下に書簡を出した。

 皇帝陛下から贈られたドレスと宝飾品、そして化粧品のお礼と、お礼が遅くなってしまったことへのお詫び。

 それから、皇后として、私に何か出来ることはないのか。

 最後に、エリーズのことを聞こうとして、やめた。


(どうか……皇帝陛下が、読んでくださいますように……)


 私は丁寧に封をすると、皇帝付きの侍従を探し、手渡しした。

 もう、侍女は誰も信用できなかった。


 * * *


 皇帝の執務室。

 開かれた窓から入った柔らかな風が、白銀の髪を揺らした。


「皇帝陛下、例の噂の件ですが──」

「もう良い。くだらぬ噂に構っている暇はない」


 私は、エドモンのその言葉の先を聞きたくはなかった。

 しかし、そう言いながらも、沈黙したエドモンを少しうかがうと手元の書簡へと目を落とす。


「それは、皇后殿下からの書簡です」


 私は、それを開くことが出来ずにいた。

 封蝋の色は、あの日贈ったドレスと同じ淡い青。目に入るだけで、胸の奥が痛んだ。


(皇后は、私に何を……)


 『カミーユ・ベルトランの異動を取り消してください』──そんな内容が書いてあるのではないか。

 指先が封蝋に触れた。爪先で軽く押せば、今すぐにでも割れる。

 ──だが、割れない。割ってしまえば、自分の卑小さが露わになってしまう気がした。


(もう、あのことは考えたくもない……所詮は噂だ。もう忘れるべきだ)


 私は皇后からの書簡を机の引き出しにしまうと、立ち上がった。

 今は、この執務室から離れたかった。


 * * *


 夜、月が昇る頃。

 誰もいない回廊に出て、私はそっと空を見上げた。春の夜風が頬を撫で、遠くで雪解けの水が流れる音がする。

 いなくなった二人を思いながら、私は静かに祈った。


 ──どうか、二人が幸せでありますように。どうか、これから先は、誰も傷つきませんように……。


 それだけが、今の私の願いだった。


 * * *


 ──そして同じ頃、彼もまた願い、葛藤していた。


 私は、玉座の間に来ていた。

 普段は執務室でばかり過ごしている私は、ここへ来るのは久しぶりだった。

 玉座の奥へ近付くと、白い鳥がむくりと起き上がった。


(起きていたのか……)


 “聖鳥オパリオス”──今まで、視界にも入れないようにしていた、帝国の聖鳥。

 自分でも、何故ここへ足を運んだのか、わからなかった。


(何だ……?)


 オパリオスが何かを咥えている。

 近付くと、くちばしがそっと差し出された。


「これは……」


 手のひらに乗せられたのは、小さなエメラルドだった。煌めく澄んだ輝きに、あの日、窓辺から見た彼女の笑顔を思い出す。


 ──皇后の、瞳のようだ……。


 あの澄んだ瞳を、間近で見ることができたら──その願いが、胸の奥で小さくうずいた。

 私は、手のひらで煌めく宝石をそっと握り締めた。


「……怒っているのか」


 オパリオスの紫水晶のような瞳は、こちらを睨んでいるように見えた。

 聖鳥に見つめられ、しばしの沈黙が流れる。


「どうしたら良いのか、私もわからないんだ……」


 あの日まで──私は、『聖鳥の皇后』に関わるのを避けてきた。

 初めて会った日から視線も合わせず、婚礼の儀でも、花嫁だった彼女に酷い態度を取った。

 ほんの一瞬だけ口付けた、柔らかな唇の感触を思い出し、胸がひどく締め付けられる。


 初夜は顔も見せず、彼女を独りにした。

 そのことをアガタからひどく責められたが、政務にかまけて気に留めないようにした。

 私は、彼女との特別な時間よりも、当然のように政務を優先した。たった独りで嫁いできた花嫁の気持ちなど、考えもしなかった。


 それからも、彼女とは一度も会っていない。


 贈ったドレスや宝飾品を、未だに彼女は身につけていないらしい。恐らくは、化粧瓶も開けられていないのだろう。

 アガタには、『当然の結果』だと言われてしまった。


「皇后……」


 懐から取り出した、彼女へ贈ったものと同じ香水瓶を握り締める。

 トリフェーンの白薔薇──その香りに彼女の姿が浮かび、選んだ香水。蓋をしていてもかすかに漂う甘く澄んだ香りに、あの日見た春の陽射しのような微笑みを思い出す。


(私は彼女を、どれほど傷付けてきたのか……)


 オパリオスが小さく鳴いた。その鳴き声が、何を意図するのか──私には、わからなかった。


 今更、彼女にどう接すれば良いのか──

 侍従から聞いた彼女の様子と、あの雪の日に窓辺から見た姿──いくら後悔しても、全てが遅いことは分かっていた。


 それでも、胸に焼きついたあの笑顔を忘れることはできそうにない──

 窓の外、雪解け水が一雫流れた。

 オパリオスの澄んだ紫水晶の瞳が、じっと私を見上げていた。

物語は、芽生え始めた想いが募り、

愛へ向かう第四章へ──


次回、第十七話「初めて交わす視線」



読んでくださっている皆様、

ブックマークや評価、リアクションをくださった皆様、

本当にありがとうございます!

とても励みになっています。

これからも物語を楽しんでいただけると嬉しいです。

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