第十五話 すれ違う心と偽りの噂
──その感情が何なのか、私はまだ理解していなかった。
「皇后の様子はどうだ? 贈ったものは気に入っているだろうか」
「それが……」
侍従の返答に、声を失った。
皇后は、図書室で借りた本を部屋で読んで過ごし、先日贈った宝飾品もドレスも身に着けていない様子だという。
贈り物は全て、私なりに彼女に似合うものを選んだつもりだった。
(──気に入らなかった、のか……)
贈ったドレスの中には、あの日皇后が着ていたドレスの色に似ているものもあったはずだが……。
ため息を吐いた私は、執務机に並べられた本を手に取った。皇后が借りて読んでいたという本だ。
(『聖鳥オパリオスの伝説』、『サードニクスの植物誌』……帝国のことを、知ろうとしてくれているのか)
胸の内にわずかな熱が灯るのと同時に、罪悪感のようなじわりとした痛みが広がる。
──これは……。
「帝国騎士……」
濃紺に銀色の装飾が施されている本を眺める。
(……姫君は、このような本も好むのか)
──彼女のことは、何も知らない。
初めて会った日から目も合わせず、言葉を交わしたこともない。初夜は顔も見せず、それからも私は……。
「嫌われて当然、か……」
小さく呟いた言葉は、執務室の静けさに溶けて消えた。
気付けば、振り返り窓の外を見つめていた。
あの日、窓辺から見た笑顔が遠く霞むようで──それでも、あの翠玉の瞳を脳裏から消すことは出来なかった。
* * *
皇城西棟の端にある小さな応接間に、再び二つの影があった。
「上手くやったようですわね」
「はい……これを」
影から差し出された小箱には、美しい宝飾品がいくつも入っていた。
薄暗がりの中、淡く煌めくそれを握り締めた女の指先が、かすかに震えた。
(皇帝陛下が、これをあの女に……)
応接室の鏡の前で、女が小箱から取り出したネックレスとイヤリングを身に着ける。
──あの方の皇后の座には、わたくしこそが相応しいのに……。
ストロベリーブロンドの髪から覗くアクアマリンのイヤリングが、薄暗がりに淡く煌めく。花や雫をかたどったそれらの宝飾品は、可憐で儚げな光をまとっていた。
「わたくしの方が似合うわ……そうでしょう?」
(どうせ、見すぼらしい皇后を見かねた侍従にでも言われて、適当に準備させたんだわ……わたくしが付けていても、誰も気付かないはず)
「この宝石は、わたくしにこそ相応しいもの……それより、何が報告があるんじゃなくて?」
鏡を満足そうに眺めながら、女が背後の影に問い掛ける。
「はい。皇帝陛下の近衛騎士が、皇后の部屋に入って行くのを見ました」
影の言葉に、女が振り返って笑う。
「それは、本当なの……?」
「はい……扉が開かれたままだったので、よく見えました」
女が楽しげにくつりと笑った。
「二人は何を?」
「何も……近衛騎士はすぐに出ていきました。宝石を持ち出した、すぐ後のことです」
影の返答に、女は「そう……」と途端につまらなそうな表情を浮かべた。
だが、女はイヤリングに触れながら、不意に笑みを浮かべる。
「噂を流してちょうだい」
女の微笑みに、影が喉を鳴らした。
「冷遇された皇后と、皇帝陛下直属の近衛騎士の密会……皆、大好きなお話でしょう?」
影は、何も答えなかった。
「それと──」
鏡越しに自分の姿を眺めながら、女は淡く笑う。
「あの女の傍に、目障りな侍女がいるみたいですわね」
「筆頭侍女のことでございますか?」
「ええ……退いていただきましょう。静かに、ね」
影が一礼して姿を消す。
アクアマリンの儚い光が、鏡の中で冷たく揺れた。
(これで、あの女は……)
カーテンが閉められた窓の外では、溶け始めた雪が庭を淡く染めていた。
* * *
翌日、ある噂が皇城を駆け巡った。
“皇后と近衛騎士が恋仲”だという噂だった。そして、その近衛騎士は、トリフェーンから皇后を護送したカミーユ・ベルトランだという。
「何かの間違いです。私が確認いたしますので」と必死に進言するエドモンの言葉は、皇帝の耳には届かなかった。
書類にインクが滲み、アズールはペンを止める。
(まさか、あのカミーユが……トリフェーンに迎えにやったときからか──それとも……)
カミーユを呼び出し、問い詰めようと考えるもやめる。
噂など、取るに足らぬことだ──そう思おうとした。あの生真面目な男に限って、そのような真似をするはずがない。
だが、噂と耳に残る名を、どうしても頭から追い払えない。
近衛騎士カミーユ。皇后選定のため、トリフェーンへ彼女を迎えにやった男。
(あの日以来、接点などないはずなのに──)
『皇后殿下の身辺警護のため、急ぎ近衛を配するべきかと存じます』
──あれは、自分を皇后の近衛にしろという意があったのか。
不快な感情が胸を覆っていく。
(いや、私が距離を置いたからだ。彼女を孤独にしたのは……この私だ……)
彼女の境遇を思えば、自分に二人の関係を問いただす資格などない。そう思った。
(この、本は──)
『帝国騎士物語』──執務机に置いたままだった、彼女が読んでいたという本が目に入る。
──カミーユを想って、読んでいたのか……。
そんなはずはないと思いながらも、今まで通り、冷静にあの男の顔を見られる自信がなかった。
それに、もし、彼女と一緒にいるところを見てしまったら──
不意に、あの亜麻色の髪の若い騎士に微笑みかける彼女の姿が浮かんだ。見たこともないその情景に、何故か胸が苦しくなる。
「……カミーユを、湾岸の守備隊へ異動させろ」
そう命じた言葉が、執務室の空気をわずかに震わせた。
「皇帝陛下……」
エドモンの掠れた呟きだけが、静かな部屋に落ちた。銀縁の丸眼鏡の奥で、穏やかな薄茶色の瞳が静かに揺れている。
だが、理由は問われなかった。誰も、皇帝の沈黙を破る者はいない。
私は報告書に視線を戻しながら、静かに息を吐いた。
(これでいい……皇后の品位を保つためだ)
噂は、所詮噂でしかない──そのうち、消えるはずだ。
そう言い聞かせながらも、胸の奥に滲む痛みは、どうしても消えなかった。
* * *
夜になった執務室。
静寂が満たす部屋に、不意に慌ただしい足音が聞こえてくる。
乱雑なノック。言葉を返す間もなく扉が開いた。
入ってきたのは、カミーユだった。
「皇帝陛下! 自分が湾岸の砦に配属されることは受け入れます。ですが、皇后殿下の傍に、必ず近衛騎士を置いてください!」
「カミーユ、やめなさい!!」
背後から現れたエドモンが、カミーユを制するように割り込む。
「……エドモン、早く下がらせろ」
「誰があの方をお守りするんですか?! 皇帝陛下は、あの方がどんな目に遭われているかご存知ない! 皇后殿下は──」
「カミーユ、来なさい! 皇帝陛下、何卒お許しください」
「皇帝陛下、皇后殿下をどうか──」
「失礼致します」とエドモンに押さえられ、カミーユは執務室の外へと消えた。
『皇帝陛下は、あの方がどんな目に遭われているかご存知ない!』
先程、カミーユが叫んだ言葉がこだまする。
「私に、それを言うのか……」
確かに、私は彼女を見てこなかった。
だが、今は──
振り返ると、窓の外には闇が広がっていた。その端に、ほのかに灯る光が目に入る。
(皇后……)
西棟の二階にある、彼女の居室だった。
トリフェーン王国に迎えを送る際、聖鳥の皇后候補と距離を置くために、出来るだけ自分の領域から離れた部屋を指定した。
西棟を指定したのは、この寒い城で、少しでも彼女の故郷に近いほうが良いかと思ったからだった。それはただ、何となく浮かんだだけで──
「遠いな……」
窓越しにその灯りに触れると、氷のような冷たさが指に突き刺さる。
胸を覆う息苦しさに、私は息を吐いた。
それでも、この胸のつかえは消えなかった。
次回、第十六話「いなくなった二人」




