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第十四話 壊された想い

 図書室に通い始めて数日が経った。

 夕刻。淡く沈む陽が、廊下の硝子を薄く染めていた。


(結局、“聖鳥の皇后”については何もわからなかったわ……)


 私は、借りていた本を図書室に返してきたところだった。

 期待して借りた聖鳥オパリオスに関する本は、聖鳥に関する伝承ばかりで、“皇后”についての情報は一つもなかった。

 サードニクスの植物誌はとても興味深かったので繰り返し読み、帝国騎士の物語は期待した内容ではなかったため、一度だけ目を通した。

 私は、この帝国のことを本で少しずつ学ぶことにしたのだ。


 私は新たに借りた帝国史の分厚い本を左手で抱え直すと、右手で薄青のドレスの裾を整えて、胸元のサファイアに触れる。


(とても、幸せな気持ち……)


 ──贈り物を受け取ったときと同じように、胸の奥が温かくなる。

 皇帝陛下から贈られたものを身に着けるのは、まだどこか気恥ずかしくて、それでも少しだけ勇気をもらえる気がした。

 いつか、あの氷のような瞳が私を見てくれる日が訪れるのではないかと──


(何かしら……)


 自室へ続く廊下へ入ったときだった。

 慌ただしい足音とともに、廊下の角の向こうに黒い後ろ姿が消えるのが目に入る。

 艶のある黒髪が一瞬だけ光をかすめた。


(……今のは、誰……?)


 胸のざわめきに少しだけ立ち止まると、窓越しに淡雪が舞う庭を一瞥してから、私は部屋の扉を開けた。


 ──その瞬間、息が止まった。


 絨毯に本が落ちる鈍い音が響く。

 部屋に充満するのは、白薔薇の香り。

 床一面に、切り刻まれた布の断片が散らばっていた。淡い春色の糸屑、裂けたケープの白い房。

 床で割れている硝子の欠片が、淡い夕陽を受けて冷たく光っている。


 信じられずに足を踏み出すと、足元で柔らかな布が悲鳴のような音を立てた。ドレスの切れ端から剥がれた水色のリボンが、涙の跡のようにヒールに絡みついている。


 チェストの傍の絨毯の上には、開いた宝石箱が転がっていた。

 震える手で取り上げると、中は空だった。お姉様からのお下がりの宝飾品も、皇帝陛下からの贈り物も──すべてが消えていた。


 私は膝をつき、震える指で箱の底を撫でた。

 そこに残っていたのは、小さなアクアマリンの欠片がひとつ。手のひらに載せると、それはまるでこぼれ落ちた涙のように光った。


(嘘だわ、こんな……)


 振り返ると、部屋中に広がる引き裂かれたドレスが現実を教えてくれる。

 私は、足元に落ちている白い毛皮のケープを手繰り寄せた。持ち上げると、切り裂かれた部分からは白い毛が舞った。


(これは、あのお二人がくださった……)


 帝国への道中、雪の積もる街でこの国の侍従官と騎士からもらった、暖かな心遣い。

 傍らに落ちている青い絹地の断片は、皇帝陛下からの初めての贈り物の青いドレス。


 床中に散らばる色とりどりの布地は、全て皇帝陛下から贈られたばかりのもの。それらには、まだ袖を通したことすらなかった。白薔薇の香水瓶も、まだ開けていなかった化粧瓶も、全てが割られていた。


(皇帝陛下が、せっかくくださったのに……)


 溢れた涙がいくつもこぼれ落ち、抱き締めた青いドレスとケープを濡らしていく。


「どうして……私が、何をしたというの……」


 かすれた声が、静かな部屋に落ちる。

 胸の奥で、必死に保っていた何かが静かに崩れ落ちていった。


 * * *


 カミーユは、廊下を一人歩いていた。

 行ってはいけないと思いながらも、皇后の居室のある西棟へと足が向いてしまっていた。


「あれは……」


 皇后付きの筆頭侍女が駆けてくるのが目に入る。

 その腕に、抱えられているのは──


「何があったんですか?!」

「あ……カミーユ卿」


 顔を上げたその侍女は涙ぐんでいた。

 切り裂かれた見覚えのある白いケープに、心臓が嫌な音を立てる。


「それは……どうしたんですか?」

「その、修繕に……」


 侍女の腕で守るように抱き締められた白いケープは、皇后殿下をこの帝国へ護送する道中にエドモン殿と一緒に贈ったものだった。

 その腕から垂れ下がる青いドレスも、無惨に切り裂かれている。


「すぐに、皇帝陛下にご報告を──」

「おやめください! ……皇后殿下から、止められております」


 首を横に振った侍女の瞳が大きく潤む。

 彼女は、「失礼致します」と一礼して走り去った。


(皇后殿下……)


 皇后殿下の身辺には、近衛は配属されていない──

 気付けば、西棟へ向かって駆け出していた。


(何故、侍女のひとりもいないんだ……)


 皇后の居室の周囲には、何の人影もなかった。


「皇后殿下! おいでですか?!」


 皇后の居室の扉を大きく叩く。聞こえない返事に胸騒ぎを抑えきれず、扉を開く。


「皇后殿下、失礼致します!」


 開いた扉からは、むせ返る薔薇の香り。

 目の前に広がる光景に、目を疑った。


 そこには、切り刻まれたドレスの中で泣きじゃくる皇后殿下の姿があった。


「あなたは……ケープをくださった……」


「皇后殿下……」


 見上げてきた翠玉のような瞳から、涙がいくつもこぼれ落ちていく。

 その瞳から、目を逸らせなかった。


 皇后でありながら、このような目に遭うなど考えられないこと──

 全ては、皇帝陛下のせいだ。この方に見向きもせず、身辺警護も配されないから……。


(この方を、お守りしなくては……)


「皇后殿下、ご無礼をお許しください。私は近衛騎士隊のカミーユ・ベルトランと申します。このままでは、御身が危険です。このことを、直ちに陛下にお伝えすべきかと──」


 皇后殿下は、涙をこぼしながら首を振った。


「どうか、皇帝陛下には言わないでください……陛下の御手を、煩わせたくないのです」

「ですが──」


 その時、開けていた扉から声が響いた。


「皇后殿下、修繕を依頼してきました。どこまで修復できるかはわかりませんが……他のドレスも全て修繕に出しますので」


「エリーズ、ありがとう」


 戻ってきた侍女に、皇后殿下は安堵の表情を浮かべた。

 その消えそうな微笑みに、胸が痛む。


「カミーユ卿……おいでだったのですね」

「はい。皇后殿下お一人では危険過ぎます。他の侍女は何をしているのですか」


 問い掛けた言葉に、落ちた沈黙。暗い表情で目を伏せた侍女に、胸の内に靄がかかる。


「やはり、皇帝陛下に──」

「カミーユ卿、どうか……」


 泣きながら首を振る皇后殿下の姿に、それ以上は言えなかった。


「……それでは、皇后殿下の安全のために、身辺警護を配していただくようお伝えします」


「カミーユ卿、ありがとうございます」


 深く頭を下げた侍女。

 涙を浮かべたままこちらを見上げている皇后殿下に一礼すると、部屋を出る。


(早く皇帝陛下に進言を……)


 皇后殿下の居室前の回廊を急ぎ足で抜け、皇帝陛下の執務室へと向かう。


 あの瞳を──涙を、忘れることが出来そうにない。

 これ以上、見てはいけないと思った。

 けれど、涙に濡れたその姿から、どうしても目を逸らせなかった。


(もし、自分が皇帝陛下なら──)


 無意識に握った手に力が籠もる。

 あの日と同じ雪が、城の外で静かに降っていた。まるで、誰かの涙のように──


 * * *


「皇后殿下の身辺警護のため、急ぎ近衛を配するべきかと存じます」


 近衛騎士のカミーユが執務室へ入ってきたかと思えば、急にそう告げてきた。


「……突然どうした」

「皇后殿下の安全のためです」


(皇后……)


「……この城には、充分な兵も近衛騎士も配置している。何の問題がある」

「警護の配されていない皇后など、聞いたことがありません」


 ──皇后の、近衛……。


 幼い頃、私が母に打たれる姿を見かねて、皇后ははに進言した近衛がいなくなった。その後、皇后付きの近衛が全て消えたことを思い出す。


「私の母は、近衛がいなかった」

「それは……ですが、皇后殿下の御身のためにも──」

「随分と皇后に肩入れしているな」


 私の言葉に、カミーユが声を詰まらせた。

 その様子に、何故か胸がざわついた。


(不愉快な、気分だ──)


「考えておく……もう下がれ」

「皇后殿下の安全のため、深くお願い申し上げます」


 カミーユは深く頭を下げると、執務室を出て行った。


 治まらない胸のざわめきに、深く息を吐く。


(この気持ちは……)


 暗くなり始めた窓の外に目をやると、淡雪が静かに降り注いでいる。胸の奥に残った棘のような痛みが、雪とともに静かに降り積もっていくようだった。

次回、第十五話「すれ違う心と偽りの噂」


読んでくださって、ありがとうございます!

次回より、月水金の朝の更新でお届けします。

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