第十二話 溶け始める氷
【第三章 皇城に訪れし春】のあらすじ
春の陽射しのようなエメロードの優しさに、皇帝の凍てついた心は少しずつ解けていく──
だが、それを許さない影が皇城に潜んでいた。
* * * * *
※ 作品のイメージイラストです。
──溶け始めたのは雪ではない。長い間凍りついていた、私の心だ。
自分しかいない、静かな執務室。
粉雪がちらつく窓辺に近付くと、吐息が硝子を淡く曇らせた。
(あれは……)
ふと、一面に広がる白の中に、淡く光るような水色が目に入った。
──皇后だった。
淡い金の髪を揺らし、ドレスの裾を雪に滑らせながら、慣れない足取りで必死に急いでいるように見える。
その姿は、まだ凍てつく雪の庭の中でほのかに灯る光のように見えた。
確か、この城に来た日もあのドレスを着ていた──
記憶の底で、氷の棘が刺さったかのような痛みが軋む。
まだ視線も──言葉も交わしたこともない、帝国の掟に定められた伴侶。
彼女は、皇帝である自分にも、周囲にも何も求めなかった。
侍従から告げられる報告によると、彼女は用意された部屋でひっそりと過ごしているらしい。
望んで輿入れしたわけでもない彼女に対しては、申し訳ない気持ちもあった。だが、私はどうしても彼女の瞳が見られなかった。
(まだ寒いというのに、なぜ外へ……いや、私には関係のないことだ──)
窓から離れようとした、そのときだった。
──子どもの騒ぐ声に混じって、泣き声が聞こえた。
窓の外。視線を向けた先で、まだ小さな少年が貴族の子らに囲まれていた。
降りしきる淡雪の中、泥を含んだ雪玉がいくつも飛ぶ。
少年は怯え、身を縮め、逃げ場を失っていた。
「──っ」
窓から見た光景に、思わず息を呑んだ。
* * *
いくつも飛んできた雪玉。
ひとつは私の頬をかすめ、他のいくつかが胸元や腕に当たり、ぼとりと地に落ちる。
胸元に冷たい泥雪がしみる。けれど、その冷たさよりも、背後で小さくうずくまる子の震えのほうが気になった。
「──この子が、あなたたちに何かしたの?」
そう問いかけると、貴族の子どもたちは顔を青ざめさせ、雪を蹴散らして逃げ去っていった。
「大丈夫? 大変だったわね」
振り返ると、うずくまっていた少年が涙を浮かべながら見上げていた。
「……お許しください」
「私は大丈夫よ。あなたは、怪我はない?」
屈んで、震える少年に目線を合わせる。冷たい雪の感触が足にしみるようだった。
泥のついた少年の顔を、持っていたハンカチで優しく拭う。
栗色の髪にかかった泥と雪を払い落とすと、再び少年が泣き出した。
「どうしたの? どこか痛い?」
「お……お召し物が……」
震えながら涙をこぼす少年の視線をたどると、ドレスが泥で汚れていた。
私は、彼を安心させるように笑顔を見せると、その涙をそっと指で拭った。
「大丈夫よ。あなたは何も心配しなくて良いの……さあ、暖かいところへ行きましょう」
微笑んで少年を立たせると、その手を握る。少年の手は氷のように冷え切っていた。
幼い頃、冬の日に母の温かな手に引かれて庭を歩いた思い出が蘇る。
(私も、お母様のように優しくありたい……)
握り返してくれた小さな手を温めるようそっと握ると、ゆっくりと雪の中を歩く。
「皇后殿下!」
ブランケットを抱えたエリーズが、慌てて駆けてくる。
「エリーズ、すぐに暖かいお湯を用意して欲しいの」
「こんな、無茶をなさるなんて……すぐにお召し替えを──」
「私は大丈夫よ。この子が、すごく冷え切っているの。ホットミルクとビスケットも用意してあげて」
「かしこまりました」
私は、エリーズから受け取ったブランケットで少年の細い肩を包む。
「美味しいお菓子を用意するわ。暖かい部屋で一緒にいただきましょう」
笑いかけると、少年もかすかに微笑み返してくれた。
ブランケットが彼の肩から落ちないようにしっかりと包み直すと、私は小さな背に手を添えて皇城へ入る。
このときの私は、皇城の窓から見つめていた視線の存在をまだ知らなかった。
* * *
日が沈み、執務室の窓の外はすっかり暗くなっていた。
『皇后殿下が、ご嘆願を──』
夕刻、侍従官のエドモンから告げられた報告。
『住み込みの使用人の子が、貴族の子ども達にいじめられているのを見かけました。今後、彼らが不当な扱いを受けぬよう、ご配慮いただきたくお願い申し上げます』
(自分のことに関しては、一切声を上げなかったというのに……)
浮かんだのは、毅然と子どもを庇った姿と、ためらいも見せず泥を拭った姿。自分が一度も向けられたことのない優しさを、彼女は迷いなく他者に向けていた。
そして、あの暖かな笑顔──
窓から見たその姿が、目に焼きついたように離れなかった。なぜ、あの笑顔がこれほど胸を締めつけるのか──自分でも分からなかった。
(私は、あんな微笑みは知らない……)
今まで、誰かがあのように自分を守ってくれたことがあっただろうか──そんな記憶は全く、思い出せなかった。
ふと、幼い日の記憶が甦る。
愛妾だけを寵愛した父は、母にも私にも関心を示さなかった。
嫉妬に狂った母からは、『皇帝に似ている』と毛嫌いされ、微笑まれた記憶も抱き締められたことも一度もなかった。
私に寄り添ってくれたのは、一人の侍女だけだった。
──『その冷たい目で、私を見ないで!』
母から、言われ続けた言葉だ。
私は、物心がつく前から母に叩かれ、拒絶されながら育った。
それが、私の日常だった。
だから、私は出来る限り女性を見ないよう避けて生きてきた。即位が決まるまで、表にほとんど顔を出さなかったのも、令嬢たちと関わらないようにするためだ。
母は、オパリオスに選ばれた“聖鳥の皇后”だった。だから私は、聖鳥も、聖鳥に選ばれた皇后も信じられなかった。
(エメロード……)
視線も合わせたことのない妻の名を、胸の内で呟く。
雪ににじむ光の中、彼女の指先が少年の涙を拭った光景が浮かぶ。
胸に刻まれた笑顔に、私の中の何かが軋んだ。
(これは……いったい何だ)
初めて覚える感覚に、息が詰まった。
冷たい硝子越しに、一雫が頬を伝い落ちた。それが溶けた雪なのか、凍り付いた心を溶かす涙なのか、自分でも分からなかった。
* * *
「陛下、夜も更けます。お身体をお冷やしになりませぬよう」
アズールが振り返ると、いつの間にか年配の侍女が温かな紅茶を盆に乗せて立っていた。
「アガタか……」
白髪の目立つ髪を後頭部でまとめたその女性は、穏やかそうな丸顔に微笑みを浮かべている。
いつもは鋭いアイスブルーの瞳が、かすかに和らいだ光を宿す。
「さぁ、温かいうちにどうぞ」
少し沈黙したアズールは、差し出された紅茶のカップを手にした。
「春が近づいているとは言え、今宵はとても冷えます──ここよりも雪に近いあの御方のお部屋は、もっとお寒く感じられるでしょうね」
アズールは、その言葉に視線を上げた。ひと呼吸おいてから、揺れるアイスブルーの瞳が伏せられる。
「アガタ……姫君は、何を贈られたら喜ぶ」
その言葉に、アガタはわずかに目を見開いてから、アズールに微笑みかけた。
「陛下は、何をお贈りになりたいのですか」
返された言葉に、アズールは少し沈黙する。
浮かんだのは、淡い水色のドレスを汚しながら子どもを庇った彼女の姿。
「……ドレスを、贈ろうと……だが、好みがわからない」
「普段お召しのドレスの色はご存じですか? お似合いになりそうなものを、陛下がお選びになるのが宜しいかと存じます」
黙り込んだアズールに、アガタは微笑みかける。
「ドレスに合う宝飾品も必要でしょうね。……これから春が来たら、お出かけになることもあるかもしれません。化粧品も良いかもしれませんね」
真剣な表情で考え込むアズールに、アガタは静かに微笑むと、一礼して部屋を去った。
アズールが窓の外に視線を戻すと、夜の闇の中を淡雪が降り注いでいる。
──もうじき、春が来る……。
彼の脳裏に、澄んだ翠玉の瞳が浮かんだ。
まるで春の木漏れ日のような、暖かな微笑みを……。
彼の胸の奥で、凍てついていた何かが溶け始めていた──
次回、第十三話「初めて触れた優しさ」
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ここからは、皇帝の視点も交えながら、
すれ違いや変化を描いていきます。
引き続き、物語を見守っていただけたら嬉しいです。




