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第十一話 嘲笑と悪意

 その日、回廊に不意に華やかな笑い声が響いた。

 振り向いた先に立っていたのは、ストロベリーブロンドの髪を陽光に揺らす美しい令嬢だった。

 自信に満ちた煉瓦色の大きな瞳が、こちらをじっと見つめている。


「初めまして、皇后殿下。お噂はかねがね伺っておりますわ……わたくしは、ローズ・サーペンタインと申します」


(サーペンタイン──確か、公爵家の……)


 エリーズから、国内の主要貴族については耳にしていた。

 サーペンタイン公爵家は古くから続く名門。『社交界の薔薇』と呼ばれる一人娘のローズ嬢は、皇后選定でも一番に有力視されていたのだと……。


 彼女は、私の頭の天辺からつま先までを、ゆっくりと見下ろすように眺めた。まるで、値踏みでもするかのように──


「……お美しいと聞いておりましたけれど、思ったほどではありませんのね」


 息を詰まらせた私に、彼女は赤い唇の端を上げた。


「あなた、まさか自分が“あの方”に相応しいだなんて──思ってはいなくて?」


 彼女の声が、白い回廊に澄んで響いた。甘やかな声音にも、その眼差しにも嘲笑の色がにじんでいる。


 私は、何も答えなかった。

 今の状況で、私が皇帝陛下に“相応しい”などと思えるわけがない。

 そして、いくら皇帝陛下から見向きされていないとは言え、私は正式に皇后として選ばれた身だ。それを、初対面で自ら声を掛けた上に、このような態度を取る彼女に私は動揺していた。


(まさか、この方が皇帝陛下の……)


 皇帝陛下に寄り添う、この美しい令嬢の姿が浮かぶ。私は、震える手を握り締めることしかできなかった。

 静かな沈黙の中、彼女はさらに笑みを深める。


「まぁ……初夜も、お独りでお過ごしになったそうですものね。ご自身でも分かっていらっしゃるでしょう? “相応しくない”と」


 そう言い放ち、高く笑う声が雪のように冷たい空気を震わせた。


(初夜のことも、知られているのね……)


 彼女は黙っている私を見つめ微笑むと、「それでは、御機嫌よう」と言って背を向けた。

 その足音が遠ざかっても、私は動くことができなかった。


 どこからか忍び寄った風が頬をなで、ほのかに雪の匂いがした。

 何もかもが静まり返っているのに、心の中だけがざわめいている。


「皇后殿下、大丈夫ですか」

「エリーズ……」


 いつから見ていたのだろうか、不意に現れたエリーズが心配そうな眼差しで駆け寄ってきた。


「私は大丈夫よ。……いつもありがとう」

「皇后殿下……」


 不安気に瞳を揺らしているエリーズに、微笑みかける。

 だが、不安なのは私も同じだった。

 夫である皇帝陛下とは、まだ言葉を交わしたことすらなく、本来であれば後ろ盾になるはずの自国のトリフェーンは力のない小国。ましてや、父王は幼い頃から私に見向きもせず、国を発つときも見送りすらなかった。

 私には、守ってくれる存在がひとつもないのだ。


(私は、どうすれば……)


 窓の外では、雪が静かに舞っていた。


 にこやかに微笑んでいたローズからは、“侮蔑”の感情だけでなく、悪意や敵意を感じた。

 婚礼の儀の翌日から、余所余所しい態度を取る者ばかりになりはしたが、この城でここまでの態度を取られたことはなかった。


 ──あの方が、皇帝陛下の想い人なのかもしれない。

 けれど、私だって、望んで皇后になったわけではないのに……。


 不意に、皇帝陛下と視線も合わなかった婚礼の儀を思い出す。

 氷のように冷たい、唇の感触も──


(あの方にとって、私はいないも同然の存在……“聖鳥の皇后”だなんて、名ばかりにも程があるわ……)


 ──それでも、私にはもう、ここにしか居場所がない……。

 冷たく、痛いほどの現実が心の奥に沈んでいった。


 * * *


 部屋に戻った瞬間、私たちは息を呑んだ。


「これは──」

「皇后殿下!」


 私たちを迎えたのは、寝台の上に散らされた、紅い花びらのような布の断片だった。

 それはまるで、誰かが私に残されたささやかな誇りを切り刻んだかのような光景だった。


「誰が……このようなことを」


 私の後ろから歩み出たエリーズが、震える手で布の切れ端を集める。それは、クロゼットに仕舞っていたはずの、お姉様が気に入っていた深紅のドレスだった。


「皇后殿下、すぐにご報告を──」

「誰にも言わないで」


 私の言葉に、振り向いたエリーズの表情は凍り付いていた。


「危険です。このような……もし、皇后殿下の身に何かあれば──」

「大丈夫よ。どうせこのドレスは、あまりに似合わなくて着られなかったものだから……」


 『大丈夫』──心にも無い言葉が口をついて出た。

 だが、その言葉以外言えなかった。

 この帝国の皇后であるはずの私には、近衛兵すらいない。

 トリフェーンにいた頃もそうだったが、申し出て受け入れられないことを考えると、とても言い出す気にはなれなかった。

 もし、この城でもそうなれば──これ以上、惨めな気持ちを味わいたくはなかったのだ。


(ケープ……)


 この城へ来る際に、親切な侍従官と騎士から贈られた白い毛皮のケープを思い出す。

 急いでクロゼットを開けると、そこにはまだ切り刻まれていない数着のドレスと、白い毛皮のケープがかかっていた。

 思わず、安堵のため息が漏れた。


「皇后殿下……?」

「これを、衣装箱に仕舞っておいて欲しいの」


 そっと差し出した白い毛皮のケープを、エリーズはにじんだ瞳で受け取った。


「かしこまりました……」

「ありがとう、エリーズ……あなたには、本当に感謝しているの」


 そう告げると、俯いた彼女の瞳から涙がこぼれ落ちたのが見えた。


「……エリーズ、泣いているの?」

「申し訳、ございません……皇后殿下のことを思うと、あまりに……」


(私のために、泣いてくれているのね……)


 肩を震わせているエリーズに、そっと触れる。


「ありがとう……この城で頼りにできるのは、あなただけだわ」

「勿体ない、お言葉です……何のお力にもなれず、申し訳なく……」

「そんなことはないわ。私がここにいられるのは、あなたが傍にいてくれるからよ」


 そう返して微笑むと、エリーズが泣き崩れた。


「お仕えする身でありながら、申し訳、ありません……」


 震えるエリーズの背をそっと撫で、私は微笑んだ。

 私のために泣いてくれる人を見るのは、初めてだった。


(私は、幸せね……)


 この凍えるような城で、彼女の存在だけが私の支えとなっていた。


 少し開いた扉の向こうから、冷たい視線が二人を見つめていた。

 それに気づく者は、まだ誰もいなかった──

物語は、凍てついた心が溶け始める第三章へ──


次回、第十二話「溶け始める氷」

※次のお話は、皇帝の視点から始まります。


読んでくださって、ありがとうございます。

今後のお話は、皇帝の視点や他の登場人物の視点が入ることもあります。

ぜひヒロイン以外の視点も、楽しんでいただけると嬉しいです。

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