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第九話 独りの初夜

 婚礼の儀が終わった夜、皇帝陛下は姿を見せなかった。


 暖炉の火が燃える音だけが、部屋の静けさの中に響いている。

 筆頭侍女の手によって丹念に磨き上げられた肌も、香油で手入れされた髪も、誰に触れられることもない。

 部屋は充分に暖かいというのに、純白の絹の衣も柔らかな寝台も、やけに冷たく感じられた。


 私は、寝台に座り、薄ぼんやりとした窓の外の雪景色を黙って眺めていた。身を横たえてまぶたを閉じても、眠気は一向に訪れなかった。


 立ち上がって、窓に近づくと雪が音もなく降り続いているのが見える。

 大聖堂に響いた祝福の鐘の余韻と、一瞬だけ触れた唇の冷たさだけが、棘のように胸の奥に刺さっていた。


 皇帝陛下が私に関心がないのは、単に私を気に入らないからなのか、他に愛する女性がいるからなのか……。

 窓の外、皇城の中央にある北棟の三階に、ひとつだけ灯る明かりが目に留まる。無意識に触れた硝子の冷たさが、指先に刺さるようだった。


(皇帝陛下は、どうされているのかしら……)


 皇帝陛下の寝室は、きっとこの城のどこかにある。けれど、そこへ続く道は、誰も教えてはくれなかった。

 第一、初夜に夫の寝室を訪ねる妻など、世界のどこを探してもいようはずがない。

 私はただ、あの氷のような瞳の夫をこの部屋で独り待つしかなかった。


 * * *


 その頃、遠く離れたトリフェーンの王城。

 王妃の部屋では、暖炉の炎が静かに揺れていた。

 アデルは、ソファに腰掛け葡萄酒を傾けながら微笑んでいた。

 先程休むために退室した、娘との会話を思い出しながら──


「お母様……あの背中の傷、見られたのかしら」

「さぁ。皇帝陛下はご高齢だから、気づきもしないでしょうね」


 火の粉が弾ける音だけが、ふたりの笑い声をかき消した。


 アデルは一人、グラス越しに暖炉の炎を見つめた。揺らめく炎に混じる金色に、先日城を訪れた若い商人の瞳を思い出す。


 ──丁度エメロードが帝国へ旅立った日の午後、マルジャーンの商人アインがこの城を訪れた。

 あの男は、夏にエメロードを妻に迎えたいと王に嘆願した。王は快諾したが、私が止めたのだ。


『背に傷があるような娘を、とても嫁がせられない』と。


 ただの商人風情ならどうでも良かった。

 だが、あの男の身なりや立ち振る舞いから、貴族──それも高位であることは明らかだった。


(私のアンブルを差し置いて、幸せになどするものですか……そのために、背中に傷を残してやったのだから)


 「エメロード……あの女の娘というだけで、気に入らないというのに」


(陛下は“国王”とは名ばかりで何の力もない――この国は、もう私のものも同然。……あの女の血を引くエメロードが、早く出て行ってくれて本当に良かったわ)


「せいぜい、老いた皇帝に愛されれば良いわ……でも、背中の傷を知られたら、追い返されるかしら」


 アデルは歪んだ笑みを浮かべると、揺らしていた葡萄酒を静かに煽った。


(その時は、あの女と同じように……)


 暖炉では、炎が煌々と燃え盛っていた。


 * * *


 エメロードが眠れぬまま夜が明ける頃、皇城の雪はさらに深く積もっていた。その白い世界のどこにも、その居場所は見えなかった。


 夜明け前の蒼い闇が、窓の向こうをゆっくりと溶かしていく。

 最後の蝋燭が静かに燃え尽き、部屋の中に淡い朝の光が満ちていった。


(朝が来たのね……)


 夜が明けた。

 眠れぬまま迎えた朝は、ひどく静かだった。窓の外では雪が音もなく降り積もり、白い光が部屋を淡く照らしていた。

 婚礼の余韻はすでに遠く、ただ冷たい現実だけが、静かにそこにあった。


 扉を叩く音で我に返る。


「皇后殿下、お目覚めでございますか」


 エリーズの落ち着いた声が響く。昨夜の柔らかな調子とは違い、どこか緊張を含んだ響きだった。

 私は「ええ」と答えて、ゆっくりと身を起こした。


 侍女たちが入ってくる。

 私はひとり、少しの乱れもない純白の寝衣に袖を通したまま、彼女たちの視線を受けた。

 そのうちの何人かが、一瞬だけ視線を逸らす。気の毒そうな目だった。


 ──皇帝陛下が、昨夜訪れなかったことを、彼女たちは知っている。


 エリーズが丁寧に頭を下げる。


「皇后殿下、朝食のご用意が整っております。……皇帝陛下は、早朝より政務にお出でとのことです」


「そう。……ありがとう」


 それ以上、何も言葉が出てこなかった。

 胸の奥で、冷たい雪解け水が滲むように、小さな痛みが広がっていく。


(考えても、仕方のないことだわ……)


 鏡の前に座ると、エリーズに髪をとかれる音が静かに響いた。

 その音の向こうで、壁際に佇む侍女の一人が小さく囁く声がした。誰の声かは分からない。けれど、何かを憐れむような、あるいは嘲笑うような響きだった。

 エリーズが素早くその場を制した。

 「控えなさい」──低く発された声に、部屋の空気が凍りついた。


 朝食は、銀の盆に載せられていた。

 香ばしいパンとサラダと温かいスープ。昨日と同じ、丁寧な献立。

 けれど、どれほど口にしても味がしなかった。

 窓の外を降り注ぐ雪のかすかな匂いだけが、胸の奥に染み込んでいくようだった。


 食後、侍女たちは静かに頭を下げ、部屋を辞した。扉が閉まる音がして、再び、静寂が訪れる。

 残ったのは、エリーズのみだった。


「皇后殿下、お召し替えを」


「ありがとう……」


 私がそう言うと、エリーズが「私たちに、礼など不要です」と返した。

 伏せられたその瞳は、どこかにじんでいるようにも見えた。


 窓の外では、まだ雪が降り続いている。その白さはあまりにも眩しく、目を細めるほどだった。


(この城でも、私はまた──)


 胸の奥で言葉にならない予感がうずく。けれど、それを形にすることはできなかった。


(それでも、優しくしてくれる人がいる……)


 私は、変わらずに接してくれるエリーズに感謝の念を抱いた。

 そして、窓越しに降り積もる雪を見つめながら、私は静かに息を吐いた。


(私は、何かを期待していたのかしら……)


 私は、この帝国の人たちに笑顔で歓迎されることなど、少しも期待していなかった。勿論、愛されることも……。

 それでも、“聖鳥の皇后”として選ばれた以上、今までとは違う──何かが変わるはずだと信じていたのかもしれない。


 雪は、今も静かに世界を覆い隠していく。

 その冷たい雪が、まるで私の心にも降り注いでいるかのように感じた。

次回、第十話「始まる冷遇」

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