第八話 婚礼の儀
皇后選定が執り行われた日の翌朝のことだった。
侍従官が部屋を訪れ、直ちに皇帝陛下との婚礼の儀が執り行われることが告げられた。
お母様から配された侍女と護衛の兵は速やかに皇城を後にし、私はよく状況を飲み込めないまま置き去りにされた気分だった。
「皇后殿下、これよりは私たちがお仕えさせていただきます」
部屋に現れたのは、六名の侍女だった。
筆頭侍女は、“エリーズ・リヴィエール”と名乗った。少しの乱れもなく後頭部でまとめられた焦茶色の髪と、凛とした細面が印象的な女性だった。
エリーズの後方に並ぶ侍女たちも、皆穏やかな印象だった。
「ありがとう……これから宜しくお願いしますね」
そう言って、どこか緊張した面持ちの侍女たちに笑いかけると、皆安堵の表情を浮かべた。
エリーズの話によると、皇帝陛下のお父君のイオス前皇帝はこの冬に崩御され、皇帝陛下は即位されたばかりとのことだった。そして、皇帝陛下のお母君の前皇后は、一年程前に旅立たれたのだと聞いた。
ただ、お二人がどのような方だったのかと問うても、エリーズの口からは語られなかった。
──何か、あったのかしら……。
けれど、瞳を翳らせて口ごもってしまったエリーズに、私はそれ以上は何も聞けなかった。
(お母様とお姉様が、皇帝陛下の即位を知っていたら、何か違っていたのかしら……)
──『サードニクスの皇帝はお父様よりも年上のはず──もし王子だとしても……わたくし、絶対に、絶対に嫌ですわ!!』
言い出したら聞かないお姉様のことだ。きっと皇帝陛下の即位を知っていても、何かしら理由をつけて断っただろう。
お母様だって、お姉様の言うことなら何でも聞くのだから……。
私は窓の外へと視線を向けた。
凍てついた硝子の向こうでは、雪が音もなく降りしきっている。
「皇后殿下」
筆頭侍女のエリーズが、恭しく頭を下げてから口を開く。
「早速でごさいますが、皇帝陛下と皇后殿下の婚礼の儀が明後日に執り行われます。本日は湯浴み後に採寸をさせていただき、皇后殿下の婚礼のお衣装をご準備いたします」
思わず息を呑んだ私に、エリーズはわずかに視線を落とした。
「採寸後は、婚礼の儀での作法を覚えていただかなくてはなりません」
(湯浴み……)
張り切っている侍女たちを前にして、胸の内を不安が覆っていく。
微笑もうとしても、私の唇は動かなかった。
* * *
「これは……」
湯で煙る浴場。柔らかな水音に重なるように、エリーズの息を呑む声が聞こえた。
ここにいるのは彼女だけで、他の侍女たちは隣室で控えている。背中を見られたくなかったからだ。
「……ドレスは、背中が見えないものをお願いしたいの」
「かしこまりました……皇后殿下、すぐにお手当を」
「大丈夫よ……もう、大丈夫だから……」
「皇后殿下……」
エリーズは小さな声でそう言うと、それ以上は何も口にしなかった。
この城には私を鞭で打つ人はいない。もう、傷が増えることもないだろう。
──『エメロード。これは、“躾け”よ』
お母様は、いつもそう言っていた。お姉様は勿論、お父様も助けてはくれなかった。
(もう、あんな日は来ないはず……きっと)
私は、花びらの浮かんだ香りの良い湯に首まで浸かると、まぶたをそっと閉じた。
* * *
翌々日の朝、婚姻の儀の当日を迎えた。
昨夜もその前の晩も、遅くまで婚礼の儀の作法を復習した上にあまり眠れなかった。
少し疲れが残っていた顔は、侍女たちによって施された化粧に覆い隠された。
登った朝陽が大きな窓辺から差し込み、部屋を淡く照らす。
外では雪が降り続いていたが、暖炉の火が燃える部屋は暖かく、婚礼の支度を手伝ってくれる侍女たちの笑顔に緊張もほぐれるように感じた。
「皇后殿下、よくお似合いです……本当にお美しい」
「皇后殿下のお美しさは、春の女神のようです」
口々に褒めてくる侍女たちに、恥ずかしくなって顔を逸らすと、大きな姿身に映る自分の姿が目に入る。
(まるで、私ではないみたい……)
首元まで繊細なレースに覆われた長袖の純白のドレスは、急ぎで仕立てられたとは思えないほどに美しかった。裾の刺繍には細かなダイヤモンドが散りばめられており、わずかに動くだけで繊細な煌めきがドレスを彩った。
髪は後頭部の高い位置で結い上げられ、頭上には大きなダイヤモンドがいくつもあしらわれたティアラが輝いている。ドレスの裾よりもずっと長いヴェールが、ひどく重く感じられた。
(私、本当に帝国の皇后になるのね……)
あまりに急な展開に追いついていない頭で、何度も繰り返した作法を思い出す。
「皇后殿下、そろそろ大聖堂へ……」
エリーズの声に、私は歩き出した。
* * *
荘厳な鐘の音が、大聖堂の天井に反響した。
白い花弁が天井から静かに舞い落ちる。まるで、淡雪が降り積もるように。
(きっと、ここに立っていたのがお姉様なら、お父様もお母様も参列されていたはず……)
お母様の言葉通り、トリフェーン側からの参列者は一人もいなかった。
私の右隣に立つのは、この帝国の若き皇帝──アズール皇帝陛下。彫像のように整った横顔は息を呑むほど美しく、鋭い氷柱のような気配をまとっていた。
けれど、初めて会ったときと変わらず、その氷のような瞳が私に向けられることはなかった。
(皇帝陛下は、私のことを……)
一度も向けられない視線に、感じるのは冷ややかな拒絶。
冷たくされることには慣れているはずなのに、皇城の外を降り続く雪に包まれるように私の心も凍えるようだった。
トリフェーンにいた頃──暖炉の火が消えた部屋で、背に受けた傷の痛みに独り耐えた夜を思い出す。けれど、この城では、もうそんな日は訪れるはずがない。
(大丈夫……私は、耐えられる)
祭壇の奥に描かれた聖鳥オパリオスの翼が、陽光を受けて淡く虹色に煌めいた。
その光と、薄青のステンドグラスから差し込む淡い陽射しが、雪のように静かな聖域を包み込む。それはまるで、これが夢なのではないかと思わせるほどに美しい景色だった。
「……これより、皇帝アズール・サードニクスと、皇后エメロード・トリフェーンとの婚姻の儀を執り行います」
厳かな声が響いた瞬間、参列者たちは一斉に頭を垂れた。大神官が祝福の詞を読み上げ、白銀の杯を掲げる。
そして、皇帝陛下と私は、指示された通りに誓いの詞を読み上げる。
初めて聞いた皇帝陛下の声は、低く、淡々としていた。
誰もが、私たちの姿を見ようとはしない。
ただ、決められた所作のまま、沈黙だけが堂内を支配していた。
「婚姻の証──指輪の交換を……」
大神官から差し出されたのは、ふたつの白銀の指輪。
皇帝陛下が私の手袋を取ると、薬指に白銀の指輪をはめる。けれど、その仕草は機械的でいて、ひどく無造作なものだった。
胸の奥で、何かがひっそりと砕けた。
(──ああ、皇帝陛下にとってこれは誓いではなく、義務でしかないのね……)
私もまた、震えぬように皇帝陛下の手から手袋を取ると、同じ白銀の指輪をそっとはめ返した。その指の氷の棘のような冷たさが、心にも突き刺さるようだった。
それでも、私は参列者の前で完璧な皇后を演じなければならない。
「誓いの口付けを──」
私は、小さく息を呑んだ。
大神官の言葉に、思わず体が硬直する。わずかに震える手をそっと押さえ、皇帝陛下を見上げた。
(ほんの一瞬でも、皇帝陛下の視線が私に向けられるなら──)
彼の手が、私の顔を覆っていたヴェールを静かに持ち上げる。
だが、私の願いを嘲笑うかのように、そのアイスブルーの瞳は私を映さなかった。
私は、自ら望んでここに立っているわけではない──それでも、心が凍るように冷えていくのを感じた。
視線が交わらぬまま、私の前に立つ彼が温度のない手で私の両肩に触れると、屈んでからわずかに顔を傾けた。
次の瞬間、冷たい唇が私の唇に触れた。まるで、氷が触れたかのような口付け──
ほんの一瞬──瞬きをする間もなく、離れていく。
私にとって、初めての口付けだった。
それは誓いでも、愛の証でもなかった。ただ、義務として行われた“儀式の一部”にすぎなかった──
その冷たさが、胸の奥でじわりと広がっていった。
大神官が宣言する。
「この瞬間をもって、皇帝アズール・サードニクスと皇后エメロード・トリフェーンの婚姻を認め、サードニクス帝国に新たなる聖鳥の皇后が誕生したことを、ここに示す」
──聖鳥の、皇后……。
鳴り響いた鐘の音は、まるで遠くの氷原でこだまするようだった。
垂れた頭をそっと上げた瞬間、視えたのは、高窓の向こうを舞う雪。ステンドグラス越しに降り続くその雪を、見つめるものは誰もいない。
春の訪れを知らぬようなこの城で、私はその白さの中に、自分の未来を垣間見たような気がした。
祝福の拍手も、淡い花の香も、鐘の音も、隣に立つ夫も──何もかもが遠く霞んでいる。
ただ、どこからか吹いた冷たい風だけが、ヴェールの裾をそっと揺らした。
(私はきっと、この城でも──それでも、私の居場所はここにしかないのだわ……)
凍えそうな胸の奥で、自分にそう言い聞かせると私はそっとまぶたを伏せた。
その静寂の中で、鐘の音だけが、遠い空の向こうで鳴り続けていた。
次回、第九話「独りの初夜」
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9話は、夜に更新します。




