飛び出し事故ゼロの町
石畳は夜の雨をまだ吸いきれず、朝の光を鈍く返していた。
この町では、飛び出し事故が一件も起きない。交番の記録簿には、毎年同じ数字が二つ、等号で結ばれている。
飛び出し回数=事故未遂件数。
その等式は、偶然という言葉を拒むように、静かに記載されていた。
角ごとに置かれた木製の樽に、子どもたちが棒を差し込んでいく。木と木が噛み合う、乾いた小さな衝撃音が、朝の空気に散った。
私はそのたびに呼吸を止める。何も起きない。
「そういうときしか、あれは動かないんです」
婦人はそう言って、笑みの奥に何かを隠した。
ある日、軽トラックが角をかすめた瞬間、空気が裂けた。ブレーキの悲鳴、跳ね上がる影、運転手の苦笑——すべてが一呼吸の中にあった。
警官は記録簿に“未遂1”と書き込み、私はその光景を手帳越しに見つめていた。偶然ではない。そう思ったとき、胸の奥で何かが静かに沈んだ。
夕暮れ、古老は私を見据え、低く言った。
「命の糸が切れそうな瞬間にしか、あれは跳ねんのさ」
その言葉は、説明ではなく、町の呼吸そのものだった。
夜。街灯が黒い樽を照らす。
樽の口から突き出た髭面が、光を受けて、わずかに口元を緩めた。
それが笑みなのか、影のいたずらなのか、私にはわからなかった。
ただ、記録簿の等号は、今夜も揺らぐことなくそこにある。