辺境で静かに修理屋を営んでいただけなのに、瀕死の神獣を助けたら魔族に狙われて平穏が崩壊した件
僕の仕事は【調律師】だ。
この大陸の東の果て、大森林にほど近い辺境の街『縁の街ケレブ』で、僕は小さな工房を営んでいる。仕事の内容は人々が持ち込む魔道具の修理や調整。ピアノの調律師のように華やかなものではなく、街の便利屋といった方が実情に近い。
「よし、こんなものか」
僕は手の中の【方位を示す羅針盤】を軽く振った。冒険者ギルドに所属するという若い青年からの依頼品だ。なんでも近くのダンジョンに入ると針が狂って使い物にならないらしい。
針の軸受けに使われている微小な魔石の摩耗が原因だった。予備のパーツと交換し魔力の流れを正常化する。僕にとっては朝飯前の作業だ。
カラン、と店のドアベルが来客を告げた。
「レンさん、頼んでたコンパス、直ったかい?」
入ってきたのは依頼主である冒険者のカイルだった。まだ若いが、その目には歳不相応な真剣さが宿っている。
「ああ、ばっちりだよ。これでダンジョンの深層でも迷うことはないはずだ」
僕はカウンター越しにコンパスを手渡した。カイルはそれを受け取ると、慣れた手つきで魔力を通し、針が寸分の狂いもなく北を指すのを確認した。
「すごいな、レンさんの腕は! まるで新品だ。いや、新品以上かもな!」
「お代は銅貨五枚でいい」
「へへっ、助かるよ。これでまた稼げるってもんだ」
カイルは嬉しそうに銅貨をカウンターに置くと屈託なく笑った。彼はこの街では新顔だが、真面目な仕事ぶりで少しずつ評価を上げている。
「そういえば最近、森の様子が少しおかしいんだ。魔獣が妙に落ち着きがなくて、浅い階層まで降りてくる。気をつけてくれよ」
「忠告ありがとう。僕はずっと店にいるから大丈夫だよ」
「それならいいけどさ。じゃあな、レンさん!」
手を振って出ていくカイルを見送り、僕は一つ息をついた。
森の様子がおかしい、か。僕の工房は街の端、森の入り口に近い場所にある。何か異変が起きているのかもしれない。
まあ、僕には関係のないことだ。僕の仕事はこうして壊れた道具を直し、平穏な毎日を送ること。それ以上でも、それ以下でもない。
そう、今日までは確かにそう思っていたのだ。
◇ ◇ ◇
カイルが帰ってから数時間が経った頃だった。
店の外の空気がふいに密度を増した。まるで水の中にいるような圧迫感。工房の中にまで濃密な魔力が霧のように流れ込んでくる。店先に吊るした【魔除けの風鈴】がチリチリと悲鳴のような音を立て始めた。
これは尋常じゃない。
僕がカウンターの下に置いてある護身用の短剣に手を伸ばした、その時だった。
カラン、とドアベルが乾いた音を立てた。
そこに立っていたのは、この世の者とは思えないほど美しい女性だった。
雪のように白い肌に、月光を溶かし込んだような銀の長髪。深く澄んだ瑠璃色の瞳がまっすぐに僕を射抜いている。身にまとった純白のドレスは、どこの王侯貴族が着るものだろうか。こんな辺鄙な街で、いや大国の王都ですら滅多にお目にかかれない逸品だ。
しかし僕が注目したのはそこではなかった。彼女の全身から放たれる規格外の魔力。先程感じた圧力の正体は、この女性なのだ。
はぁ……。これは、とんでもなく面倒な客が来たものだ。
「ここが、万物を調律するという者の工房か?」
凛として鈴を転がすような声が響いた。しかしその声には隠しきれない揺らぎが混じっている。精巧なガラス細工に走った、目に見えないほどの亀裂。彼女が立っているだけで周囲の空間が悲鳴を上げているようだった。
「ええ、いかにも。僕が【調律師】のレンと申します。何かお困りごとでしょうか?」
僕は平静を装い、努めて丁寧に返した。下手に刺激するのは得策ではない。
「うむ」
彼女はゆっくりと頷き、カウンターへと歩み寄った。一歩進むごとに魔力の圧が強くなる。
「妾は……少し調子が良くないのだ。御身の腕でこの不調を治せると聞いて参った」
「不調、ですか」
彼女の顔色は悪くない。むしろ神々しいまでの美貌を保っている。だが僕の目には視える。彼女の内側で強大すぎる力が暴走し、その存在そのものを内側から破壊しかけているのが。
「分かりました。ですが事を進める前に、あなたの『不調』の原因を正確に特定する必要があります。僕の【権能】を使わせていただいても?」
「……許可しよう。妾の正体を知っても、決して怯むでないぞ」
彼女は少しだけためらった後、尊大な態度を崩さずにこくりと頷いた。僕は集中し、右目に意識を向ける。
僕が持つ権能、【鑑定】。
対象の本質を読み解くこの力は、僕が【調律師】を名乗るための根幹をなすスキルだ。
目の前の女性に意識を向けると、瞬間、脳内に情報の奔流が叩きつけられた。うわっ、情報量が多すぎる!
名前:ルーナ
種族:神獣
称号:【月の神狼】、【森の守護者】、【星霜の古き者】
状態:【神核】の律動不全、魔力過放出(臨界寸前)
総合危険度:SSS(推定)
……はぁ!?
思わず声が出そうになるのを奥歯を噛みしめて堪えた。神獣? あの、建国神話やおとぎ話の挿絵でしか見たことのない伝説の存在か? そんなものがなぜ僕の工房に……。
しかも状態が【神核】の律動不全、おまけに(臨界寸前)だと?
冗談じゃない。これは心臓発作どころの騒ぎじゃない。体内に超巨大な爆弾を抱えているようなものだ。これが暴発すればこの街ごと、いやこの国が一つ消し飛んでもおかしくない。カイルが言っていた森の異変も、十中八九この神獣様のせいだろう。
「どうだ? 妾の不調が分かったか、人間の小僧」
尊大な物言いは変わらないが、その声が震えている。本当は立っているのもやっとなのだろう。
「ええ、はっきりと。あなたの力の源……心臓部ともいえる【神核】そのものが深刻な不調をきたしています。このままではあなた自身が消滅するだけでなく、周囲に甚大な被害が及びます」
僕の言葉に彼女は瑠璃色の瞳をわずかに見開いた。
「……そこまで分かるか。多くの賢者や高位の治癒師にも、原因すら掴めなかったというに」
「僕は専門家ですから。それで、報酬はご用意いただけますか? これ、僕の命に関わるかなり大掛かりな【調律】になりますので」
「望むものを言うがよい。金銀財宝、伝説級の武具、あるいは望むならどこかの国の爵位でも用意させよう。だから、妾を……助けてくれ」
最後の言葉は懇願に近かった。よし、言質は取った。
僕は一つ頷くと、カウンターから出て彼女の前に立った。
「では、少し失礼します。絶対に動かないでください」
「なっ、何を……!?」
僕が彼女の額にそっと手を伸ばすと、ルーナは驚いて身を引こうとした。
「大丈夫です。あなたの核に直接干渉します。触れなければ【調律】はできません」
僕が静かに言うと彼女はおずおずと動きを止めた。その表情には緊張と不安、そしてわずかな希望が浮かんでいる。伝説の神獣も専門医の前ではただの患者というわけか。
僕は目を閉じ、全ての意識を右手に集中させる。
僕の本当の力、僕だけの権能。
【再創造】。
それは対象の存在情報を完全に読み解き、その設計図を最も理想的な状態へと書き換える禁断の権能。力の根源たる【神核】を調律するには、これを使うしかない。下手をすれば僕の精神が彼女の奔流に飲み込まれて消し飛ぶだろう。まさに命がけの仕事だ。
指先から柔らかな白金の光があふれ、ルーナの額に吸い込まれていく。
僕の意識は彼女の魂の最も深い場所へと潜っていく。そこは荒れ狂う星々の海だった。不協和音を奏でる銀河が渦を巻き、存在そのものが崩壊しようとしている。
これが神獣の【神核】……。
僕はその宇宙の中心で、ひときわ乱れた律動を放つ一点を探り当てる。
――調律、開始。
指先を指揮棒に見立て、僕は崩壊の音楽を書き換え始める。一つ一つの音を拾い上げ、正しい場所へと戻していく。気の遠くなるような繊細で緻密な作業だった。
◇ ◇ ◇
どれくらいの時間が経っただろうか。
現実世界で言えばほんの数分だったのかもしれない。
僕がそっと目を開けると、ルーナは呆然とした顔でその場に立ち尽くしていた。彼女から発せられていたあの刺々しい魔力の奔流は完全に収まり、工房を圧迫していた重苦しい空気も霧散している。
「……終わりましたよ」
「おお……おおお……!」
ルーナは自分の胸に手を当て、信じられないといった様子で呟いた。
「嵐のようだった力が凪いでいる……。こんなにも穏やかなのは何百年ぶりだろうか……」
彼女は僕の手を取りぶんぶんと上下に振った。その瞳には先程までの威厳は欠片もなく、子供のような純粋な感謝と興奮が浮かんでいた。
「感謝するぞ、人間の調律師! レンと申したか! さすがは妾の目に狂いはなかった! 約束通り報酬は何でも望むがよい!」
「そうですか。では遠慮なく」
僕はそう言ってニッコリと笑った。
「実はこの街に美味しいと評判のケーキ屋さんがありまして。そこの『まるごと苺のショートケーキ』を一ホール、お願いできますか」
「……は?」
ルーナはぽかんとした顔で固まった。金銀財宝や爵位を要求されると思っていたのだろう。その顔にははっきりと「なんで?」と書いてあった。
「それともう一つ」
「な、なんだ……?」
「よしよし、よく頑張りましたね」
僕はそう言って彼女の頭を優しく撫でた。
彼女の銀色の髪は絹のようになめらかで、とても気持ちが良かった。
「なっ、ななななな、無礼者っ! 神獣たる妾の頭を撫でるとは不敬にもほどがある……ぞ……?」
ルーナは顔を真っ赤にして抗議の声を上げた。しかしその声は尻すぼみになり、やがてゴロゴロと喉を鳴らすような音に変わった。その表情はまるで日向でくつろぐ猫のように蕩けている。
なるほど。この神獣様は撫でられるのが好き、と。
【鑑定】には表示されない意外な弱点を見つけてしまった。
「ふふっ、ありがとうございます。助かりました」
「う、うむ……。く、苦しゅうない。もっと撫でるがよいぞ!」
……この威厳はどこへ行ったんだ?
まあ喜んでもらえたなら何よりだ。僕はそう思いながらしばらく彼女の頭を撫で続けてやった。
やれやれ、とんだ大仕事だったがこれで一件落着。美味しいケーキにもありつける。
そう思って気を抜いた、その瞬間だった。
「――見つけたぞ、堕ちた神獣よ」
工房の扉が内側から吹き飛び、甲高い破壊音と共に邪悪な気配が雪崩れ込んできた。
そこに立っていたのは漆黒の礼装に身を包んだ一人の男。血のように赤い瞳とねじくれた角を持つ、見るからに高位の魔族だった。
「貴様は……魔公爵ヴァレリウス!」
ルーナが僕をかばうように前に立ち、鋭い声で叫んだ。その表情には先程までの甘えは消え、守護者としての厳しい光が戻っている。
「ほう、我を知っているか。光栄だな」
魔族――ヴァレリウスは歪んだ笑みを浮かべた。
「その力を暴走させ自滅するのを待っていたのだが……。余計なことをしてくれたな、そこの塵芥のような人間」
ヴァレリウスの赤い瞳が僕を侮蔑的に見下した。
どうやら僕がルーナを【調律】した際の力の奔流が、この厄介な客まで呼び寄せてしまったらしい。
最悪だ。
「貴様の狙いは妾の【神核】か。渡さぬぞ!」
「渡す、渡さないではない。我はただ、そこに落ちているものを拾うだけだ」
ヴァレリウスは右手を掲げた。その手にはおびただしい数の怨念が刻まれた【魔鋼のガントレット】が装着されている。
「まずはその人間を排除し、その後ゆっくりと貴様を解体してやろう」
ガントレットの先に闇色の魔力が凝縮していく。まずい、あれは即死級の魔法だ。
ルーナが防御結界を張ろうとするが、長年の不調から回復したばかりの彼女では万全の魔公爵には対抗しきれないだろう。
――仕方ないな。
僕は溜息一つつくと前に出た。
「ルーナ、下がっていてください」
「なっ、レン!? 無茶だ、お前では!」
「僕の店で僕の客に手を出そうというのですから。少しはホストとしての責任を果たさないと」
僕はヴァレリウスに向き直った。
「悪いがこの方は僕の大事なクライアントでね。ケーキをご馳走になる約束もしている。だからあなたに渡すわけにはいかないんだ」
「人間風情が……死にたいらしいな!」
ヴァレリウスが叫び、ガントレットから漆黒の破壊光線が放たれた。
それに対し僕はただ右手をかざしただけだ。
【再創造】――目標、魔公爵ヴァレリウスの【魔鋼のガントレット】。対象の構造情報を走査。魔力回路……発見。回路内に存在するナノメートル単位の不純物を特定。
――調律開始。不純物を起点に魔力回路のエネルギー流を強制的に逆流、増幅させる。
僕がそう思考した瞬間、ヴァレリウスが放った破壊光線は彼の腕の中で四方八方に弾け飛んだ。
「ぐわああああっ!?」
ヴァレリウスの絶叫が響き渡る。彼の【魔鋼のガントレット】は内部から魔力が暴走し、火花を散らして赤熱していた。自らの魔力によってその腕が内側から焼かれているのだ。
「な……にを……しやがった、貴様……!」
「さあ? あなたの魔道具が少し調子が悪かったんじゃないですか?」
僕は肩をすくめてみせた。
これが僕の戦い方だ。敵の力を直接ぶつけ合うのではなく、その力の源、武器や防具、あるいはその肉体そのものを「バグらせる」。どんなに強大な相手でも、その存在を構成する設計図に欠陥があればそこを突くだけで無力化できるのだ。
「おのれ……おのれぇっ! この我がただの人間に……! 覚えていろ調律師! 次こそ貴様の魂ごと、その生意気な能力を喰らってくれるわ!」
ヴァレリウスはそう吐き捨てると撤退用の転移魔法陣を展開し、屈辱に顔を歪ませながら姿を消した。
工房には破壊された扉から吹き込む夜風と、呆然と立ち尽くす神獣、そして僕だけが残された。
「……レン」
ルーナが信じられないものを見るような目で僕を見つめていた。
「あなたは、一体……何者なのだ?」
「ただの【調律師】ですよ。見ての通り店の扉も壊されてしまった。修理代、高くつきますよ、今回の依頼は」
僕はそう言ってわざとらしく溜息をついた。
ルーナは数秒間黙っていたが、やがてふっと微笑んだ。その笑みは先程までの神々しいものでも蕩けたものでもなく、一人の少女のようなとても自然な笑顔だった。
「ふふっ、そうか。ならば妾が責任をもって弁償しよう。扉だけでなく、お前のこれからの面倒も全て見てやる。妾の番……いや、専属【調律師】として、な!」
「はぁ!? ちょっと待ってください、話が飛躍しすぎだ!」
僕の抗議も虚しく、ルーナは妙にやる気になってしまったようだ。
遠くで街の衛兵たちが騒ぎを聞きつけてこちらへ向かってくる足音が聞こえる。壊れた扉から工房を覗き込み、目を丸くしているカイルの姿も見えた。
どうやら僕の平穏な毎日は、今日この瞬間をもって終わりを告げたらしい。
僕は天を仰ぎ、深く、深く溜息をついた。
まあ仕方ない。厄介な魔族に目をつけられ神獣に懐かれてしまったのだ。これからはただの修理屋ではいられないだろう。
僕は自分の右手を見つめた。
この力はただ壊れた道具を直すためだけにあるのではないのかもしれない。
これから始まるであろう騒々しくて面倒で、そして多分少しだけ面白い日々に思いを馳せながら、僕の新しい物語の幕が静かに上がったのだった。