第4話 消えゆく少女と、ミルの涙
「記録崩壊警報、レベル3」
朝食を食べていると、ミルの瞳に赤い警告表示が現れた。
「どうしたの?」
「第三記録病院で、大規模な記録消失が始まってます」
セピアが立ち上がる。その表情は真剣だ。
「急ごう。まだ間に合うかもしれない」
三人で時計塔を飛び出す。《写し世》の空に、不吉な亀裂が走っていた。
病院に着くと、建物の半分が既に崩れていた。白い壁が砂のように崩れ落ち、中の記録が虚空に散っていく。
「ひどい……」
「記録容量の限界です」ミルが唇を噛む。「古い記録から順番に、強制削除されていきます」
瓦礫を避けながら病院に入る。廊下には、消えかけた患者や医師の記録が彷徨っていた。
三階の病室で、私たちは彼女を見つけた。
ベッドに横たわる少女。10歳くらいだろうか。病院服を着た体は半透明で、今にも消えてしまいそうだった。
「記録残存率、12%……」ミルが呟く。
少女がゆっくりと目を開けた。焦点の合わない瞳が、私たちを見つける。
「だれ……?」
「私たちは、君を助けに来たんだ」セピアが優しく答える。
でも、少女は弱々しく首を振った。
「もう、いいの。わたし、きえるから」
「そんな!」
私は思わず前に出る。
「消えるなんて言わないで。きっと何か方法が——」
「あるよ」
少女が私のカメラを見つめる。
「それで、わたしを、うつして」
息を呑んだ。
「でも、君を撮ったら——」
ミルの瞳に、新たな警告が表示される。
『警告:新規記録により置換される既存データ』 『対象:最終診察記録/患者名:佐藤慎一/記録日:1937年12月24日』
「これは……」
「彼女を撮影すれば、別の記録が消去されます」ミルの声が震える。
セピアが静かに言う。
「見せて、ミル」
投影された記録には、ベッドに横たわる老人と、その手を握る家族の姿があった。
『お父さん、メリークリスマス』 『ありがとう……みんな、ありがとう……』
最期の時間を共有する家族。その温かな記録。
「この記録が消えれば、この家族の最後の時間も、永遠に失われる」
私の手が震える。カメラがやけに重い。
「でも、この子が消えちゃう」
「はい」
「でも、撮れば、誰かの大切な記録が……」
セピアが私の肩に手を置く。
「これが、記録者の責任なんだ」
その声は優しいけれど、どこか悲しい。
少女が弱々しく微笑む。
「いいよ……わかった……」
「え?」
「そんな、たいせつなきろくなら、けさないで」
涙が一粒、少女の頬を伝う。でもそれは、諦めの涙じゃなかった。
「でも、ありがとう。まよってくれて」
少女の体が、さらに薄くなっていく。
「それだけで、わたし、きおくにのこれたきがする」
「待って! 他に方法が——」
その時だった。
ミルの瞳から、涙が零れた。
「なんで……」
ミルが自分の頬に触れる。透明な雫が、指を濡らす。
「なんで私、泣いてるの? 冷却液の漏出? いえ、成分が違う……」
ミルが混乱したように自己診断を始める。
「心拍数の上昇を検知……でも、私に心臓はないはず。この胸部の圧迫感は何?」
「ミル?」
「分からない……システムエラー? でも、違う……この感覚は、データにない」
ミルは混乱していた。記録管理AIである彼女に、感情なんてプログラムされていないはずなのに。
「この子が消えるのが、悲しい? でも、効率を考えれば、より重要な記録を残すべきで……」
「それが、心よ」
私は優しく言う。
「効率とか論理とか関係なく、悲しいものは悲しい。それが心」
ミルが私を見る。涙で濡れた瞳が、初めて人間らしく見えた。
「心……」
少女が最後の力を振り絞って言う。
「ないて、くれるの? わたしのために?」
「……はい」ミルが頷く。「なぜか、とても……悲しいです」
少女が微笑む。さっきよりも、ずっと穏やかな笑顔で。
「それなら、いいや」
「え?」
「だれかが、わたしのためにないてくれた。それって、きろくよりも、すてきなこと」
光の粒子になって、少女が消えていく。でも最後の瞬間まで、笑顔だった。
「ありがとう……」
静寂が病室を包む。
ミルはまだ涙を流していた。初めて知った「悲しみ」という感情に、戸惑いながら。
「私、壊れたのでしょうか」
「違うよ」セピアが優しく頭を撫でる。「君は、成長したんだ」
「成長……」
私はカメラを見つめる。結局、シャッターは切れなかった。
でも——
「あの子、最後笑ってた」
「うん」
「記録には残らなくても、私たちの記憶には残る」
セピアが頷く。
「それも、大切な保存方法だよ」
ミルが涙を拭いて、呟いた。
「心って、不思議ですね」
「そうね」
「効率的じゃないし、論理的でもない。でも……」
「でも?」
「なんだか、温かいです」
崩れかけた病院を後にしながら、私は思う。
記録することの意味、残すことの重さ、そして消えることの悲しさ。
今日、ミルは大切なものを手に入れた。それは、どんな高性能なシステムよりも価値のあるもの。
「ねえ」ミルが言う。「明日の朝食、ユイの料理、また食べたいです」
「え?」
「だって……美味しかったから」
効率じゃなく、美味しさを理由にする。それは、小さいけど大きな変化だった。
「もちろん! 明日はもっと美味しいの作るね」
「楽しみにしてる」セピアも微笑む。
三人で時計塔への道を歩く。
消えた少女の記録は、もう戻らない。でも、彼女が残したものは確かにある。
ミルの心に宿った、温かい何か。
それは、どんな記録よりも尊いものかもしれない。
「あ」ミルが立ち止まる。「また、涙が……」
「嬉し泣き?」私が聞く。
「分かりません。でも……悪くないです」
夕日が《写し世》を染める中、三人の影——正確には二人の影と、影のないセピア——が、ゆっくりと時計塔へ向かっていった。
明日も、きっといろんなことが起きる。
でも今日、ミルが「心」を知ったことは、この世界にとって大きな希望かもしれない。
AIが心を持つ時、それは新しい物語の始まりなのだから。