第3話 朝食戦争と初めての撮影
「おはよう、ユイ」
優しい声で目が覚めた。セピアが部屋の入り口に立っている。
「もう朝?」
「こちらの時間でね。朝食の準備ができたよ」
着替えを済ませて食堂に向かうと、ミルがテーブルに奇妙な物体を並べていた。
灰色のペースト、立方体の緑色の何か、虹色に光る液体。
「これは……?」
「私が栄養効率を完璧に計算した朝食です」ミルが胸を張る。「タンパク質23.7グラム、炭水化物41.2グラム、脂質15.8グラム。ビタミンとミネラルも完璧に配合されています」
恐る恐るスプーンで灰色のペーストを口に入れる。
「!」
味がない。いや、味どころか食感すらない。まるで空気を食べているみたい。
「どう? 効率的でしょう?」
「効率的って……食事は栄養だけじゃないのよ」
私がキッチンに向かうと、ミルが首を傾げた。
「おかしいです。ユイの行動を見ていると、なぜか演算処理に遅延が発生します」
「え?」
「説明不能なノイズがシステムログに……これは故障でしょうか」
キッチンを覗くと、意外にも普通の食材があった。
「ちょっと、私が作るから」
「え? でも非効率的——」
「いいから見てて」
フライパンでベーコンを焼き、ふわふわのスクランブルエッグを作る。トーストにバターを塗って、シンプルだけど温かい朝食の完成。
「はい、どうぞ」
セピアが一口食べて、顔がぱっと明るくなった。
「美味しい! やっぱり温かい食事はいいね」
「でしょ? 料理は愛情よ」
「む〜!」
ミルが頬を膨らませた瞬間、自分で驚いたような顔をした。
「今、私の表情筋制御プログラムが勝手に……なぜ頬部が膨張?」
「それ、拗ねてるって言うのよ」
「拗ねる? データベースに感情表現として登録されていますが、なぜ私が……」「セピア様、私のも食べてください!」
「うん、栄養は完璧だね」
「それだけ!?」
朝から賑やかな食卓。なんだか楽しい。
食後、セピアが提案した。
「今日は《写し世》を案内するよ。実際に撮影してもらいながら」
「本当? 楽しみ!」
時計塔を出ると、白と黒の街が広がっていた。建物も道路も、まるで古い写真の中みたい。
「ここは記録街。過去の街並みの記録が実体化した場所」
歩いていると、半透明の人々とすれ違う。みんな昔の服装をしている。
「彼らは?」
「記録の人。完全な人格はないけど、記録された瞬間の感情や行動を繰り返している」
なんだか物悲しい。
「撮っていい?」
「もちろん」
カメラを構える。ファインダーを覗くと、不思議なことが起きた。
半透明だった人々が、はっきりと見える。笑顔で会話する家族、手を繋いで歩く恋人たち。みんな、生き生きとしている。
「すごい……カメラを通すと、まるで生きてるみたい」
「それが君の力」セピアが微笑む。「記録に命を吹き込む力」
シャッターを切る。カシャリ。
すると、撮影した家族が一瞬、完全な実体となった。
「ありがとう」
小さな女の子が私に手を振って、また半透明に戻っていく。
「今の……」
「君の写真は、記録を一時的に強化する。消えかけた記録も、もう一度輝かせることができる」
ミルが分析を始める。
「データ的に見ても興味深いです。通常、記録の実体化率は30%程度ですが、ユイの撮影後は一時的に95%まで上昇しました」
「そんなことができるんだ」
歩きながら、色々な場所を撮影していく。古い商店街、小さな公園、朽ちかけた橋。
どれも現実世界では既に失われた風景。でも、ここでは記録として生き続けている。
「ねえ、セピア」
「なに?」
「あなたも、誰かの記録なの?」
セピアの足が止まった。少し迷ってから、答える。
「うん。僕は最初に記録された人間。《アーカイブ》の実験台として」
「実験台……」
「父が開発者の一人でね。完璧な記録保存の証明として、僕を使った」
影がない理由が、少し分かった気がする。
「でも」セピアは明るく続ける。「おかげで君に会えた。それは良かったと思ってる」
胸が、きゅっと締め付けられる。
撮影を続けていると、ミルが突然立ち止まった。
「どうしたの?」
「この先は……危険です」
見ると、街の一角が黒く侵食されている。建物が歪み、空間が不安定に揺らいでいる。
「あれは?」
「ノイズ汚染区域」セピアの表情が曇る。「記録が壊れて、正常に実体化できなくなった場所」
「最近、増えてるんです」ミルが付け加える。「《写し世》の容量が限界に近づいている証拠」
やっぱり、この世界は危機的状況なんだ。
「私のカメラで、何とかできない?」
「危険すぎる」セピアが首を振る。「ノイズに飲まれたら、君の存在も記録も、すべて失われる」
でも、このまま放っておいたら……
その時、ノイズの中から何かが飛び出してきた。
「危ない!」
セピアが私を庇う。黒い触手のようなものが、セピアの腕をかすめた。
「セピア!」
見ると、触手が触れた部分が消えかかっている。
「大丈夫、すぐに修復される」
でも、明らかに痛そうだ。
「ユイ、カメラを」ミルが叫ぶ。「ノイズの写真を撮って!」
「でも、危険じゃ——」
「信じて!」
ミルの真剣な眼差しに押されて、私はカメラを構えた。
ファインダーを覗く。そこには、歪んだ記録の断片が見えた。泣いている子供、壊れた家、消えかけた笑顔。
「これは……壊れた記録じゃない。助けを求めてる」
理解した瞬間、私はシャッターを切った。
カシャリ。
フラッシュが炸裂し、ノイズが光に包まれる。歪んでいた空間が、少しずつ元に戻っていく。
「すごい……」ミルが息を呑む。「ノイズ浄化率78%。理論上ありえない数値です」
黒い侵食が退いて、元の街並みが姿を現した。
「ありがとう」
小さな声が聞こえた。さっき見えた子供の記録が、笑顔で手を振っている。
「ユイ」セピアが私の肩に手を置く。「君は本当に、この世界に必要な人だ」
なんだか照れくさい。でも、少しは役に立てたかな。
時計塔に戻る道すがら、ミルがぽつりと呟いた。
「私、今まで効率しか考えてませんでした」
「ミル?」
「でも、ユイの作った朝食も、今の撮影も……効率じゃ測れない価値がある」
そして、小さな声で付け加えた。
「もっと、人間のこと知りたいです」
「じゃあ、明日は一緒に料理しよう」私は提案する。「効率も大事だけど、美味しさも大事」
「はい!」
ミルの瞳が、初めて人間らしい輝きを見せた。
こうして、《写し世》での二日目が終わる。
まだまだ分からないことだらけだけど、一つ確かなことがある。
私は、この世界とそこに生きる人たち(?)を守りたい。
明日は、どんな記録に出会えるだろう。今から楽しみだ。