自販機のある風景
午前七時四十二分、最初の通行人が自動販売機の前を通り過ぎた。背広姿の中年男性、右手に革製のブリーフケース、左手は空いている。ちらりと自販機を見やったが、立ち止まることはなかった。マグネットのように引き寄せられた視線は、赤と白のコカ・コーラのロゴに一瞬だけ捕らえられ、そして解放された。
七時五十五分、女子高生の群れが通過。三人組。紺のスカートが風に揺れ、制服の襟が柔らかな春の日差しに輝いている。笑い声と断片的な会話が漂う。「だからさあ」「えー、まじで?」「あの人、絶対...」声は風に消えた。自販機は静かに待ち続ける。
八時十七分、最初の購入者。二十代後半と思われる女性、オフィススーツは明るいグレー。百円玉を三枚投入し、缶コーヒーのボタンを押す。機械的な音が静寂を破り、缶が転がり落ちる。女性は慣れた手つきでそれを拾い上げ、開ける。プシュッという音と、かすかに立ち上る湯気。彼女は足早に去っていった。
九時から十時まで、人通りは途絶えがちになる。時折、主婦らしき女性が重そうな買い物袋を提げて通り過ぎる。犬の散歩をする老人が一人。柴犬は自販機の下部を嗅ぎ、飼い主に促されて歩を進めた。
十時二十三分、制服姿の自販機補充員が到着。鍵を取り出し、前面パネルを開ける。機械の内部が露わになる。素早く効率的な動作で、空になった段を新しい商品で満たしていく。作業時間、六分四十秒。パネルが閉じられ、再び日常の装いに戻る。
十一時、日差しが強くなり、自販機の表面が照り返しを始める。商品写真の色彩が一層鮮やかに見える。通りを歩く人々の多くが、サングラスやマスクで顔を隠している。自販機は相変わらず、むき出しの正直さでそこに立っている。
正午近く、小学生らしき男の子が立ち止まる。財布から小銭を取り出し、慎重に数える。しかし、何かを決意したように首を振り、coins are returned とあるボタンを押す。小銭は戻ってきた。男の子は去り際に、もう一度自販機を振り返る。
十三時七分、雨が降り始める。最初は小雨。自販機の表面に細かな水滴が付着し始める。通行人たちは足早になり、傘が次々と開かれる。自販機の天板から雨だれが落ち、地面に小さな水たまりを作り始めた。
十四時十五分、雨は本降りとなる。水たまりは確実に大きくなり、通行人の足元を脅かす。自販機の表面を流れる雨水は、まるで涙のように見える。しかし、防水設計された機械は、淡々と稼働を続けている。
日が傾き始めた十六時過ぎ、雨は上がった。斜めに差し込む陽光が、濡れた自販機の表面で虹色に輝く。放課後の学生たちが三々五々、通り過ぎていく。笑い声、部活の道具を持つ者、制服のままのグループ。自販機は黙って彼らを見送る。
夕暮れが深まり、自販機の内蔵照明が自動的に点灯する。暖かな光が歩道を照らし、通り過ぎる人々の影を地面に投げかける。夜の帳が降りても、この機械は眠ることなく、次の朝を待ち続けるだろう。
この場所で、この自販機は今日も無言の証人として、人々の日常の断片を見つめ続けた。購入する者、通り過ぎる者、立ち止まる者。それぞれの物語の一コマに、静かに寄り添いながら。