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ぱんきち

みわかれまで

作者: 平松冨永




『パンと魔法と新世界』の番外編(前日(たん))に当たります

単独でもお読みいただけます







 気が付くと、空を見上げていた。晴れ渡った薄い青、(かす)れがちに棚引く白い雲。

 仰向けに寝そべっていた上体を起こす。

 見たことのない直線的な葉を持つ草、は、おそらくイネ科。

 平たい、すべらかな小石が目立つ土。触れれば砂礫(されき)と有機物が混在した、粘り気がないものだった。

 せせらぎの音。平坦な土地──そこを流れる、小川の岸辺。水は少し、濁っている。

 土に汚れた手を、見る。

 記憶にある自分の(てのひら)より、随分と小さく、まるっこい。腕の長さも太さも、違う。

 目に入った袖は、長すぎるのか折り返されていた。簡素な造りで、布の織りも粗い。生成(きな)りの、無漂白の色合い。

 爪は不衛生な長さで、横向きの溝がある。栄養状態が(よろ)しくないな、と嘆息した。


 顔に触れる。(ひげ)や皮脂の感触のない、もちもちとしつつ、ざらつきもある頬と(あご)だった。

 違和感があった。明文化できるほどの差異ではないが。


 両腕を回し、可動域を確かめる。だぶついた服の中で、四肢が泳ぐように思えた。背に回した手と手を繋げられ、上下に動かすことに抵抗がない。肩甲骨に支障はなく、若年層ならではの柔軟性を再認識する。

 立ち上がる。起立性の不快感はない。

 シャツは誰かのお下がり──にしても、丈が長い。同じ素材のズボンの膝近くまである。

 靴は動物の革を縫い合わせたもののようで、底も含めて薄く軽かった。


 身体は十歳前後、日本より乾燥した気候、第一次産業従事者ではない家業、といったところだろう。


 元が日本人男性であった記憶は残っていたが、個人情報に関することは思い出せなかった。

 名前、住所、携帯電話番号、役職、家族構成、親族や友人、恋人や仕事仲間、免許番号、メールアドレス、勤務先詳細、マイナンバー。郵便番号の一つも出てこない。

 随分と不自然だな、と思った。

 個人を特定できる情報のみが、(すみ)塗りされているような状態なのだ。社会構造や工業製品、組織図、一般常識の類いはそのまま記憶があり、想起(そうき)でき、説明もできる。

 職業上の専門知識、墨塗りされた書類、携帯ゲーム画面に自動車の運転方法まで想起は可能なのに。数ヶ国語と常用当用漢字、それ以外もしっかり覚えているのに。


 能動的な身体動作に難もなく、頭痛や目眩(めまい)や視覚的な違和もない。自然物の一般名詞の想起、短期記憶の記銘(きめい)と想起も可能で、譫妄(せんもう)でもない。

 逆行性部分健忘──創作物の題材にもなる、記憶喪失、というやつだろうか。


 だが医学的に「健忘に伴う若返り」なんて症状はない。

 記憶している限り、自分は五十代だったはずだ。


「……あー」


 声を出す。案の定、声変わり前の、ボーイソプラノ。舌で口腔と歯列を確かめると、ぐらつく乳歯が一本、あった。

 これは十歳未満かもしれない。

 四十年以上の若返りなんて、自分はクラゲだったのだろうか。




 さて。

 自分が誰だか分からない、此処(ここ)が何処か分からない、今の自分が何者なのか分からない、何故こうなったのかが分からない。分からない尽くしだが、行動は起こすべきだろう。

 履き物、労働痕跡や汚濁のない衣類から、どうやら学識商業管理階級にある家の子どもと推測できるが、この川原にいた理由は分からない。

 一先ず、自宅を探そう。

 正直言うと、パニック症状に逃避したいのだが──現状を鑑みると、それは非建設的であり非生産的だ。感情的衝動なぞ、周期表と数学公式と薬品構造式を暗唱していれば霧散する。


 この身長体格と歩幅を考慮すると、行動半径はそれほどではないだろう。

 水筒に類するものが周囲にもなかったことから、(かわ)きはそこの小川で水分補給をした、と推測できる。頑健な胃腸だ。日本人なら速攻で腹を下しているだろう。


 口腔に甘味や穀類の残滓(ざんし)がなく、行動食を()りながらの移動ではないと仮定、空腹感はそこまでない。

 と、なると前の食事から数時間程度、平均時速2キロメートルの徒歩移動として。


「自宅か居留地から10キロメートル未満、周辺は畑地で非舗装農道しかない以上は──この小川に沿った、運搬道路らしきあの道を使っての歩行移動」


 ならば選ぶのは、上流か下流か。




 そこで推理は行き詰まった。

 障害物のない平野部だが、目標や目印となる(なにがし)かがまるでない。

 この身体での可視範囲が分からないので──身長と視力が断定できない以上は、直線距離で(およ)そ3キロメートル程度と考えるべきだろうか──上流側にうっすら見えている建造物らしき影と、下流側に望める影形も曖昧(あいまい)ななにか、どちらが近いのかも断言できない。

 路面に足跡でも残っていないか、と道へ出て(うつむ)くも、砂利が目立つそこを素人目で判別することはできなかった。


「さて、どっちだ」




 散歩の延長線上であるなら、集落か町が見えなくなる距離までは進まないだろう。この場合は上流側に自宅がある、と推測できる。

 逆に感情的な勢いでの逃避行の場合は、出発点は下流ともとれる。自宅からより離れようという意識で、振り返ることがないのであれば。

 自分の意識が生じる一秒前までの、この肉体の人格も思考も記憶もないので、どちらなのか分からない。ヒントらしきものは他になにかないだろうか。


 前髪を引っ張って、視野に入れる。焦げ茶色、いや黒髪。縮れはなく、頭部全体的を触る限りでは、少し癖のある直毛のようだ。

 手指を見る。日本人よりは濃い色の肌だが、掌との色彩の差はさほどない。

 先ほど顔に触れた際に、彫りの深さや骨格に強烈な違和感は覚えなかった。自然と浮かんだのは、東南アジア。あの辺りの顔立ち、と予想する。


 世界地図の情報は、記憶から引き出すことが可能だった。

 島嶼(とうしょ)部と仮定する。

 潮騒は聞こえず、海の匂いがせず、水平線はおろか海岸も見えない。視界の果てに陽光を反射する水面もない──島であるならば、それなりに面積がある。

 振り返って見下ろした小川は、上流と下流とで極端な川幅の違いがないように見える。水源地から土地は傾斜していて、大きく蛇行していないということは地質が均一で土中障害物がない、と推測できる。

 周囲に山影がないことから、相応に開けた平野部。盆地でも窪地(くぼち)でもない。

 貯水機能を有する山岳部がない島、とは考えにくい。砂礫にはガラス質のものが含まれ、川岸の小石にも道の砂利にも、火成岩に似た斑紋(はんもん)が認められた。

 視界の外に火山帯があり、そこを水源とした川が水と石を運んできた、と解釈すべきだろうか。

 そして小川の向こうに広がるのは、水田ではなく畑だ。この小川の水を畑地に引く分水設備も見当たらない。天水農法が可能な降水量と作物、の組み合わせなのだろう。

 畑地面積から人口を計算できるか、と思ったが諦めた。収穫率と気候と栽培期間が特定できなければ、意味がない。


 次に島ではなく大陸である、と仮定する。


 くぅ。


 腹が鳴ったので、思考を中断した。




 上流に向け、歩き出す。帰宅になるか、家出の目的地となるかは、分からない。

 どうでもいいが、一人称を思い出せないのは地味に困る。私なのか僕なのか俺なのか、そしてこの肉体の子どもは己をなんと呼んでいたのか。


 砂利だらけの道は堅く、細い(わだち)の形の凹みが幾つもあった。車輪自体の幅は一般乗用車のタイヤ幅より狭く、凝視していくと道の中央に(ひづめ)の跡が見付かった。

 一頭建ての荷馬車、四輪構造と仮定する。

 牛馬の歩幅や蹄鉄の違いまでは分からないので、農耕牛かもしれない。

 道の中央には、踏み潰された糞が幾つもあった。藁混じりで乾ききっていて、蝿も(たか)っていない。

 日本本州、関東地方より低湿度で低降水量と仮定を増やす。


 「落とし物」がある以上、この道は運搬動物の屎尿(しにょう)の始末もされていないだろう。不定期でも有機物と水分供給がある土の道、なのに雑草と呼べるものの姿がない。

 発酵分解に必要な微生物の繁殖に足る、なにかが足りないのだろうか。温度か、湿度か。




 右手に小川、左手に畑地。

 電柱も送電線もない、木々もない広い空。

 防風林がないということは、風害になるだけの強風が吹かないということだろうか。


 記憶にある諸外国の景色を、次々に想起する。肌と髪の色から東南アジアを意識していたが、中央アジアや西アジアの方が近いかもしれない、と思った。

 だが、喉が痛くなるほどの空気の乾燥はなく、灌漑(かんがい)の概念すら怪しい呑気な農業、風害のない気配に、違うとも思う。

 降雨量に恵まれた水源地付近であれば、この風景に該当するのだろうか。




 なににも遮られず道を歩き続けていると、前方から馬に乗った人が駆けてきた。咄嗟(とっさ)に道の右端に寄るが、果たしてこの土地に右側通行の概念はあるのだろうか、と気になる。

 そんな自分を確かめた人は、馬を停めた。馬銜(はみ)(くつわ)に繋がる手綱を引き──頭絡(とうらく)部も(あん)部も、知り得る造りのものだ。(あぶみ)を使い下馬した人物は、自分に向かって言葉を発する。


「──」


 分からない。


「──!」


 恐らくは青年、黒髪、濃い肌。人種民族を明確に判別できる自信はないが、西アジアや南アジアの人々よりも、やや日本人っぽい顔立ちだ。

 着衣は自分のものと大差ない造りで、靴はもっと頑丈そうだ。実家の使用人か親の部下、といったあたりだろうか。


「──、──?」


 うん、言葉が分からない。

 これは困った。どうやら疑問系の語尾は上がるようだが、記憶にない言語だ。


「……──?」


 仕方がないので、無言で自分を指差してみた。呼称か個人名かが、分かるだろうか。


「──! ──、──!!」


 駄目だった。多分、今のは説教の類いだ。

 知り得る限りの言語で挨拶(あいさつ)でもしてみるべきか、と考えたが、すぐに却下する。偶然の発音の一致でとんでもない誤解を招くかもしれず、常識の差異によっては精神障害や認知症を疑われ──人権意識の有無や文化風習によって、殺害や拷問へ繋がる可能性もある。

 せめて自分の見た目が、以前のままであれば。

 いや、それはそれで異形の物の()間諜(スパイ)扱いか。

 ああ、自分を指差す行為もやるべきではなかったな。うっかり人差し指を立てたが、あれが殺処分を意味するものだったらどうしよう。


「──……、──」


 しみじみと、分からない。

 オールドタイプの日本人なので、一文字ずつの発音と筆記、単語と文法からはじめて欲しい。ヒアリングからのスタートは、苦手なのだ。


「……──」


 自分が(だんま)りを貫いていたからだろう、青年は業を煮やした顔で近付いてきた。抱き上げられ、馬上に乗せられる。うん、今更だが馬だ。乗馬クラブの試乗体験でしか知らないが、あの時のサラブレッドよりは高さが低いような。気のせいかもしれないが。

 ともあれ。

 この青年が人(さら)いか、この肉体の主の家族に繋がる者かは分からないが、現状。

 逃げることも逆らうこともできない以上、従うしかないだろう。できれば後者であって欲しいが。



 □ □ □ 



 結論。

 青年は味方であり、自分を両親らしき男女の元へと連れて行ってくれた。どうやら両親らしき人々は自分を怒鳴りながら抱き締め、心配をかけさせてしまったなあ、と思った。

 家出なのか事故なのか迷子なのかは、分からないが。

 町か村か集落か分からない建物群は、石と煉瓦と漆喰造りだった。連れ込まれた一軒は周囲のものより大きかったが、内装は華美でなく絨毯だらけで柱自体も石だった。

 この辺りでは地震は珍しいか、皆無なのかどっちだろう。


 言葉が分からない喋れない、と反応を確かめつつ控えめにジャスチャーを繰り返すと、母親らしき女性に泣かれた。

 辛い。

 二人と青年に連れられ、医者らしき老爺のところへ行った。分からない言語での問診には答えようがなく、多分両親と青年が、代わる代わるなにかを喋る。

 困ったなあ。

 この三人は、自分という子どもの絶対的な味方だと知れる。誰一人として覚えていないのが、申し訳なくなるくらい。


 診療所らしき建物にも、電化製品はなかった。聴診器、脈拍測定、心音確認、聴力の確認といった前時代的な診断に加え、口腔や瞳孔も(のぞ)かれる。

 部分健忘、いやこの肉体の子どもにとっては全健忘に当たる症状は、どう扱われるのだろう。

 三人の味方の顔を見上げ、その袖を順に握る。通じてくれ、と祈りながら。

 屈み込んで抱き締めてくれた──母の目元を拭う。父と青年が繰り返す言葉をヒアリングし、必死に復唱する。


「しんぱいするにゃ」


 ──僕が最初に覚えた連合国語は、とても可愛げのないものだった。



 □ □ □ 



 最悪の待遇どころか、言語学習を一からやり直させてもらえた。なんたる幸運、厚待遇だろう。

 感謝を示すべく、一年足らずで連合国語の筆記読解会話術を覚えた僕は、その勢いのままあらゆる学問に興味を示した。

 洋紙でない粗さの紙、木版印刷、中()じで化粧断裁もされていない本。それでも男女共に初等教育は義務化されており、児童労働は禁止されているようでなによりだった。


 地理地政学は高等学院で学ぶ、と聞いて愕然とした。


 生活用水は日本ほど潤沢ではない環境だったので、覚えている限りの口腔基礎衛生と再現可能な防疫に取り組んだ。父と青年──ではなく、年齢(とし)の離れた兄が交易商人だったことが幸いし、異邦人から得た知識、ということで誤魔化(ごまか)された。

 世界中で同時多発的に発生したものや、経験則から有用化され立証されたものに限れば、広まるのは早かった。

 蒸留器(ランビック)があったのは、幸いだった。




 (ひな)(まれ)見る学問好き、と呼ばれ──利口発明、でなくて良かった──特例で高等学院に入って、知った。

 ここは地球ですらないことに。

 人間がヒトであり、植物や動物が等しく、病原機序や物理法則、天体観測が同じであっても──ユーラシア大陸はなく、日本はなく、トマトもトウモロコシもジャガイモもなく。

 連合国と海を挟んだ北には、魔法を使う人々を(よう)する国々がある、と。


「……なんだ、そのファンタジーは」


 異次元の異世界に意識だけが飛ばされたのか、と僕は嘆いた。そういうのはアスリートか比較文化論者か歴史家、海外青年協力隊経験者か、伝統工芸作家あたりが向いているんじゃあないのか、と。

 神か悪魔か知らないが、ただの公務員をトリップさせてどうする。

 と、言うか。

 地球にいた僕はどうなったんだ。死んで転生したのか、意識だけがコピーされたのか、訳が分からない。


 むしゃくしゃして数学界を数百年進めてしまったが、反省はしていない。ギリシア文字とアラビア数字を導入したが、市井に影響が出るのは僕の死後だろうから見なかったことにする。



 □ □ □ 



 僕が北の海を渡り、新興国を(つい)棲家(すみか)に定めるのは二十年以上後のことになる。

 適齢期だと紹介される女性全員が、どう頑張っても孫より若く思えて生涯独身を貫いたが、僕は死ぬまで「魔法使い」にはなれなかった。


 異世界ではあのネットミームは、通じないらしい。








 

 






『パンと魔法と新世界』の某脇役の過去話でした。

正体が気になった方はそちらをご覧ください





閲覧下さりありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
あの方の前日譚ですね。 見知らぬ世界で如何ほどの苦労があったのか、なぜ海を渡る事になったのか、語られていない部分の物語を想像するのも良いもの(もちろん、語られても楽しいの)です。 >あのネットミーム…
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